2001年6月10日 礼拝

「ため息ひとつで十分です ―群衆へのあわれみ―」

 

           聖  句 マタイによる福音書11章2~15         

           参考聖句 マタイ4章~9章 4章23節‥‥9章35 

                9章36節、14章14節、15章32節→深いあわれみ

                使徒行伝4章13節、ローマ7章24節→群衆        

   

 

2さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、

イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。5盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。5わたしにつまずかない者は、さいわいである」。7彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。8では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。9では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。10『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。13すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。14そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。15耳のある者は聞くがよい。

 

 

 最初に、先程お読み頂きました、本日のテキスト、マタイ11章2節から15節の内の12節をお読みします。

 

  「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」

 

 聖書の中には一体どう解釈したらよいのか理解に苦しむような箇所が所々にあります。そして、そう言う箇所は時に、聖書の核心に触れるようなメッセージを語るところでもあります。只今お読みしましたところは、私にとってそのようなところでありました。それでそこから学んだことを、今朝はお証しさせて頂こうと思います。

 

 テキスト全体の並行記事は「ルカ」にもありますが、特に今朝問題にしたい12節は「ルカ」にはなく、「マタイ」固有の記事と考えられます((もっと)も、似た内容の言葉が16章16節にあります)。この記事によりますと、天国は激しく襲われるものとされ、力づくで奪い取るものとされています。これは天国について抱いている私たちのイメージとは大分違うのではないでしょうか。天国というものを、私たちは、彼方にあって優しく招き入れてくださるような所と思い描いているのではないでしょうか。そういうイメージとは、これは全く違います。天国はここでは激しく襲われており、又激しく襲う者が奪い取る対象とされています。「激しく奪う」と訳されている言葉は、原語では「暴力」と言う言葉から来ています。つまり、天国は暴力の対象とされているのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

 これについてよく言われる解釈は三つありまして、①原始キリスト教会の苦難時代に、教会が暴力的に迫害を受けていた様子を反映しているという説、②熱心党と言われた反ローマのグループが、天国を得ようと力づくで政治運動をしていた様子を反映しているという説、③天国を求めそれに入ろうとする人々の、神を第一とする神中心の熱心さを表現しているという説です。とにかく色々ありますが、釈義的には確定していないと言われています。

 

 では私自身はここをどう考えているかと申しますと、まず注意したいことは、12節にありますように、天国が暴力的に奪い取られようとしているのは、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで」である、ということです。つまり、天国が暴力的に扱われることは、ヨハネの時まではなかったということです。天国はいつでも暴力的に扱われる訳ではなく、それは「バプテスマのヨハネの活動のときから、イエスの活動されている今」に至るまでの、その期間に限定されているということです。ですから、この問題を考えるに当たっては、この期間がどういう期間であったかを考えることが、先ず必要になります。

 

 そこでそのことを考えて見たいと思いますが、ヨハネの洗礼活動というのは、ご承知のとおり、「悔い改めよ。天国は近づいた」と彼が荒野で叫ぶことで始まりました。そして、このヨハネの活動をイエスは「正しいこと」とされまして、ご自身もその洗礼を受けておられます。そのあと、ヨハネと全く同じ言葉「悔い改めよ。天国は近づいた」を第一声として、イエスもその福音宣教活動を始められたのでした。こういう流れを見ますと、両者の活動には何の食い違いも無く、滑らかに連続しているように見えます。今朝問題にしている、「激しい」暴力的なことが起こるような食い違いは、天国の理解に関しても、悔い改めの理解に関しても、何もなかったように見えます。しかし、果たしてそうだったのかと言いますと、そうではなくて実は両者の理解は全く違ったものであったのです。そしてその結果、今朝のテキストの3節にありますように、イエスはヨハネの予想、期待に反する活動をされ、ヨハネは首をかしげて「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と言わねばならなかったのでした。

 

 ではイエスの宣教活動は、一体どんなものとして始まったのでしょうか。それを語っているのが、マタイ4章から9章です。一寸聖書をお持ちの方はお開け下さい。今日のお話で参考にします聖句は、週報一ページ右の欄に記して頂いておりますので、それを見ながらお聞きください。

 

 イエスの実際の宣教活動は、4章17節から始まります。それは「悔い改めよ、天国は近づいた」という、ヨハネと同じ言葉で始められています。そして直ぐに、18節以下で、四人の漁師を弟子にするということをされています。それから23節に記されていますように、「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」のであります。この今お読みしました4章23節の言葉はよく覚えておきましょう。これはイエスの活動のすべてを要約する言葉でありまして、あとでもう一度繰り返して、9章35節に出て参りますので、覚えておいて頂きたいと思います。

 

 とにかく「悔い改めよ、天国は近づいた」と、ヨハネと同じ厳しい宣言で活動を始められながら、イエスのされたことは、この23節に記されておりますように、ヨハネとは全く違ったものであったのです。そこにはヨハネのような裁きが、初めから、全く無いのです。イエスはひたすら(ゆる)し恵む方として、癒しの活動をしておられるのです。そして、その評判は忽ち広まり、各地から来た病人は次々に癒されたのでした。

 

 次に5章、6章、7章を見ますと、所謂「山上の垂訓」がこの三つの章にわたって語られています。今朝の話は「山上の垂訓」には触れませんので、飛ばして8

章に進みます。

 

 すると山をお降りになったイエスは、集まって来たおびただしい群衆に、癒しの業を次々とされるのです。先ず癩病人を癒されています。次に5節以下で百卒長の(しもべ)を癒されています。更に14節以下で熱病に苦しむぺテロのしゅうとめを癒されます。一寸(ちょっと)飛ばして28節以下で、異邦人の住むガダラ人(びと)の地方にまで行って、精神に異常をきたして凶暴になっているふたりの人々を癒されます。そして9章に進みますと、中風の人を癒されます。18節以下では会堂司の死んでいた娘を生き返らせられます。十二年間長血に苦しんでいた女をも癒されます。27節以下では、二人の盲人の目を見えるようにされます。32節以下では、口の利けない人をものが言えるようにされたりもしています。こうして見ますと、実に多くの人がさまざまの病から癒されています。その間に、当時つまはじきとされていた取税人や罪人と食事をされた話もあります。実に恵み溢れる慰め主として活動されております。

 

 そして、そういうイエスの諸活動を全てまとめて、9章35節を見ますと、「イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」、と先程申しましたように、4章23節と同じ言葉が繰り返されているのです。

 

 こうして見ますと、著者マタイは4章23節と9章35節で、要約的な言葉を繰り返し、その間に、山上の垂訓と具体的な十人程の癒しの例を列挙して、4章から9章全体で、イエスの悔い改め活動の全てを書こうとしているように思われるのです。

 

 イエスの活動は、バプテスマのヨハネと同じ宣言「悔い改めよ、天国は近づいた」で始まったのでした。その点は確かに同じなのです。しかし、そのなさっていることは今4章から9章で見ましたように、ヨハネとは全く違うのです。ヨハネがしたような、そして更に厳しいことをイエスに期待したようなあの裁きは、一切そこにはないのです。

 

 興味深いことですが、今申しました4章23節から9章35節の間には、「罪」という言葉は、(それを指摘するような意味では)、一度も使われていないのです。「悔い改め」という言葉も、一回も出て来ません。それに対し、「いやし」という言葉は七回、「ゆるす」という言葉は九回使われています。つまり、「悔い改めよ」で始まったイエスの活動は、悔い改めを迫るのではなくて、実は「癒し」と「ゆるし」の活動なのです。4章から9章を見ますとそうなっています。これは注意すべきことではないでしょうか。

 

 そしてそういうイエスの御心を端的に示しているのが、9章36節の「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」なのです。つまりここには、悔い改めを迫る(わざ)にイエスをつき動かしたみ心が、《憐れみ》として記されているのです。憐れみがイエスを悔い改め活動に駆り立てていたのでした。

 

 ところでこの36節に、注目すべきことが二つ記されています。一つは、イエスの目が「群衆」に注がれていることです。もう一つは、彼らが飼い主のいない羊のように見なされて、弱り果てているそのありさまが「深くあわれ」まれていることです。「悔い改め」を迫られたイエスの心を支配しているもの、それは要するに《群衆への憐れみ》だったのです。パリサイ人やサドカイ人たち宗教的権威が軽視した「群衆」、その彼らへの《あわれみ》、これこそ、イエスの「悔い改めよ。天国は近づいた」の宣言に込められたみ心であったわけです。その意味でバプテスマのヨハネとははじめから全く違う行動をイエスはしておられると言わねばなりません。

 

 そこで、イエスの迫られた悔い改めを特徴づけている二つのこと、即ち「群衆」と「深く憐れむ」と、この二つの点をもう少し見てみることにします。

 先ず「深く憐れむ」という言葉の方から見ますと、この言葉はマタイに三回出てきます。この言葉の語源については、よく言われることですが、それは「はらわた」という言葉から来ています。つまり、はらわたから込み上げて来るような、内から湧いてきて押し止どめることの出来ないような愛、それが「深く憐れむ」ということです。イエスの活動は、一言でいえば、この「深く憐れむ」行動でした。それはイエスが、愛そのものである神に根差して生きておられるので、自然に湧きあふれるように群衆を包み込む行動でした。そしてそれを「悔い改めよ。天国は近づいた」と言われたのですから、イエスにとって「悔い改め」とは、ヨハネのような「裁きの様相」を呈するものではなくて、神の支配である深い憐れみへの招きであり、言うなればそれは「包み込みの様相」を呈するものであったのです。

 

 ヨハネが厳しい神の正しさの支配に、神の国の到来を期待し、その正しさに耐えられるように、それに相応しい実を結ぶことを、「悔い改め」と考えたのに対して、イエスは神の憐れみの支配に、神の国の到来を期待し、その憐れみに包まれて既に赦されていることに《気づく》ことを、「悔い改め」と考えておられたのです。両者の言葉は同じく「悔い改めよ。天国は近づいた」でしたが、内容は全く違ったのでした。

 

 この違いはどう考えたら良いのでしょう。ヨハネはイエスの(みち)(ぞな)えをする先駆者のように言われています。確かにヨハネの登場によってイエスはナザレから引き出されて、その洗礼を受けて公生涯に出て行かれたのですから、そういう意味では、ヨハネはイエスの先駆者であることは間違いありません。しかし、その活動の内容から言えば、果たして先駆者と言えるのでしょうか。

 

 繰り返しますがヨハネにとって、天国は神の正しさに満ちた国でありました。しかし、イエスにとって、天国は神の憐れみに満ちた国でありました。そして、ヨハネは神の正しさに備えるよう《悔い改め》を迫り、それに対し、イエスは神の憐れみに包まれていることに気づくよう《悔い改め》を迫りました。ヨハネもイエスも、同じ「悔い改めよ。天国は近づいた」を言いましたが、内容は全く違うのです。

 

 ヨハネはイエスに、自分の語る悔い改めの徹底を期待しましたが、イエスはそれとは全く違う悔い改め、即ち「神の憐れみの中に、あるがままで既に包まれていることに気づくこと」として、《悔い改め》を語られたのです。ということは、イエスは、天国をヨハネから力づくで奪い取って、《正しさの支配》から《憐れみの支配》へ、《裁きの支配》から《赦しの支配》へ、《区別の支配》から《包容の支配》へと変えようとしておられると言えないでしょうか。まさに天国は、ヨハネが活動を始めた時からイエスの活動しておられる今に至るまで、イエスによって襲われて、《裁きが支配するところ》から《憐れみが支配するところ》へ、激しく暴力的に奪い取られようとしているのです。そういうことがここで起こっているのです。

 

 私たちはヨハネとイエス、共に「悔い改めよ。天国は近づいた」と言ってその活動を始めた二人の間で、天国をめぐって力づくの争いがあり、イエスが激しく襲うものとなって、それをヨハネから奪い取ろうとしておられることを、まさに《その憐れみの業から》読み取らねばなりません。二人の間に連続を見てはなりません。二人の間に断絶を見なくてはなりません。ヨハネは外面的には確かにイエスの先駆者です。しかし、敢えて言えば、ヨハネは本質的にはイエスが激しく襲うべき敵である。ヨハネは敵である、とも言えるのです。

 

 いずれにしてもイエスの福音宣教活動を突き動かしているものは、ヨハネとは全く違う「深い憐れみ」でした。そこで一寸(ちょっと)マタイ福音書の中でこの言葉の使われているところ、それは三ヶ所あると先程申しましたが、それを見てみたいと思います。

 

 第一は先程から言っています9章36節です。「《群衆》が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」とあります。第二は14章14節です。ここでは「イエスは舟から上がって、大ぜいの《群衆》をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった」とあります。第三は、15章32節で、ここでは「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、『この《群衆》がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。・・・』」であります。この箇所では「深くあわれむ」という言葉は、「かわいそうだ」と訳されています。

 

 こうして見ますと、共通していることは、「深く憐れまれた」イエスの目は、いずれの場合も「群衆」に注がれていることです。イエスの憐れみの対象は必ず「群衆」なのです。そして、先程注意しましたとおり、この「群衆」こそ、イエスの悔い改めを特徴づける二番目のことでした。悔い改めを迫られるイエスの目はひたすら「群衆」に注がれているのです。「群衆」以外には注がれていません。イエスにとっては、関心は「群衆」のみなのです。

 

 では「群衆」とは誰かということになります。というのは、イエスの場合、「群衆」は、単に集まって群かっている人達というのとは違った意味を持っているように思われるからです。この点で最近私のふと気の付いたことがあります。

 

 それは、例えばイエスが取税人や罪人たちと食事を共にしておられるといった光景は、聖書の中にしばしば出てきますが、そういう場合に必ずパリサイ人達が出てきて、「なぜ、取税人や罪人と一緒に食事をするのか」となじるという話になっています。しかし私に言わせれば、問題は何故罪人と一緒に食事をするのかということではなくて、そもそも罪人が一緒に食事をすることなど実際に有り得るのかということではないか、と思うのです。

 

 と言うのは、私たちが「罪人」と言えば犯罪を犯した人です。罪を犯し、捕らえられ、獄に入れられるような人が罪人です。町に出て、自由に人の家で一緒に食事ができる、そういうことが許されないのが罪人です。ところが聖書に出て来る罪人は、皆自由にイエスと会食をしています。ということは私たちのイメージする罪人と、聖書の罪人とははじめから違うということになります。私たちの考えからすれば、よその家に呼ばれて会食出来るような人は罪人ではありません。罪人とは言いません。ところが聖書では、そういう一緒に会食出来る普通の人が、罪人と呼ばれているのです。

 

 では一体誰が彼ら普通の人を罪人と決めつけて、そう呼んだのでしょう。それはパリサイ人、サドカイ人、そして学者たち、要するに当時の宗教的権威を構成していた人達がそう呼んでいたのです。その根拠は、彼ら宗教的権威が、モーセの十戒から仕立て上げた、613(禁止365、勧告248)にも及ぶ煩雑な規則でした。彼らはそれを律法として、覚え、実行し、人々にもその実行を迫り、それを守れぬ人々を「罪人」として、さばいていたのです。当時一人前の律法学者になるのは最も若くて四十歳だ、と書いてあるのを読んだことがありますが、それ位に難しいものに律法をしてしまっていたのが宗教的権威階級でした。ですから彼らから言えば、自分たち以外の一般大衆は、皆律法を知らず、律法を守れぬ人、つまり罪人ということになったのです。聖書に出て来る罪人とは、私たちが考えるような、罪を犯した一部の人のことではないのです。それは一握りの宗教的特権階級以外の一般大衆、庶民全体のことなのです。つまり、「群衆」のことでした。そして、イエスが憐れまれたのはほかならぬ、こういう群衆だったのです。彼らは罪人というよりは、どこにでもいる普通の人々であり、それは、使徒行伝4章13節の言葉を借りれば「ただの人」のことであり、パウロのローマ人への手紙7章15節以下の言葉を借りれば、それは「善をしようとする意志はあっても、それをする力がなく、自分を変えようとしても変えることの出来ない惨めな人間」のことであり、つまり、私たちもその一人である一般庶民、大衆のことでした。ですから私たちは、この「群衆」の中に自分自身を見ながら、イエスの「群衆への憐れみ」を思わねばなりません。ここの「群衆」とは、私たちのことです。私たちの外に「群衆」がいるのではなくて、私たちは「群衆」の一員なのです。そして、天国はイエスにおいて、この群衆である私たちに向かって、無条件に開かれるものとなったのです。天国が特定の正しい人のものであることは、ヨハネの時までで終わりました。律法と預言者の時代は力づくで終わらしめられました。その新しい天国に対する信仰に基づいて、イエスは「悔い改めよ」と言われているのです。ですからイエスにとって悔い改めとは、如何なる意味においても、自分を変える、ことを求めるものではありませんでした。事実先程から見ていますように、「悔い改め」を迫りつつも、イエスのなさることは、ただ、(いや)しと(ゆる)しのみでありました。群衆に、自分を変えることをイエスは全く求めておられません。

 

 この点を、実に明快に言い切った人がいます。イエズス会のアントニー・デ・メロです。彼は次にように言っています。「神に愛されようとして自分を変える必要は全くない」。その通りと私も思います。自分を改めることが悔い改めではありません。気づくこと、憐れみの中に既に包まれていることに気づくこと、それが悔い改めです。天国はイエスによって力づくで、即ちイエスの十字架によって、そのような憐れみの支配となって、今ここにあります。そのことに気づきましよう。悔い改めはそういう気づきなのです。天国の激変に気づくことなのです。

 

 キェルケゴールという人が次のようなことを言っています。「『疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい』、そう言われても、あまりに悲しくて主のもとに来ることが出来ないなら、溜め息一つで十分です。あなたが主に向かって溜め息をつくこと、それもまた御許に来ることなのです」。

 

 私はこれもこの通りだと思います。主に向かって溜め息をつく、「主に向かって」です。自分に向かってでも、人に向かって、でもありません。「主に向かって」溜め息をつく。これも、いやこれこそ御許に来ること、悔い改めることなのです。溜め息一つ、惨めな、ただの群衆でもこれは出来ます。いやそういう人こそ真実に溜め息がつけます。そして、その溜め息こそが悔い改め、溜め息こそが《気づき》なのです。そのように天国はイエスの十字架によって憐れみの様相を呈するものに激変して全ての人のものとして、《群衆》のものとして、私たちに開かれています。

 

 天国は自分を変えないと入れないところではないのです。それは、もう既に今あるままでそこに入っていることに気づくことを求めて、私たちの足元に無条件に在ります。感謝いたしましよう。祈ります。

 

 父なる神様。

 

 今朝はお導きにより、この「復活之キリスト穂高教会」の兄弟姉妹と共に礼拝を守ることを許して頂き、有難うございます。

 

 私共はパウロの申しました通り、「善をしようとする意志はあっても、これをする力がなく、自分を変えようとしても変えることの出来ない」惨めな人間でございます。

 

 人を愛することが出来ず憎み、祈ることが出来ず思い煩い、喜ぶことが出来ず不安におののき、感謝することが出来ず(つぶや)く、そういう少しも自分を変えることの出来ないままに、流されている者でございます。

 

 しかし、父なる神様、あなたは主イエス・キリストを賜わり、私共をそのままに包んで下さいました。天国は正しい者の国ではなくて、包まれる者の国に激変して、私共に備えられております。どうぞそのことに気づき、主に向かって心より溜め息をつきつつ生きる者として下さい。どうぞこの教会が、何よりも、この主に向かっての溜め息において一つとなり、あなたよりの風に吹き抜かれる群として祝されますように祈るものでございます。この一言の祈り、感謝と共に主の御名によっておささげ致します。アーメン。