書 評

ロイクラトン1

生の命の気づきに導く言葉

藤木正三著

系図のないもの

山根道公

 

著者には、長い牧師生活時代の三冊の断想集「灰色の断想」「神の風景」「福音はとどいていますか」と、牧師引退後に刊行された「この光にふれたら」があるが、それらに一貫する姿勢は、教義的正しさといった枠組みにとらわれない自由さで聖書の言葉に触れて、あるがままの自分が感じたことを、自分の言葉で語る誠実さであり、それは本書の最大の魅力でもある。

 本書は十編の礼拝での説教に講演と対談を加えた十二章からなる説教集であるが、著者はあえて副題に「聖書的独白録」と付けている。その意味について「まえがき」で「自分本位に曇った目のために自分自身が見えなくなっているわたしに、イエス・キリストが曇りのない目となって見せてくださったわたしの有様とその生き方、それをわたしの言葉で」イエスに向かって語った独白であると述べている。さらに本書の題名については「「系図」、即ち、人をあるがままに、その人本人として単純に見ることを妨げるようなもの、イエスにはそのようなものは何も無いのです」と説明している。

 ここには、イエスが自分をあるがままに受け入れてくれる方であるという確信と、そこによせる全幅の信頼がある。自分をあるがままに受けとめてくれる親の愛のまなざしのうちでなら、自分の考えの客観的な正しさなど気にせず、親が教え導いてくれるという信頼をもって、その親に向かって感じていることを、不安でも疑問でもありのままに話せるだろうが、そんな自由さ、大胆さが著者の聖書的独白には感じられる。

 このような信仰に深められた著者の歩みは、NHK教育テレビ「こころの時代」での話を収録した十二章の「対談 いのちの輝き」に語られており、まず、こちらを読んで、一章からの説教を読むのも良いと思われる。そこで著者は宗教の果たす役割として「生かされて今ここにある命、その命そのものに身を置いて、その生の命を実感し、味わいながら生きることが、人間としての究極的な人生態度であるということを、言葉の力を信じ、工夫して語ること」と述べ、具体的なこととして次の3点を挙げている。

   信仰の問題を語るにあたって、教会内でしか通用しないような教義的な言葉を避けて、語る者自身の人間としての弱さの中で味わった(丈夫な人には医者は要らない、いるのは病人である、と言われたイエスの言葉に応えて、助けを求める弱い人間に、まず自ら正直になって味わった)聖書の言葉を、自分の言葉で、人生論風に語ることです。……教えの正しさに龍もり、理念的になりやすい伝統的宗教は、むしろ人生論風に語る必要があると、私は考えます。

   生かされている者であるのですから、そのことを弁えて、「限度のセンス」を一人ひとりが養うよう、語ることです。

   苦悩に対する態度についてです。悩みに遭遇した時に、それを克服しようとするよりは、あるいは、それを避けようとするよりは、むしろそれに丁寧に出会うように、語りたいと思います。……

 このような姿勢で語られる著者の説教には、説教にありがちな、言葉が心から遊離し、どこか無理があり、偽善や胡散臭さが感じられるというようなところがなく、自分が心から感じ、納得していることだけが、それ以上でも以下でもない著者の人生に裏打ちされた等身大の言葉で語られている。また、この説教の中には、聖書の言葉と響きあう、具体的な人間の魂の(ドラマ)を語る感動的な挿話も多く、特に4章と7章では、読む者の魂を揺さぶらずにいない、死を宣告されたなかで命を輝かせる若い女性の姿が語られており、本物の等身大の言葉には敏感な女子学生たちに読ませたいと思われた。そうした言葉には、彼女たちの心を開かせ、生の命を実感し味わいつつ生きる生き方がどんなに価値あるか、気づかせる力があると思えるからである。

 この世紀末の日本では命の感覚の希薄さが切実な問題となっているが、生かされて今ここにある生の命に気づかせてくれる、本物の等身大の言葉の力をもつ本書が、教会の内外を問わず、一人でも多くの人に読まれることを願ってやまない。

 

      (やまね・みちひろ=ノートルダム清心女子大学客員講師)