書評

藤木正三

『断想 神の風景』

(しつけ)のきいた美しい文章

 

 週報は教会の顔である。週報が乱筆乱文なら、誤字当て字が散見したら、拙速そのままの文章なら、私の胸は痛む。

 

 文章に一番大切なのはディシプリン、規律、躾である。しつけられる一番の道は、制限字数の中で締め切りを与えられてものを書く訓練を積むことである。牧会なさる教会の週報に240字の制限内で15年間毎週書かれた文章約450編のうち220編をまとめられた「神の風

景」は、まず、この意味ですぐれた書物である。

 

 巻を開けば、各頁の躾が幾何学的美しさをもって追ってくる。一頁一断想を読めば、推敲の結果しか生まれない文章が、むだのないわかりやすい美しさをもって迫ってくる。わかりやすいと言っても、それは“見せかけ”のわかりやすさであって、読めば読むほど、著者の思考の深い所の動きが伝わってくる。

 

 「神の風景」の考え方の中心は「しかし」にある。たとえば、第2章「散って生きる」にまとめられた22の文章のうち、半数以上の14が「しかし」を文中に持っている。

 

 藤木牧師の断想は、まず、世間の常識や既成教会がよしとする生き方、考え方を挙げ、「しかし」と立ち止り、ある場合は常識を逆転し、ある場合は考え方を深め、ある場合は生き方に挑戦する。イエスの教えの多くが逆説であること、また、パウロの回心も「しかし」による(Iコリント15・20)ことを考えると、藤木牧帥の文章文格は聖書によると言えよう。

 

 こうした思考の根本構造を除けば「神の風景」は聖書をあらわにしない。それは「できるだけキリスト教用語や表現を避けてまとめた断想」(あとがき)にしては当然のことであろう。そして「信仰に何の関心を持たない人でも、一寸立ち止って人生を見直す」という、福音伝道のよき目的にかなうことでもある。

 

 日本のプロテスタントキリスト教界はこの百余年聖書に感動してきた。しかし、その感動はハレルヤ、アーメンと異国語 (あるいは教会用語)で雲消霧散し、日本の大気に何の痕跡も残していない。

 

 「神の風景」はこの意味で教会と世間の掛け僑となろう。再版の際の希望を申し上げれば、日本のクリスチャンにはハレルヤ、アーメンしか知らぬ人、聖書が思考と言辞と生活の中心になっている人もいるのだから、各々の断想が聖書のどことかかわるのか示していただけたらと思う。断想を生んだ聖日説教のテキストを一頁ごとに付けるのが外の人に差し支えるなら、巻末に索引なみに付けていただけたら、内の人にも益すると思う。

 

奈良女子大学文学部教授

福音教会 奈良福音教会会員

清水 氾