Q&A こんな私でも天国に行けるのでしょうか?

『信徒の友』(日本キリスト教団出版局) 2008年3月号より

 私は信仰者ですが、とても立派な信仰生活を送っているとはいえません。こんな私でも天国に行けるのでしょうか。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」、そう言われても、あまりに悲しくて主のもとに来ることができないのなら、ため息一つで十分です。あなたが主に向かってため息をつくこと、それもまたみもとに来ることなのです。(キェルケゴール『キリスト教の修練』より)

      

 

 「天国にはイエスさまの十字架のおとりなしを信じなければ行けないのだから、あなたも信じてちょうだいよと夫に言ったら、そんなことを言うキリスト教は信じたくないと言うのですどうしたらよいでしょう」と六十歳くらいの女性に愚痴っぽく質問されて、「あたりまえです。私もそんなこと言われて信じる気にはなれません」と答えて、にらまれたことがあります。

 

 しかし、さまざまの職業、さまざまの性格、さまざまの年齢の男女に「魂は肉体の死後も生き続けると思うか」と問うたら、大部分の人はそうした問題は普段考えたことがない、死んだらそれでおしまいにしてほしいと答えたそうですから、私に言わせれば、彼女は現代の日本人が抱いている普通の心に無神経だと思うのです。

 

 知り合いの中年の女性ですが、実にみごとな死に方をした人がいました。ガンになり余命を知つて在宅の闘病生活を選び、主婦としての仕事を従来どおりにこなしつつ、趣味の面でも多くの友人と変わりなく楽しみ、酸素ボンベを離せないようになっても、その車を引っ張りながらそのままの生活を続け、ある日「私、明日死ぬような気がするから入院する」と言って、約束してあったホスピスに入院、翌日静かに亡くなられたのです。

 

 私ども周囲の者はその鮮やかな身の処し方に感嘆したのですが、その話を教会生活を長く熱心に守っていた高齢の女性が聞いて言ったそうです。「教会へ行っていなくても、そういう死 に方ができるのね」。

 

 二つの話に共通しているのは、天国を信じている者の(おご)りです。天国を信じるとは、そういうことになることなのでしょうか。

 

 

 (から)の墓に驚き、イエスの遺体を捜している女性たちに天使が語りかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカ24・5~7)。

 

 捜すのに二つの方向があります。客観的なことに対しては見つけるべく外へ、そして広く、しかし、主体的なことに対しては自覚するべく自分の内へ、そして深く。復活のイエスを捜す方向は後者、天使の告げる《思い出しなさい》はそれを言うのです。

 

 私たちは普段自分の力で、自分の考えで生きているかのように思っていますが、実際は生かされて人生は始まり、その神の《生かす働き》がさらに寄り添ってくださって、今あるのです。そのことが理屈でなくて、心の底からわかるにはどうしたらよいのでしょう、それが《思い出す》なのです。

 

 それは単に後ろ向きな追憶のことではなく、生かし続けてくださっている神の働きに気づいて、人生は私の働きによるものではなかったと納得することなのです。それは()し方を思い出すことを通して、私一人に届いている神の働きに気づき、神に対向して生きてきたのではなくて、神にすっぽり包まれて生かされてきたことに思い至るまでに徹底していく生の深みへの作業なのです。さらにそれは、今ここにある(さま)を神の生かす働きの中でなるべくしてなった成就と深く納得して、現在を受領する作業でもあるのです。

 

 いずれにしても思い出すとは、生かされている者らしく生きる、そのことです。

 

 

 イエスは「わたしの願いではなく、御心のままに」と十字架につかれました。十字架は《生

かす働き》なる神への委ねにおいて、つまり、イエスが生かされた者らしく生き抜かれることにおいて立ったのです。十字架上でイエスも《生かす働き》である神にすっぽり包まれて、生かされてきた生涯を走馬灯(そうまとう)のように思い出されたでしょう。

 

 ですからそこで「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)とイエスが言われたのは、ご自分が何かをされた意ではなくて、《生かす働き》が貫徹したの意です。そして《生かす働き》は《生かす働き》であるがゆえに顕れます。十字架のイエスは三日目に、「すべての人を自分のもとへ引き寄せ」(ヨハネ12・32)るべく復活するのです。

 

 「こんな私でも天国に?」とあなたは問われましたが、この主の引き寄せにひたすらお委ねする、天国を信じるとは、そういう備えられた望みに生きようとする「ため息一つ」のことなのです。ですから(おご)りになるはずもないのです。

 

 

 Q いろいろな未練が断ち切れません。ぶざまな死に様も不安です。

 

 

A 現代の(みょう)好人(こうにん)、榎本栄一(1902~97)の詩をご紹介します。

 

 ()

彼の岸はかすんで見えぬが

()(きし)はよく見えます

私の煩悩のそこに

仏の光が流れているのも

 

 生きるということは、情けなくなるほどに煩悩の見えることです。が、《私をちょつと横に動かす》と、煩悩に苦しむまさにそこに(そこに、そして、底に)光が差し込んで、それが私の姿に他ならぬとよく見えます。医者を必要とする《生涯一病人》と、私を素直に受け取れます。

 

妙好人=仏教の用語で、すぐれた信仰者のこと。