2006年9月24日 礼拝

「真っ直ぐに創造を信じる」

聖  句 マルコによる福音書2章2328

   

 

23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。25イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。28だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

 

キリスト教会は、ユダヤ教から一週七日の制度は受け継ぎましたが、土曜日を「安息日」として守ることに代えて、日曜日を「主の日」として特別に聖なる日とするようになりました。私たちは今、その「主の日」の礼拝を守っております。日曜日をよく「安息日」と呼んだりしますが、正確には「主の日」というべきであり、教会にとってこの日は、復活された主イエス・キリストを記念し、その救いの御業(みわざ)の完成を感謝する日です。教会が誕生した聖霊(せいれい)降臨(こうりん)も、日曜日の出来事でしたから、この日は又主イエスの主権を世に告げ広める日でもあります。

 

 ところで、教会誕生当初は、「安息日」と「主の日」の両方が守られた時期もありましたし、「日曜日」が公的休日となったのは、四世紀の初め頃と言われますから、「主の日」が今日のような「日曜日」になるまでに、様々な歴史的な推移があったと思われます。いずれにしても教会にとって、「日曜日」は厳密に言えば「主の日」であって、「安息日」ではありません。しかし、主の復活によって神との関係を破っていた人間の罪がゆるされ、創造の秩序が回復されたのですから、神の創造を覚える「安息日」の意味をも、「主の日」を守ることの大切な要素として覚えることは意味あることでしょう。「主の日」である日曜日を「安息日」と私たちが呼ぶのは、あながち間違いとも言えないのであり、むしろ私自身は、「主の日」を「安息日」として守りたいと思っております。

 

 本日の聖書マルコ福音書2章2328節は、その「安息日」をめぐってイエスがファリサイ派の人々と論争をされた、皆様よくご存じのところであります。

 

 安息日は、神が七日にわたってなさった天地創造の業を完成されて、安息された、という創世記2章2節の記事に基づいて、ユダヤ教が厳守した聖なる日でした。週の七日目の土曜日、彼らは一切の労働を止め、神の創造の御業を感謝し、生かされている恵みを思って、生きる希望を新しくしたのです。ですから安息日を守ることは、ユダヤ人にとって信仰そのものと言っても良いことであり、十戒の第四戒に、その日を守ることが規定されています。そういう日ですから、その日についての規則は、ユダヤ教が危機に陥るたびに厳格なものになり、また時代が下がるにつれて次第に細かいものとなって増えて行き、その結果、本来の意味から離れた多くの無意義で煩瓊(はんけい)な規則になってしまい、かえって安息日の信仰を空洞化する結果を招くことになったのです。本日の箇所は、その点で一つの例となる話です。

 

 この話は、弟子たちが麦畑を通りすがりに、麦の穂を摘んで食べたこと、それをファリサイ派の人々が安息日の規則に違反すると問題にして、イエスを非難したという話です。他人の畑に入って鎌を入れて収穫しようとするなら、それは盗みであり許されませんが、手で摘んで食べることぐらいは良いという規定が申命記23章26節にありましたから、普段の日なら、それは問題にならないことです。しかし、この日は安息日ですから、穂を摘む行為は安息日に禁止されている「刈り入れ」の行為に該当するのではないかと、ファリサイ派の人々は考えて、弟子の行為は安息日の律法違反と批判したのです。

 

 イエスはこれに対してどう答えられたか。申命記には、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とありますから、手で穂を摘む行為と、鎌を使う「刈り入れ」行為とは明らかに別とされており、したがって、弟子のした穂を摘む行為は、安息日の律法違反に該当するものではありません。ですからイエスが、そうここで答えられたら、もうそれで良かったと思うのです。問題はそれでおしまいになることでした。ところが、イエスはそういう答え方をされなかったのです。その代わりになんといわれたか、それが2526節で、《ダビデの故事》を引用して、弟子たちのしたことは安息日の律法に差し支えるものではない、といわれたのです。これはどういうことなのでしょう。ダビデの故事は、旧約聖書サムエル記上21章2‐7節に記されていますので、それを読んでみましょう。

 

 

 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン5個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるならいただけますか」。

 

 祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています」。

 

 

 一読して分かりますように、これは安息日の問題とは全く関係のない内容であります。どうしてイエスはこんな関係のないことを答えにされたのか、一寸分かりません。それでこの2526節はイエスの言葉ではなくて、初代の教会が書き加えたものであろうとよく言われます。初代教会にとって、イエスの業を論証するのに旧約聖書を用いることは、よく使われた基本的な神学作業であったからです。ここも、何らかの意図をもってした書き加えであろうと言われます。しかし、それにしてはイエスがここで言われたことは、よく見ると、今お読みしたこの出典であるサムエル記上の故事とは、大分違っています。

 

 第一に、祭司はアビアタルではなくて、アヒメレクであります。

 

 第二に、供え物のパンは、ダビデが取って食べたのではなくて、祭司が与えています。

 

 初代教会がした神学的書き加え作業にしては、あまりにも間違いすぎているこの引用は、少しお粗末といわねばなりません。ですから私は、これは初代教会の書き加えではなくて、矢張りイエスが実際に言われた、ただしそれは、ファリサイ派への反論をするための咄嵯(とっさ)のことばですから、間違って引用してしまわれた、そう思うのです。その方が自然だと思います。イエスでも咄嵯(とっさ)の場合は、間違って引用される位のことはあると思うのです。イエスの言いたかったことは、律法、律法とお前たちは言うが、ダビデでも緊急やむを得ない場合は、律法を破って祭司以外食べてはならない供えのパンを食べたじやないか、《律法より人の命の方が大切》なのだ、ということであったのでしょう。

 

 先に指摘しましたように、手で穂を摘む行為は、安息日に禁止されていた「刈り入れ」に当たらないのですから、ファリサイ派からの批判に対して、イエスは「そうではない」という答えを、直ぐにきちんと律法に基づいてすることは出来た筈なのです。にも拘わらずそれをなさらずに、ここで敢えて関係のないダビデの故事を例として、《律法より人間の方が大切》と言われたのは、律法で物事を考えることに慣れきって、何でもかんでも律法の枠の中でしか考えられなくなっているファリサイ派の人々を、その枠から解放して、律法から離れて素直に物事を考えて見るようにさせようと、イエスが意図されたからではないかと思われます。

 

 

 そもそも律法は、人間が神の恵みに生かされた《感謝に生きる筋道》として、ユダヤ民族に与えられたものでした。そのことは、最も基本的な律法である所謂「モーセの十戒」が、出エジプトの途上シナイ山で、モーセを通して民族に授けられたものであったことが示しています。つまり律法は、救い出されたユダヤの民がその恵みに応えて生きる筋道であり、言うならば、人間が人間らしさを踏み外さないで生きるように与えられた、神の恵みだったのです。

 

 しかし、ファリサイ派の信仰がユダヤ教社会に支配的になっていたイエスの時代には、その律法は、それさえ守っておれば人間は正しく生きていることを保証される基準のようなものになっていたのです。そして、律法を守っているか否かですべてが片付けられて、《人間の姿のそのまま》が見られることのないままに、表面的に人間が扱われる根拠になってしまっていたのです。イエスはそこに、見せかけの信仰、偽善を見抜いて、繰り返し「ファリサイ派の人々に気をつけよ」(マルコ12:3840)と言われたのでした。イエスの宣教活動のねらいは、まさにユダヤ教をこの律法主義の偽善から解放し、心を尽くして神を愛する真の信仰を復活することにあったのでした。

 

 

 ですから、もしここでイエスが律法に基づいて答えられたら、たといそれがファリサイ派の質問に対して十分な答えになるとしても、所詮それでは律法の権威の下でのやり取りとなってしまい、律法の権威は相変わらず揺らぐことなく、ユダヤ教の立場は、そのまま手付かずに続くことになるでしょう。それではイエスの福音宣教の意味はなくなります。だからこそ、イエスはここで答えるに当たって、安息日の律法に関係なしに、ダビデの故事を突然引用して、《律法より人間の方が大切》と言わんばかりのことを言ってのけ、答えとされたのでした。イエスに言わせれば、安息日は、律法の前で、その日自分のしていることが適法か否かの問われる日ではないのです。創造者である神の前で、「生かされている者」らしく、人間を弁えて生きているか否かの問われる日なのです。安息日においては、《律法的合法性より、神の前の人間の被造性》こそが問われるのです。イエスはそのことを示そうと、ダビデの故事を語って、律法の枠をはずして、人間をそのままに見るようにしようとされたのです。

 

 そして更に、2728節と言われたのだと思います。この両節の意味は、「安息日は人間のためにある。決して人間が安息日のためにあるのではない。だから、人間を生かすことの方が、安息日の律法を守ることよりも大切なのだ」、そういうことでしょう。

 

 イエスは安息日の問題を、律法問題としては決して扱われないのです。そのお気持が、律法的に答えようと思えば答えられるファリサイ派の人々の質問に、全然関係ないダビデの故事を引いて、《律法より人間の方が大切》というお答えになったのです。つまり、安息日を律法の問題にしようとするファリサイ派の土俵には、イエスは決して上がられないのです。安息日を語る土俵は、イエスにとっては、天地をお造りになった神の創造に対する信仰、そこにしかないのです。

 

 考えてみれば、我々が男であったり、女であったりすることが、全く私たちの選択によることではないように、私たち人間は、自分の意思や希望とは全然無関係に存在させられているのです。存在するとは、そもそもそういう《受け身》のことなのです。私たちは思い上がっておりますから、平素気づかずにいますが、自分の思いとは関係のないところで決められたことを受け止め、時には否応無しに従わしめられる、被造物として存在するとは、本来そういうことなのです。そこでは、自分の好き嫌いなどは通らない、ただ受け止める、受容する、そこで人は初めて《被造物としてのそのまま》となり、神の安息にあずかるのです。イエスがここで、安息日問題に全く関係のないダビデの話を強引に持ち込まれたのは、律法主義によってでしか物事を考えられなくなっているファリサイ人に、このこと、即ち被造物の安息は、決してお前達の考えているような律法を守ることによって《獲得》しようとするところにはない、そうではなくて、生かされている自分の生の根底にある被造の現実、それをそのままを受け止める。《受容》するところにある、というまさにコペルニクス的転回、《律法より人間の方が大切》を、示そうとされたからではないでしょうか。

 

 

アメリカインディアンで、1786年から1886年まで100年間生きた人ですが、チーフ・シアトルと呼ばれた人がいました。今のワシントン州あたりの部族の長として、ヨーロッパからやって来た初期の植民者に協力をした人として知られております。1852年、アメリ力合衆国政府は、新しい移民のために、先住民族の土地を買いたいという話を彼に持ちかけました。その時、このチーフ・シアトルが書いた、時の大統領、第13代大統領フィルモア宛の返事が残っています。そこには、今問題にしている《被造物の安息》とはどういうものかを示す言葉が、見事に記されています。少し長いものですので、一部をご紹介いたします。

 

 

 「・・・大統領は土地を買いたいという言葉を送って来た。しかし、あなたはどうして空を、或いは土地を、売ったり買ったり出来るのだろう。その考えは我々には奇妙なものだ。もし我々が新鮮な大気を持たないからといって、或いは、きらめく水を持たないからといって、それを金で買えるのだろうか。

 

 この大地のどの一部分も、私の部族にとっては神聖なものだ。キラキラ光る松の葉のどの一本も、どの砂浜も、どの暗い森も、どの牧草地も、あらゆるものが、私の部族の思い出と経験の中では尊いものだ。

 

 我々は血管に血が流れているのを知っているように、木々の中に樹液が流れているのを知っている。我々は大地の一部であり、大地は我々の一部だ。香り高い花は、我々の姉妹だ。熊、鹿、鷲、彼らは我々の兄弟だ。岩山の頂、草原の露、ポニーの体温、そして人間、皆同じ家族なのだ。

 

・・・あらゆる物事は、つながり合っている。我々全てを結び付けている血と同じように、つながり合っている。人間は自分の生命を自分で織ったわけではない。人間は、その中でただ一本の()り糸であるに過ぎない。

 

・・・良く分かっていることが一つある。我々の神はあなたがたの神だ。大地はその神にとって大事なものであり、大地を傷つければ、その造り主に対する侮辱を重ねることになる。

 

・・・あなたがたの目的は、我々にとっては謎だ。バッファローが全部殺されたら、どういうことになるのか? 野生の馬をみな飼い馴らしたら、どういうことになるのか? 森の深い奥が大勢の人間の匂いで一杯になり、緑豊かな丘の景色が電話線で乱されたら、どうなると思うのか? 茂みはどうなってしまうのか? 消えてしまう! 鷲はどこに住むのか? 消えてしまうだろう! 命の終わりと生き残りの始まりだ。・・・」

 

 

 ほんのごく一部のご紹介になりましたが、皆さんはいかがでしょう。

 

 私はこれを読んだとき、深い感動を覚えました。これは詩ではありません。これは世界を、

神の賜ったものとしてそのままを受け止めている人に、実際に見えている被造物の世界そのものなのです。私どものように、思いのままに世界を変えられると思い上かっている者には、もうすっかり見えなくなってしまった世界なのです。約150年前のインディアンの一部族長の言葉は、今日の地球規模の環境破壊、そして、自分中心に凝り固まってしまった人間社会の荒廃がどこから来たかを、はっきり語っています。在りとし在るもの、大地も、山も、川も、森も、草木も、空も、海も、そして、生きとし生けるもの、獣も、鳥も、魚も、虫も、そして人も、全てがつながり合って、支え合って、補い合って生きるように、生かされているのです。そこには中心に立って他を支配するようなものは一つもないのです。それが神がお造りになったまま、そのままの存在の姿なのです。世界をあるがままに受容している彼らには、それが見えるのです。繰り返しますが、チーフ・シアトルは世界を詩的に描写しているのではないのです。生かされたものとして生きている彼に、実際に見える、安息に満ちた世界のそのままの描写なのです。

 

 土地を分けて欲しいという大統領の申し出を、インディアンの部族長は拒んでいるのではないのです。しかし、彼は大統領の申し出に違和感を禁じ得ないのです。金で土地を買う、そこには土地を自分のものにする、そして、自分の思い通りに支配し、利用しようとする傲慢、即ち、先程から申しております受容の正反対が潜んでいることを、彼は見抜いています。金で買ったら自分の物、自分の物は自分の思い通りに利用して何か悪い、そういう自分中心、人間中心が既にそこにあることを、彼は見抜いています。神が、存在する一切を造り給うたと思っている彼にとっては、それは何とも解しかねる考えなのです。しかし、困っている合衆国の新しい移住者のためには、土地を提供してあげたい、だから彼は、大統領の申し出を認めつつ言うのです。

 

 「・・・我々はこの大地を愛する。だから、我々が愛してきたのと同じようにそれを愛して欲しい。我々がその面倒を見たのと同じように、面倒を見て欲しい。あなたがたの心の中に、土地の思い出を受け取った時と同じまま保って欲しい。あらゆる子供たちのために、その土地を保護し、愛して欲しい。神が我々全てを愛するように・・・」

 

 

 日本列島改造と称して国土を乱開発し、土地バブルに踊った私たちは今、破壊された日本の環境の中で、病んでしまった、受け身を忘れた気ままな心に翻弄(ほんろう)されながら、親が子を殺し、子が親を殺す、何とも荒廃した社会生活を、高い付けとして払わされています。チーフ・シアトルの150年前の言葉に顔を上げられません。

 

 現代社会は便利になりました。しかし、安息がありません。快適にもなりました。しかし、

安息がありません。情報は瞬時にたくさん手に入るようになりました。しかし、安息がありません。思いどおりに変えて行けると思い、事実変えてきました。しかし、変えられない、受け止めるより仕方のないものが足元にあるのです。《生かされて生きている》、この根底にある現実は変えられません。それは受け止める、受容する以外に対しようがないのです。そして、それを受け止め、受容する時、安息があるでしょう。安息日にイエスが期待されたのは、チーフ・シアトルの語るような生き方になる、神の創造を真っすぐに信じて、与えられたそのままを受け止める《受容》、受け入れる、そのことであったのです。

 

 

 人間は確かに、神に代わって世界を支配するような、大きな委託を神より受けました。ですから、いろいろと都合の良いように物事を変えていくことができます。許されてもいます。しかし、大きな委託を受けたとしても、被造物であることに変わりはありません。人間はそれだけに、自分を中心にしないようにする謙虚さを、根源的に課題として負っているものなのです。逆に言えば、人間は生来、自分中心、人間中心の傲慢に流れるものなのです。ですから、安息日を守るたびに、私たちは生かされているものとしての命の不思議に圧倒される被造物感を、新たにしたいものであります。

 

 

 水上勉が、五木寛之との宗教対談の中で、一枚の葉から落ちる露の雫の光、そこに人生や愛を見る、人生や愛を感じる、そういうフィーリングに宗教の本質的なものがある、そういうことを語っております。確かに、被造物として抱く、命の根源に向かって開いた驚きの感覚、或いは、自分を中心に置き得ない畏敬の感覚とは、そういうフィーリングのことでしょう。このフィーリングが果たして自分にあるのか、それを自分本位でもうカサカサに渇き切った自分の心に問うてみる、それが安息日でしょう。安息は、神の創造を信じてその業を感じ、その業を受け止める、その《受容》にこそあるのです。真の安息の所在が《受容》にあること、それを教えてチーフ・シアトルの残した150年前の手紙は、今も新鮮さを失いません。

 

 

 皆様ご存知のキリスト者詩人、あの島崎光正先生は、二分脊椎症という病に苦しみながら

81年の生涯を生き抜き、私どもの心を打つ多くの詩を残されました。

 

 その一つに「天地創造」と題した、次のようなものがあります。

 

 

神は はじめに

天と地とを創造された

地は形なくカオスがその上を(おお)っていた

地球の柱時計はまだ眠ったままだった

不図(ふと) 神の指はうごめく

 

 

 島崎先生は、ご自分の病を神の指の動きによるもの、神の創造の御業にあずかったもの、として受け入れておられるのです。

 

 先生はまた、78歳、亡くなる三年前ですが、ドイツで開かれた二分脊椎症国際シンポジュウム会場において講演をなさいました。その最後に、その講演会の席上で詠まれた詩を、披露されたことがあります。それは、

 

 

自主決定にあらずして

たまわった

いのちの泉の重さを

みんな(たた)えている

 

 

というものでした。この詩は、「無題」として詩集に残されました。

 

 先生とて幾度も、ご自分の運命を呪い、世を侈まれたに違いありません。神不信の、投げやりな、反抗的な思いに落ち入られたことは、たびたびあったことでしょう。その連続であったかもしれません。その信と不信のせめぎ合いのぎりぎりの中で、人間の限度を弁え、神の前に素直になって、神の御手より、自主決定にあらざる病の身を、いのちの泉を湛えている大切な重いものとして受け取り、平安を味わうに至られたのでしょう。それは考えてみれば、長い、長い、真に長い、気が遠くなるような長さの、《運命を受け止める素直さを修練する旅の果て》であったと思います。

 

 

 私たちの人生には、思いがけない、どうして私が、と言いたくなるようなことが起こります。そしてそれを解決し、取り除こうとします。当然です。でも取り除き得ないこともあるのです。そこで私たちは気づきたい、神の創造のお働きの外に私たちが出ることは決してないということを。従って、こんな筈ではなかったその苦しみにも、神の指が働いていることを信じたい。そして、真っ直ぐに神の創造を信じて、苦しみを素直に御手より受け取りたい、その《受容》に、神の安息があるのです。

 

 「主の日」に、主によって回復した創造者なる神との交わりを覚え、真っ直ぐに神の創造を信じて、与えられた苦しみを御手より受容して、安息するものでありたいと思います。最初に申しましたように、私が「主の日」を「安息日」として守りたいのはそのためです。この日、私は真っ直ぐに神の創造を信じる信仰を新たにして、与えられる様々な苦しみを、御手より素直に受け取り直し、《安心して苦しみつつ生きる姿勢》を新たにして、生かされているものとして生きて参りたいと思っているのです。

 

 

 変えることも、避けることも、出来るのならしてもいい、しかし、そこに安息はないのです。

 

 《受容》することに安息があるのです。その受容をするように導き、支えてくださるのは、真っ直ぐに神の創造を信じる信仰です。素直にそう信じ、生かされる限り、安心して潔く苦しみつつ、生きたいと願っております。お祈り致します。

 

 

 私たちの主イエス・キリストの父なる神様。

 

 今朝も整えられて、いつもと同じように、主の日の礼拝をあなたに捧げることを許されました。慌ただしく流されるように生きている暮らしの中で、こうしてひと時立ち止まり、あなたを見上げ、生かされている足元を見、生きてあることの本来に思いを致す、そういう時と交わりとが与えられていることは、感謝であります。

 

 もし、この「主の日の礼拝」がなければ、私どもは思いのままに自分を見失って、押し流されてしまうことは、間違いありません。あなたに生かされて生きる受け身の人生の本来が見えなくなってしまうことは、間違いありません。御手に委ねる安息の「主の日」を、主イエス・キリストの十字架と復活によって賜っている、このあなたの深いご配慮は、何と行き届いていることでしょう。

 

 理解に余ることに直面させられる毎日ですが、「主の日」の恵みを覚えて、心を開いて素直に、まず全てを受け止めて安息を味わい、そこから歩み出して行けますよう、私ども一人ひとりの暮らしをお支え下さい。

 

 この教会を祝し、毛見先生に託された御旨が成って、この教会が安息に満ち、その教会の姿を通して、この地にもあなたの安息が拡がっていきますように。また集いました一人ひとりの上にも、その様子はあなたのご存じの通りでありますが、同じ恵みが豊かでありますように、お祈り致します。

 

 私たちの生きている現在の日本の社会は、目を覆わんばかりであります。あなたの御憐れみによるお導きを、切にお祈り致します。この一言の祈り、感謝と共に主の御名によって御前にお捧げ致します。     アーメン