2002年7月7日 礼拝

「わたしの決めることではない ―重く座して 軽く立つ―」

聖  句 マルコによる福音書10章3545

   

 

 35さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。41十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すての人の僕とならねばならない。45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。

 

 本日のテキストは、イエスが十字架を目前にして受難の予告をされたことに対して、弟子たちが示した甚だしい無理解を伝えているところであります。

 

 35節によりますと、弟子の中の二人、ヤコブとヨハネが、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」とイエスに申し出ております。その内容は、37節によれば、イエスが栄光をお受けになる時、つまり、当時のユダヤはローマ総督の支配下に民族的屈辱と貧困に喘いでおり、そういう状態から解放してくれる王にイエスがなられると彼らは信じ込んでいましたから、その王にイエスがなられた時、その時に二人を言わば右大臣、左大臣に取り立てて欲しいということでありました。十字架を目前にしているイエスが、こう言う願い事を弟子から聞かねばならないとは、誠に悲痛なことであったでしょう。

 

 しかも、そういう願い事を持っていたのは二人だけで、他の十人はイエスの十字架の意味を理解していたかというと、そうではなかったのです。41節を見ますと、他の十人の者は、ヨハネとヤコブがそういう願いをしたと知って、出し抜かれたと憤慨しているのです。つまり、彼らも実は同じことを考えていた訳です。ですから、38節の「あなたがたは、自分で何を願っているか、分かっていない」の「あなたがた」は、ヤコブとヨハネだけでなく他の十人も、つまり、弟子全員十二名を指していると考えるべきでありましょう。イエスの三年間の弟子教育は完全に失敗であったと言わねばなりません。

 

 しかし、そのような甚だしい弟子の無理解に出会ったからといって、たじろいで、イエスはそのなさろうとすることを止めようとはされませんでした。十字架につかれることは、弟子たちに理解されようがされまいが、そんなことに関わりのない、イエスの定まった道であったからです。そのことを38節後半で、イエスがご自分の十字架を、「わたしの飲む杯」、あるいは「わたしが受けるバプテスマ」と表現されたことが示しております。

 

 「杯」とは、旧約聖書の預言者が、神の怒りと裁きを指す言葉として使った言葉でした。又「バプテスマ」とは、ここでは、その裁きの苦しみの中に沈められることを意味していました。

 

 ですからイエスが十字架を、「わたしの飲む杯」、「わたしの受けるバプテスマ」と表現された時、それはイエスが十字架を、人間の救いのためにご自分が受けるべき「神の定め給うた裁き」として、はっきりと受け止めておられたことを示しているのです。何を求めてるのか分からない弟子とは対照的に、イエスは、ご自分のなさることが神の「決められたこと」として、はっきり分かっているのです。いずれにしても、イエスにとって迫っている十字架は、人間の救いの為に神が定め給うたものでありました。それは弟子が無理解だからといって中止したり、変更したり、先延ばししたり、そんなことのあり得ない神の業でありました。

 

 その確信に立って、イエスは出世を求める弟子たちに、十字架の意味への理解を求めて、38節後半で「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と言われました。つまり、わたしが今エルサレムに上って来ているのは、神様の決められていることに従ってやっているのであって、自分が勝手にやっているのではない。(いわ)んやお前たちのユダヤ独立の希望に沿ってやっている訳ではないのだ。お前たちもわたしのように、神の決められたことに従えるか、そう言われたのです。

 

 ですからそれを聞いた時、ヤコブとヨハネは、自分たちが右大臣、左大臣にしてくれと頼んでいることは、どうやらイエスに対しては、大分ピント外れな願いをしていることらしい位は、せめて考えるべきでありました。しかし、かれらはイエスの言葉を理解しようともせずに、いとも簡単に、39節を見ますと「できます」と答えるのです。イエスの飲む杯を自分たちも飲み、受けるバプテスマを自分たちも受けられると言い張るのです。

 

 彼らはイエスに問われても、まだ自分たちの求めているものを変えようとはしません。変わりなく出世することだけを考えています。ですからイエスから「できるか」と問われれば、勇ましく「できます」と答えるのです。「できるか」と問われて、ためらうような態度を見せたら出世に響きます。「出来るか出来ないか、やってみなければ分かりません」とか、「一寸考えさせて下さい」とか、「他の弟子がやるなら、私もやります」なんてことを言っていたら、とても出世出来ないと思ったのでしょうか、二人は即座に、いささかの迷いも見せずに「できます」と断言するのです。

 

 「できるか」と問われて「できます」と即答したこの返事は、神の決められたことに従って十字架の道を歩まれるイエスに対する、「弟子の無理解」の上に、更に無理解を加えた、無理解の上塗り、無思慮そのもの、彼らの俗物根性丸出しの言葉と言わねばなりません。

 

 しかしイエスは、もはや二人をたしなめたり、理解を求めて説得しようとしたりはなさいませんでした。訳も分からずに大きな顔で「できます」と答える二人に、39節で、「確かに、あなたがたはわたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるバプテスマを受けることになる」と、彼らの答えをそのままに肯定されたのです。このイエスの言葉は、どう理解したら良いのでしょう。二人の弟子たちがイエスの飲まれる杯、即ち、十字架に、イエス同様つくことになる、と預言されたのでしょうか?

 

 確かに後に、ヤコブは使徒たちの中で最初の殉教者となりますし(使徒行伝12章2節)、ヨハネも初代教会に於いて重要な役割を担う人物になるのですから(ガラテヤ2章9節)、その意味では、ここでイエスの言われたとおりに、二人は後に「イエスの杯」を飲むことになったのです。ですから、二人の殉教を預言する言葉とこの言葉を理解することは、間違っているとは言えないでしょう。そう解釈する人もいます。

 

 しかし、わたしはそれよりもこの言葉は、むしろ、何もわからぬくせに「できます」と偉そうなことを言っている彼らの愚かさを、イエスがとがめもせずにそのままに受け止めて、「そうかそうかお前たち出来るのか」、と言っておられるもののように思うのです。というのは、ここで弟子たち二人が問題にしているのは、イエスが栄光をお受けになる時に、自分たちを取り立てて欲しいということであり、それに答えておられる次の40節の言葉こそがここで大切なのであって、今問題にしている39節は、そう深い意味のあるやり取りのように、私には思えないからです。

 

 大体イエスという方は、時々こういう対応、つまり、訳の分からぬ弟子たちに無理に分からせようとはしないで、そのままに包んでしまわれるところのある方でした。例えば、裏切ろうとするユダに対してイエスはそれを止めようとせず、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13章27節)と言って、そのままにされています。又ゲッセマネの園では、目を覚ましておられない弟子たちに「心は燃えても肉体は弱い」(マタイ26章41節)と言うだけで、寝たままにされています。別にたたき起こそうとはされていません。そして、今学んでいるところも同じであり、出世争いをしている弟子たちとまともなやり取りをなさらずに、彼らを愚かなままにイエスは受け止めておられると、私はここ39節を読みます。

 

 いずれにしても、ここで大切なのは40節の、出世争いをする弟子たちへの言葉なのです。

 

 40節「しかしわたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。

 

 イエスはそれ迄、二人の弟子の身勝手な願いと言い分をそのままに聞いておられました。無理解なままに受け止めておられました。しかし、二人の願いの一番肝心なところ、つまり、右大臣、左大臣に取り立てて欲しいという点に関しては、ここではっきり拒否されたのです。理由は簡単明瞭、そういうことは「わたしの決めることではない」、なのです。イエスにとって、弟子の願うようなことは、神ご自身が決められることとして、神の権限に属することであり、「わたしの決めることではない」のです。

 

 弟子たちをイエスの右、左に座らせること位、イエスの一存で簡単に出来る、いやご自身で出来なくても、神に執り成して下さることは出来る、そう弟子たちは思っていたのでしょうか。しかし、イエスは「わたしの決めることではない」と言われるのです。「わたしの決めることではない」、今日の箇所で私に一番迫ってくる言葉はこれです。本日の説教題はここから取りました。イエスにとって、「決める」のは神です。神は「決める方」、これが本日のメッセージの中心です。

 

 イエスにとって、決めるのは神です。神以外に決める方はいないのです。神の決められたことに従う、それがイエスの生き方を貫いたものでした。ですから、飲みたくない杯、受けたくないバプテスマでも、神が決められた以上、飲まれるのであり、受けられるのです。弟子たちが、理解せず、出世争いに現を抜かしていても、「決める方」である神が決められたことに従われて、杯を飲んで十字架につかれるのです。

 

 その点弟子たちは違いました。弟子も神を信じていたでしょうが、その神は「決める方」ではありませんでした。彼らには、彼らを「決める方」としては神は見えていなかったのです。見えていたのは、出世したいという自分の欲望であり、その欲望を達成するために、神は「利用する方」としてしか見えていなかったと思います。いずれにしても、弟子においては、「決めるもの」は弟子自身、欲望に流されている彼ら自身です。神はその欲望のために「利用される方」です。そして、真に決める方を見失った弟子は、結局自分の欲に流され、「自分が何を願っているか、分かっていない」とイエスに言われることになってしまったのです。

 

 繰り返しますが。イエスにとって神は何よりも「決める方」です。イエスは神の決定に従い、その決められたことには、自分の考えを一切差し挟まれない方です。だから弟子の願いに対しても、一見冷たいと見える態度で、「わたしの決めることではない」と突き放し、「それは、定められた人々に許されるのだ」と神の定めに任されるのです。同じく神を信じるといっても、イエスと弟子とではその違いはまさに天地の違いと言わねばなりません。

 

 

 ところで一体出世問題を巡ってこのやり取りは、どうして出て来たのでしょう。テキストのすぐ前に注目しましょう。

 

 32節から34節「一行がエルサレムに上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ろうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する』」。

 

 つまりここでイエスは、間もなく十宇架につくことを予告されたのです。そして、この予告に誘われるかのように、出世問題が出て来ました。ということは、神が一番問題にされている人間の罪(その救いのためにイエスを十字架につけることに決められた罪)は、他ならぬこの出世争いであったということになります。十字架という光に照らされて、その時まで、弟子たち自身にも自覚されず深く潜んでいた罪が、鮮やかに浮かび上がって来た、それが出世争いであったのです。自分中心に自分を求める人間の罪は、こういう出世争いという形で一番顕著になった訳です。

 

 しかしそれにしても、出世しようとすること、一番になろうとすることはそんなに悪いことなのでしょうか。それはイエスを十字架につけるほどに悪いことなのでしょうか。注意したいことは、ここをよく読むと、イエスは決して、一番になろう、偉くなろうとすること自体を悪とし、罪として、否定しておられるのではないということです。そういうことを実は、イエスはここで問題にしておられるのではないと思います。

 

 イエスが言おうとしておられることは、《誰が一番か、そして、だれが取り立てられてイエスの左右に座るものとなるか、それを「決める」のは「神だ」ということ》、そのことなのです。人間を「決める方」はイエスご自身ではない、況んや人間ではない、それは神のみ、ただ神のみである、ということです。それがここでイエスが言おうとされていることなのです。

 

 一体大勢の人間が共に生きている社会の中で、誰かが一番になり、誰かがビリになる、というのは当たり前のことです。皆横並び一線ということはあり得ないことです。あの有名なタラントンの話(マタイ25章14節から30節)では、イエスご自身が人間の能力に、5タラントン、2タラントン、1タラントンと差があることを認められています。能力だけではなくて、運も違うし、生かされている状況も違うし、人生は色々な点で実に不公平に出来ているのです。当然そこでは、相互の比較がありますし、競争も起りますし、結果として「差」が出て来ます。出て来なければおかしいでしょう。人生は本来「差」があるものです。「差」の中で、「差」を伴って展開して行くのが人生です。問題はその「差」が、人間を「決めるもの」となり、そこに優劣が生まれて来て、その優劣に人間が囚われて、誰が一番か、誰が右に座り、誰が左に座るか、そういう関心に振り回されること、それが問題なのです。そしてイエスが問題にされたのは、そこでした。つまり、「差」があるのは当然、しかし、「差」が人間を「決める」ものになってはいけないということなのです。人間を決めるのは「差」ではない、それは「神」なのだ、ということです。「神」は「差」をなくされる「方」でなくて、「差」あるままでひとを「決められる方」なのです。それが40節の「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」、の意味です。

 

 ここでイエスは、「右も左もない、みんな同じだ」など言っておられません。「差」はあるし、「差」に基づく右、左の違いもある。しかし、誰が右で、誰が左か、それを決めるのは神だ、わたしではない、と言っておられるのです。40節は「しかし、わたしの右や左にだれがすわるかは、わたしの決めることではない。それは」の次に「神が」という言葉を補って、「それは、神が定められた人々に許されるのだ」と読めば、その意味が良く分かるでしょう。イエスにとって神が、そして神のみが人を「決める方」「定める方」なのです。神のみ心以外に人間を決めるものはない、人と人の「差」などで人間は決まらないのです。

 

 それがここでイエスが言おうとされていることでしょう。「神が決める方だ」ということです。こう申しますと、なんだそんなこと、信仰を持つ者にとっては、当たり前じゃないか、「神が決める方」だなんて、信仰にとって常識じやないかと思われるかも知れません。しかし、神以外のものがいつの間にか「決める方」になっていることが、信仰者、それも熱心な信仰者の中に、案外見られるのではないでしょうか。

 

 

 こういう話があります。スイスのあるカトリック教会が経営している病院に入院していたスイス人が、まだ病気が治っていないのに退院して、スイスの国立病院に転院しました。友人が「あのカトリック系の病院では、看護婦であるシスターたちは本当に親切にあなたの世話をしていたのに、どうして国立病院に転院したのですか?」、そう尋ねますと、彼は次のように答えたというのです。「あの病院には愛がありません。シスターたちは確かによく面倒を見てくれます。しかし、彼女たちは、私たち患者を大切にしてくれているからではなくて、彼女たちが天国に宝を蓄えるために。そのために私たちを大切にしてくれているのです。私は、彼女たちの天国行きの梯子(はしご)にはなりたくありません」、そう言ったというのです。

 

 この病人の考え方は、一寸ひねくれ過ぎているような気がします。しかし、シスターたちが天国に宝を積む看護に励んでいるとすれば、このスイス人の患者の言うことにも一理はあるという気もします。シスターたちは「天国に宝を積むこと」を教えられて、それを理想とし、それを目的として、主に仕えるように患者に仕えたのでしょう。それはそれで、信仰的に間違っていませんし、見習うべきことですらありますが、そしてむしろ、「この病院には愛がない」と言って退院して行った患者の考え方の方に、素直さがないと思いますが、しかし、それでも矢張り私は、この患者の言葉の前に、シスターたちは、そして、私たちも共に立ち止まって、考えねばならぬことがあると思うのです。

 

 それは、シスターたちは患者に尽す自分たちの「行為」が、天国における自分たちの位置を「決める」と信じていることです。天国の位置を「決める」のは神ご自身であるのに、いつの間にか自分のしている「行為」で決まるかのように思い込んでいることです。パウロはローマ人への手紙の中に、次のような言葉を残しています。

 

 9章3節「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、

キリストから離されてもいとわない。」このパウロの言葉に見られる愛に比べれば、シスターたちの愛には「エゴ」が潜んでいるというべきであり、この患者の「シスターたちの天国行きの梯子に自分はされている」という指摘は、よく当たっているというべきでしょう。何よりもそこでは、シスターたちにとって神は「決める方」でなくなっています。彼女たちの天国の位置を「決める」のは、彼女たちの患者たちへの奉仕の「行為」であり、それ次第で天国の位置が「決まる」ということになっています。シスターたちにおいて神は「決める方」ではなくなるということが、起こっているのです。

 イエスにとって、神は「決める方」です。イエスはその神の「決めたこと」に従う方です。

だからこそ、「杯」を飲み、「バプテスマ」を受けられるのであり、又弟子の願いに対しては、

「わたしの決めることではない」とつれなくあしらわれるのです。

 

 では、神を「決める方」と信じる者の生き方は、具体的にどのようなものになるのでしょう。それを示すのが本日のテキストの最後のところです。

 

 42節から45節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである』」。

 

 神を「決める方」と信じる者の生き方は、「仕える」この一語につきるのです。それは何をするかの問題ではなくて、何をするにも「仕える」の心を持っていることです。この心の姿勢を持っているなら、何をしても神を「決める方」とする生き方になります。逆にこの心の姿勢を持たないならば、どんなに良いことをしても、あのシスターたちのように、神を「決める方」にしないことになるでしょう。問題は何をするかではないのです。「仕える」心の姿勢の問題です。「神は決める、人はただ仕える」です。決める神に対しては、人は仕えること以外に道はありません。

 

 『夜と霧』で有名なヴィクター・フランクルがこんな話を書いています。

 

 愛する妻に先立たれた中年の一人の男がいました。身も世もなく悲しみ、昼も夜も嘆いて、

何事も手につかなくなっている彼に、フランクルが言いました。

 

 「あなたの奥さんが自分に先立って死んだことを悲しんでいるが、それではあなたが先に死ねば良かった訳ですか」。すると即座に彼は、「とんでもない、こんな悲しみは妻に味わわせたくありません」と答えました。そこでフランクルは、「ではあなたの今の悲しみは、奥さんを苦しませないために必要なのでしょう」と言いました。しばらく考えた男は、「本当にそうでした。よく分かりました」と言ったという話です。勿論、これで妻を失った悲しみがなくなった訳ではありません。しかし、彼は「妻に仕える立場」に身を置くことで、自分への囚われから離れ、自分を手放し、そして、自分を取り戻したのです。

 

 「仕える」、それは自分に囚われることから自分を引き離してくれます。「仕える」とは神を「決める方」と信じる者の、身軽な生き方のことです。それに比べて、自分の行為を自慢し、誇りながら「あなたの右と左に座らせてください」とイエスに頼んだヤコブとヨハネは、自分に囚われ、神ではなくて自分の行為を、そして人とのその「差」を、自分を決めるものに仕上げてしまって、なんと重くてしんどい生き方をしていることでしょう。

 

 坂村真民(さかむらしんみん)という仏教詩人がおられます。その詩集の一つに『念ずれば花開く』というのがあります。その中に、週報に紹介していただきましたが、「飛鳥飛花」という詩があります。読んで見ましょう。

 

 

軽く軽く行動しよう

飛鳥!

飛花!

これがこれからの

わたしの姿であれ

不要なものは

すべて捨て去って

雲のように

水のように

なにごとにも執着せず

自然に身を任せてゆこう

重く座して

軽く立つ!

これがこれからの

わたしの行き方であれ

 

 

 心打つ詩ですが、特に「重く座して 軽く立つ!」の言葉に深く教えられるものがあります。それは、神を「決める方」として重く信じることと、「仕える」という軽い行き方をすることとは、信仰という一つの事の表と裏だということです。信仰生活は、確かに「重く座して 軽く立つ」ことです。しかし、うっかりすると弟子たちのように、そしてあのスイスのシスターたちのように、それが逆転して、「軽く座して 重く立つ」ということになるのです。

 

 神は「決める方」です。神に重く座する者にして頂きたいと思います。そして、自分への囚われから軽くされて立ち、「仕える」ことを心の姿勢として生きる者にして頂きたいと思います。

 

 神が人間を決められるのです。人と人との間にある「差」が人間を決めるのではありません。神が人間をお決めになるのです。神に重く座すこの信仰を、人に仕える軽い生き方で告白して参りたいと、私は願っております。お祈り致します。

 

 私たちの主イエス・キリストの父なる神様。

 

 今朝再び、穂高教会の皆様と共に、礼拝をあなたに捧げることをお許し頂き感謝を致します。あなたは全てのものを造り、私たちに命を与え、養ってくださる造り主でい給います。私共はあなたの御手に支えられているものでございます。ですから、良いことも悪いことも全部込みで、それら全てをあなたが与えてくださった私の生きるべき人生の場面として受け取って、感謝して行くのが、あなたを信じる者の姿でございます。

 

 しかし、いつの間にか私共は、人生を自分のもののように思い、自分の思いを基準に思い煩っては、自分の願いを叶えて欲しいとあなたに願うことが信仰のようになり勝ちでございます。あなたに注文が多すぎて、感謝の足りないことを示されております。

 

願わくは、全てをお決めになるあなたの御手の上にしっかり、重く座し、自分へのこだわり

から離れて、日々の暮らしの中に軽く立てますように。そして、御力に助けられて人に仕えることを願いつつ、万事をお決めになるあなたを讃えて生きられますように、してください。一言の感謝と祈り、主の御名によってお捧げ致します。アーメン