書評

 

キリスト教の縛りからの解放

藤木正三著

神の指が動く

十の聖書的談話

工藤信夫

 

評者はキリスト教主義の病院における精神科臨床を通して、はからずも三十年近く今日のキリスト教界における人間理解の乏しさ、福音理解の浅さ、粗雑な伝道にもとづく、教会による多くの信徒の蹟き、トラウマ(心的外傷)の相談事例に関わることとなり、一九九〇年から年一度、軽井沢でこうした方々のためのセミナーを開催してきたが、その参加者のほとんどが何らかの形で藤木先生の著作に励まされていた人々であった。つまり、参加者の多くは、人づてに先生のこれまでの著作「神の風景」「灰色の断想」「福音はとどいていますか」(以上ヨルダン社)、「この光にふれたら」(日本キリスト教団出版局)、「系図のないもの」(近代文芸杜)などを読み、先生の深い納得性に満ちた独自な聖書理解に慰めや励ましを得て、もう一度キリスト教信仰や教会に留まろうと決心をした方々であったのである。そしてこの事情は、私が出会った海外の日本人教会の人々 (ロンドンやシンガポール)においても同様であった。

 

 藤木先生はご自身が語られる聖書理解を終始”聖書的独白 (聖書的談話であり、決して説教ではないと言われるが、不思議とその視点は私共を”キリスト教という縛りから解放し、確かな自由に導く力がある”(ある若い牧師のことば)のである。先生の言葉をそっと心“の底”に留めて、静かなまた確かな信仰生活を続けている方は少なくないはずである。

 

 さて本書は〈藁(わら)をもつかむ信仰〉〈イエスの過度と人の身勝手〉〈神との関係〉〈罪人一列〉〈神の完全 人の完全〉〈小さい声で「今が一番いい」〉〈限定的肯定〉など十の聖書的談話が収録されているが、いずれにも見られる聖書解釈は、私共に神を信じると言うことは一体いかなることであったのかの原点を知らしめ、〈これだったら私も主イエスを信じられる〉という安心感に私たちを導く。

 

 例えば、〈藁(わら)をもつかむ信仰〉の中に次のような記述がある。

「服にでも触ればいやしていただける」(マルコ5・28)と思った(彼女の信仰は)、単純というか、素朴というか、ご利益的で魔術的なといいましょうか、間違いなく言えることは、自分の罪を認め、神の子イエス・キリストの十字架と復活による罪のあがないを信じ、悔い改めて、その主に委ねて功(いさお)ないままに救われる、そういった教会が語る(教理的に)正しいと私たちの思っている信仰とは、どうも彼女の信仰は違うということです。……中略……わたしならばそれはキリスト教の信仰じゃないと多分言うでしょう。

 

 しかし、イエスは、そんなずるい、身勝手な、迷惑な、それでも信仰かと言われたら一言も返せないようなものを、(藁をもつかむ一念において) 「あなたの信仰があなたを救った」と言ってほめて下さったのです。(本文29頁)

 

 実の所私たちの実際は迷いがちであり、信じ切れないで苦労しているのではないだろうか。そしてしばしば教会は、そうした人々にいわゆる教義的、教理的に模範的な<すばらしい信仰>でも提示して、律法主義的に人を切り捨てる所があったのではないだろうか。

 

 こうした相談事例が私に「信仰による人間疎外」(いのちのことば社)や「福音は届いていますか」(ヨルダン社 藤木先生と共著)を書かせたことは間違いない。とすれば藤木先生の視点はそれこそ”キリスト教という縛り”の中で見落とされがちであった福音に新たな光を与え、「この光にふれたら」すべてのものは生きられることを示す慰めに満ちた書といえよう。

 

         (くどう・のぶお=平安女学院大学教授・精神科医)