2005年9月18日 礼拝

「野獣も一緒、天使も一緒」

聖  句 マルコによる福音書一章1~15

   

 

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を()べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 今朝の聖句は、マルコ福音書の冒頭の部分です。福音を宣教されるイエスの公生涯、それが、「ヨハネの洗礼を受けられたこと」、および「荒れ野でサタンの誘惑を受けられたこと」、この二つで始まったことを伝えております。著者マルコは、1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と先ず書いた上で、それを述べております。これは他の三つの福音書を比べてみますと、かなり違った書き始め方と言わねばなりません。

 

 第一に、他の三つの福音書にはない、「神の子イエス・キリストの福音の初め」といった夕イトルのようなものが「ある」こと。

 

 第二に、他の福音書にはある、公生涯に入られるまでのイエスの姿を伝える記事が全く「ない」ことです。例えば、イエスの系図やクリスマス物語、こういうものはありません。神殿で学者たちと問答された少年イエスの話もありません。また、ヨハネ福音書の冒頭の、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」といったようなものもありません。マルコ福音書は、単純に、イエスの公生涯だけを、「福音」として書こうとしております。

 

 この点で興味深いのは、15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、この言葉に並行しているマタイ福音書とルカ福音書の記事を比較してみますと、マタイでは、「イエスは『悔い改めよ、天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4章17節)となっておりまして、「福音」という言葉は使われていませんし、ルカでもここは、「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(4章14節)となっていまして、「福音」という言葉は使われていないことです。つまり、宣教開始に当たって、「福音」という言葉を使っているのは、マルコ福音書だけなのです。

 

 これは何を意味しているかと言えば、ふつう私たちは、「福音」と言えば、イエスの生涯の「最後の場面」、つまり十字架と復活を考えて、そこから「福音」を理解しようとしています。しかし、マルコにとってはそうではなくて、「福音」は、イエスの公生涯の「最初の場面」から直ちにそれと分かるように明白なものであった、ということです。マルコは、公生涯の最初から、イエスに人間の根底に触れる神の救いの働きを見ているのです。

 

 だからこそ、マルコだけが宣教の第一声で、「悔い改めて福音を信じなさい」と書けたのであり、その福音書の冒頭に「イエス・キリストの福音の初め」と書くと、直ちに公生涯のみを記し、他の三つの福音書に見られるような公生涯以前、あるいは公生涯以外のイエスの姿はまったく記さなかったのです。

 

 いずれにしましても、マルコにとってイエス・の公生涯こそが、そのまま初めから「福音」であった、ということです。このことに先ず注意しておきたいと考えます。

 

 

 前置きが長くなりましたが、そういうマルコ福音書の特徴に考慮しながら、今朝は、特に15節の「悔い改めて福音を信じなさい」の宣教の第一声の意味するところを学んでみたいと思います。

 

 先に見ましたように、イエスはこの第一声の前に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けておられます。ヨハネがこの洗礼運動を開始したのは、紀元二十七年ごろと推測されますが、らくだの毛衣を着て革の帯を締めるという、旧約時代を代表する預言者エリヤの服装と同じ格好で、彼は預言者の自負を持って、ユダヤ教の信仰が持っている特権化している選民意識、形式化している神殿礼拝、偽善化している律法主義などを断罪したのです。

 

 そして、「悔い改めの洗礼」を受けた者だけが救われると、洗礼を宣べ伝えたのです。その彼の厳しい禁欲的倫理主義は、ユダヤ全土の全階級を揺さぶり、多くの人がヨハネのもとに来て、罪を告白して洗礼を受けたのでした。そして、イエスも洗礼を受けられたのです。

 それにしてもイエスご自身は生涯、弟子たちに洗礼を授けることはされませんでしたのに、どうしてご自身は、ヨハネの呼びかけに応じて洗礼を受けられたのでしょう。

 

 ヨハネが洗礼活動に当たって言った7節から8節に、注意したいと思います。

 

 

 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

 

 つまりヨハネは、自分は悔い改めの洗礼を宣べ伝えているが、だからと言って自分自身が完全なものとは決して思っていない。もっと優れた、足元にも寄り付けないような方がおられる。その方が後から来られて、わたしのやっている「水による外的な印のような洗礼」ではなくて、「霊による内的な変化を伴う真の洗礼」を行われる。そう言って、自分のすることを謙虚に不完全なものとして相対化しているのです。その点彼は、悔い改めを迫る人によくありがちな、自分を棚に上げて自分は正しいと自己絶対化しているような尊大なところは微塵もありませんでした。つまり、彼の語る悔い改めには「実(じつ)」があるのです。そして、その「実」のある悔い改めの呼びかけに引かれるように、たっぷり三日はかかる道程を歩いて、イエスはガリラヤのナザレからヨハネのもとに来られて、洗礼を受けられたのでした。

 

 そのイエスの受洗の申し出を、当然ヨハネは押し止めようとしたのでしょうが、イエスは彼から洗礼を受けられました。自分は特別だ、その必要はない、そう考えられても決して傲慢とは言えないイエスが、ごく自然にヨハネの悔い改めの洗礼を自分にふさわしいこととして受けておられるのです。ここに、イエスの「悔い改め」に対する「実」が見られます。

 

 「悔い改め」ということは、教会ではよく言われますし、私たちもよく日常的に考え、口にします。しかし、その実体を考えたら、これほど怪しげなものはないのではないでしょうか。

 

 「悔い改め」とは、反省のことではなくて「方向転換」、自分自身に向かっている自己中心な心を神の方に向きを変える、つまり、回心のことです。しかし人の心はいつも自分を中心に、自分を甘く、自分を安全地帯においていますから、「悔い改め」ということには、不実さが不可避的にまといつくものです。「悔い改め」という名の「いいわけ」「言い逃れ」、あるいは「ごまかし」「すりかえ」が横行しています。そこには、自分自身を安全地帯に置いた、痛くも痒くもない自分が、のうのうとしております。それが、私どもの「実」のない「悔い改め」の現実の姿ではないでしょうか。

 

 しかし、ヨハネとイエス、この二人の「悔い改め」には、「実」があります。二人とも、自分を安全地帯に置くような不実なところがありません。このヨハネの「実」のある悔い改めと、イエスの「実」のある悔い改め、それらは呼応して、悔い改めを通して注がれてくる神の恵みの支配に道を開いているように思えます。

 

 そのとき起こった事柄が、9節から11節に感動的に伝えられています。

 9節から11節を読んでみましよう。

 

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 「天が裂けた」のです。「霊」が降ったのです。そこでイエスは、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞かれたのです。イエスは「霊」に満たされた「神の子」として歩む者になられたのです。そしてその「霊」にイエスが先ず送り出されたところ、それが「荒れ野」でした。

 

 12節、13節を読んでみましよう。

 

 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送句出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 

 いわゆる「荒れ野の誘惑」を、イエスはここで経験されたのです。この点はマタイ、マルコ両福音書も同じことを伝えておりますが、両福音書にある、石をパンにしてみろとか、神殿の屋根から飛び降りてみろとか、ひれ伏して拝んでみろとか、そういう悪魔の誘惑は、ここには記されていません。その代わりに、両福音書にはない言葉が、13節後半にあります。

 

 「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」、そういう言葉がここにあります。私はこの言葉に、非常に大切なマルコのメッセージがあると思いまして、本日の説教の題と致しました。

 

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ福音書3章8節)と言われるとおり、「霊から生まれた者」は、霊の思うがままに吹かれて、風のように生きて行くのです。イエスもそうでした。霊に満たされるや、ご自分の思いではなくて、思いのままに吹く霊の風に送り出されて、直ちに「荒れ野」に来られたのです。そして真に興味深いことに、そこで、「天使たちに仕えられつつ野獣と一緒」という、そういう生き方を経験されたのでした。

 

 本日の聖書の中で一番注目すべきは、この「天使たちに仕えられつつ、野獣と一緒という主の経験」だと、私は考えております。

 

 この荒れ野の経験は、四十日間続いたとあります。四十は完全数ですから、この四十日間は、聖霊に満たされたイエスの全生涯を象徴しているとも理解できます。確かにその後イエスは、聖霊に満たされてその霊の思いのままに、野獣にも等しい人間のエゴの悪の中を、天使たちに仕えられつつ生き抜いて、遂に十字架にかかられ、そして更に、風に吹かれるように(よみがえ)って、神の御許に帰られました。十字架と復活に極まるイエスの全生涯は、実は、荒れ野のこの四十日間に先取りして語られているのです。

 

 

 イエスは祭司、学者、長老といったユダヤ教の権威たちの悪意と嫉妬、民衆の身勝手にころころ変る群集心理、ローマの政治家たちの打算的な自己保身、そして、弟子たちの出世争いと裏切りなどに囲まれて、まさに「野獣と一緒」と言ってもよいような公生涯を送られました。「野獣と一緒」、それがイエスが生きられた日々の実際の姿でありました。と同時に、そこがそのまま、祈りつつ天使に仕えられる、「天使も一緒」の日々でありました。

 

 聖書の伝えるとおり、イエスは朝早く一人祈られました。夜を徹して一人で祈られました。

人々がたくさん集まってくると、解散させて一人寂しいところで祈られました。また山に登って一人祈られました。いわゆる「山上の変貌」で、群衆や弟子たちが寄せる政治的期待を退けられたのは、祈りにおいてでありました。ゲッセマネの園で十字架の道を苦しみもだえつつ受け取られたのも、祈りにおいてでありました。十字架の上で敵する者を呪うことなくとりなしつつ、その愛の生涯を全うされたのも、すべて祈りのうちの出来事でした。

 

 まさに、祈りつつ「天使も一緒」、それがイエスの生きられた日々の実際の姿でした。ですからイエスの三年間の公生涯は、その意味で「野獣と一緒」されど「天使も一緒」の生涯であり、「荒れ野」そのものであったと言えるでしょう。そして、それが「天が裂けて」聖霊が鳩のように降って来るのを見られて、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、天来の声を聞かれた神の子・イエスの生涯の実際でした。

 

 ですから、私たちはよく考えなくてはなりません。イエスは「聖霊」に満たされているからと言って、ずうっと「天使と一緒」だけの、安らかな天国のような生活を送られたわけでは決してなかったのです。「野獣と一緒」の生活も送られたのです。と言うよりは、「天使と一緒」の生活は「野獣と一緒」の生活において展開するということを、身をもって示されたのでした。

 

 ですからここで、私たちは学ぶべきでありましょう。「天使と一緒」そして同時に「野獣と一緒」、それこそ聖霊に満たされた、聖霊なる風の思いのままに吹かれている者の姿であるということ、そのことを学ぶべきでありましよう。

 

 

 人は生きている限り、お互い経験していることですが、辛い苦しい困難の連続の中を生きねばならないのです。どうしてこんな苦しみが、困り果てることが、痛みが、誘惑が、不幸が、病が、これでもかこれでもかとやってくるのか、いつほっとする時が来るのか、ひそかにお互いそれを願っているのではないでしょうか。しかしそういう時は遂に来ないでありましょう。「野獣と一緒」、これが生きるということの現実なのですから。

 

 しかし、生きるということの現実は、別の顔を持っているのです。「天使と一緒」という別の顔です。何も自分で計らったわけではないのに、無駄と思える努力が生き、空しく過ぎたと思える時間が生き、踏みにじられた厚意が生き、報いられなかった忍耐が生き、役に立たなかった準備が生きる、そういう場合が、人生にはあるのです。

 

 どうでしょう、振り返ればいろいろなことが結局みな無駄なく生きて、お互いの今日があるのではないでしょうか。病気も生きる、不幸も生きる、悩みも生きる、痛みも生きる、苦しみも生きる、罪さえも生きてくるのです。否、生きて来たのです。だから、「天使たちが仕えている」、ふとそう思えるような、全てを生かす不思議な優しさが、人生にはあるとも言えるのではないでしょうか。「天使と一緒」、これが生きるということの持つもう一つの顔なのです。そうは思われませんか。

 

 

 ところで、私たちは日常生活の中でいろいろな辛いことに出会いますから、「野獣と一緒」

の苦しみは、常にいやというほど経験して分かっています。しかし、「天使と一緒」の安心の方はなかなか経験できず、不安と恐れを抱いた落ち着かない生活を日々過ごしていると思います。そういう私たちに、聖霊に満たされた神の子イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです。つまり、「野獣と一緒」の生活に暗く沈んで生きている者に、「天使も一緒だよ」と、慰めと喜びの言葉、すなわち「福音」を語られたのです。

 

 14節、15節を読んでみましよう。

 

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、

神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 

 この記事によりますと、イエスはヨハネの洗礼を受けられてヨハネの弟子に一度なられますが、ヨハネが捕らえられたのを機に、内に満たされた聖霊の風の働きのままに、ヨハネを離れて独自に、人々の心に福音を語りかけることを始めておられます。ところで、先程7節、8節を読んで学びましたように、ヨハネは水で洗礼を授け、イエスは聖霊で洗礼をお授けになる方なのですから、その意味では、ここでお始めになっている独自の「福音宣教」こそが、まさにイエスのなさった「聖霊の洗礼(バプテスマ)」である、そう理解してよいことになるでしょう。

 

 私たちは、この「聖霊の洗礼(バプテスマ)」といいますと、「水の洗礼(バプテスマ)」とは違った、-「水の洗礼」なら目で見て分かりますが、「聖霊の洗礼」というと、何か目に見えないとらえ所のないことのように思いやすいのですが、そうではないのです。それは、ヨハネから別れて独自の活動としてイエスがなさった、この「福音」の宣教に他ならないからです。「福音宣教」こそが、まさにイエスの「聖霊の洗礼」なのです。

 

 

 では、その宣教された「福音」の内容とは何かということになりますが、イエスは先ず、「時は満ち」と言われます。「時は満ち」とは、「神がお定めになっていた時が来て、ヨハネの時からイエスの時への、時の移行が完了した」ということです。

 

 次に、「神の国は近づいた」と言われます。それは「神の国、すなわち、私たちを生かしてくださる神の力の支配が、すでに来ている」という意味であり、だから「悔い改めて」、つまり「その神の支配の方に向きを変えて」、そして「福音を信じなさい」、すなわち、「その神の支配に自分をお委ねして生きなさい」、そう言われたのでしょう。それが、イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた意味であり、それこそが、「聖霊で洗礼をお授けになる」ということであったのではないかと、私はそう考えます。

 

 ところで、ここで注意したいことは、一番最初に「前置き」として申しましたことを思い出していただきたいのですが、マルコは、罪のあがないの「福音」信仰の恵みを、イエスの生涯が「終わった段階」ではなくて、イエスの公生涯が「始まったばかりのこの段階」で、それとして見抜いて語っているのですから、そのマルコの立場からして、イエスの宣教の第一声の言葉は、もっとも日常の民衆の生活感情に届くようなやさしい調子で、彼らに分かるような表現で語られたのではないか、ということです。思うに、この15節は、このままでは、はじめて聞いた人たちには、ちょっと難し過ぎると私は考えます。

 

 

 それとも皆さんは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、これをこの通りに、ここでイエスは、福音宣教をはじめた一番最初の時に、言われたと思われますか。私ならこんなことをいきなり言われても、さっぱり分かりません。

 

 私たちは教会に来ておりますから、一応イエスの生涯というものを、最後まで教わっています。教わっている者は、「福音」と言われるとなんとなく分かります。イエスは私たちの罪のために十字架につき、よみがえって罪と死に打ち勝ち、私たちを永遠に生きるものとして下さった、その最後を私たちは知っているのです。知っておりますから、それが、この15節の第一声の言葉の意味するところだと、分かります。

 

 しかし、予備知識もなにもなしに、いきなり「福音」と言われたら、何のことやらさっぱり分からないのではないでしょうか。おそらくそれは、その時の聴衆が「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて、ユダヤ社会でも低く見られていた地方の貧しい庶民だったからわからないというのではなくて、誰だって分からないと思うのです。私だって分からない。そして、分からない「福音」、そんなものはどんなに正しい教えでも、これはナンセンスです。「福音」は分かってこそ「福音」です。

 

 そこで、15節で語られたのは、実際にはどういう内容であったのだろうと、私は私に分かるように想像してみました。何度も申しておりますように、マルコはイエスの公生涯の最初の場面から、「福音」の内容をそれと分かるもの、庶民に通じるものとして書いていました。これは、マタイやルカとは違います。ヨハネとも違う。マルコの立場は、イエスの公生涯の最初の場面から、「福音」の内容をそれとして分かるように庶民に通じるものとして書いております。ですから、「福音」という言葉を生半可にではなくて、自分の心に鮒に落ちるように読む努力をするということは、身勝手なことではなくて、マルコの願いに沿うことでしょう。私はイエスの宣教第一声は、実際はどういうものであったろうかと、自由に想像してみました。

 

 私の考えるところイエスは、その宣教第一声を、15節の通りには言われなかったと思います。決してここでは、「福音」という言葉を使われなかったと思います。初めて聞く人に分かるように、そしてすべての人をもれなく包むように、それぞれに通じるように、やさしい表現で、「福音」なるものを「福音」という言葉を使わないで、語られたと思うのです。

 

 私は想像します、そのとき人々の聞いた「福音」は、例えば次のようなものではなかったでしょうか。「お前たちの暮らしは『野獣と一緒』のように辛い生活だけれども、心の向きをちょっと変えてごらん! 『天使も一緒』なんだよ。見えないだろうけれどもネ、信じてごらん!私たちを生かして下さっている神のお力の支配が、もうすでに来ているんだから、『天使も一緒』なんだよ。だから心の扉を素直に開いて、直ぐに吹き込んでこられる神のお働きに委ね、それに身を浮かべて、苦しみの中を安心してお生きなさい」。まあ、そういう調子の内容のものではなかったでしょうか。私はそんな気がするのです。

 

 イエスの口から、「福音」が最初に語られるこの段階で、15節のようなことをイエスがそのまま言われたとは、まして、「十字架と復活による罪の噴い」、そんな言葉を使われたとは、とても私には考えられません。これは私の信仰的想像ですが、「十字架と復活」の福音を別の表現で、普通の人の心に届くように、それぞれに応じて語られたと思います。

 

  「お前には今見えないだろうけれど、天使も一緒にいるんだよ。苦しくてお前は独りぼっちと思い込んでいるだろうけれど、天使も一緒に苦しんでくれているんだよ。だから気を取り直して、安心して生きなさいよ。苦しいことは苦しいけどね」。

 

 そういう言い方を一人ひとりにされたのではないでしょうか。生活に疲れて道端に座り込んでいる人が居れば、イエスもその人の横にしやがみこんで、肩に手をかけたり、手を握り締めたりしながら、ただひとこと「苦しいね」、そう言われてそれ以上は何も言われない、そういう時もあったのではないか、そういう沈黙の福音も、私は想像するのです。

 

 もちろん会堂で話したり、群衆に向かって語りかけられたりされたでしょうけれども、イエスのまなざしが一人ひとりに注がれていたことは、「迷える一匹の羊のたとえ」の示すとおりであったと思います。

 

 

 「野獣も一緒」されど「天使も一緒」、ガリラヤの風かおる丘で、イエスはそうやさしく「福音」を語りつつ、その公生涯を始められたのではないでしょうか。マルコはそのイエスに、人間を生かし支える根底的な神の働きを見て、この福音書を書いたのだと思います。いずれにしてもイエスの「聖霊の洗礼」は、誰をも差別せずに、「野獣も一緒」されど「天使も一緒」と、風のようにもれなく一人ひとりに行き届く、「慰めと励ましの寄り添う言葉の洗礼」であった、そう私は思いたいのです。「野獣も一緒」されど「天使も一緒」、福音とはそういう「苦しみへの寄り添い」のことです。砕いて言えば、「苦しいけれど独りぼっちじゃないよ、安心なさい」ということです。

 

 

 今週もいろいろお互いあるでしょうが、閉じこもりやすい心の窓を素直に大きく開いて、風のように入って来てくださる聖霊の風に、自分を手放して、浮かべて、《安心して、潔く、苦しんで》生きて参りたいものであります。「野獣も一緒」されど「天使も一緒」、安心して苦しんで、生きて参りましょう。それが、聖霊の洗礼、風の洗礼を受けた者の生き方でありましょう。

 

  『安心して身を委ねて、軽くお生きなさい、私は一緒だよ』、これが福音であります。

 お祈り致します。

 

 

 私たちの主イエス・キリストの父なる御神様。

 

 今朝は、あなたの恵み溢れる不思議な御導きをまた頂戴いたしまして、再びこの穂高教会の主にあって思いを同じくする方々と共に、礼拝賛美をあなたに捧げるひとときを賜わり、感謝致します。

 

 万事低きにつき、安きに流れる日本の現代社会であります。私たちもそういうことを批判しながら、いつの間にか流されている一人となっていることは、間違いありません。そのことを自覚し、身勝手に握りしめている重い自分を手放して、上よりの風の洗礼、霊の洗礼に身を委ね、御手に浮かべて軽く生きる、そのような志高い群れとしてこの教会を守り給うようお祈り致します。

 

 この教会がこの穂高の地に存在していることを思うたびに、僕(しもべ)の心は何か温かく膨らむような思いがいつもいたします。感謝であります。毛見先生ご夫妻、役員の皆さん、会員の皆さん、求道中の皆さん、それぞれのご家庭の皆さん、願わくはそのお一人ひとりの暮らしの中で、「悔い改めて福音を信じなさい」の御言葉を、あなたご自身がそれぞれに届くように語り続けてくださいますように。

 

 そしてこの地に、「野獣も一緒」されど「天使も一緒」の希望に生きる群れを、「天が裂けて、霊が鳩のように降っている教会」を、更に根強く立ててくださるようにお願いを致します。

 

 感謝してこの一言の祈り、会衆一同の祈りにあわせて主の御名により御前にお捧げ致します。

アーメン