かけがえのないひとり 平松良夫 牧師 |
かけがえのないひとり
平松良夫
私は、東京のある病院のホスピスに関わっていたことがあります。そこでは、癌にかかり、もう回復の見込みがないと診断された方々が、この世の最後の時を過ごしておいでになりました。私の役目は、医療的な処置によって痛みの和らいだ患者さんたちが、ご自分の人生を恵みとして振り返り、この世のいのちに幸せな別れを告げること
ができるように助けることでした。
ある朝早く、ひとりのお年を召した男性の方が息を引き取られました。私が毎日のように会ってお話をお聞きしていた方で、付き添うご家族もいらつしやいませんでした。お医者さんや看護婦さんたちが必要なことをしてくださった後、私はひとりでそばにすわっていました。ふと窓の外に目を向けると、よく晴れた空に小さな雲がいくつか浮かんで、ゆっくりと流れていました。深い静けさを感じさせる朝でした。
私は思いました。やがて人々は起きだし、いつものように顔を洗い、着替え、朝食をとって、学校や会社に出かけていったり、家の用事に取りかかったりすることでしょう。ひとりの人が、二度と繰り返されることのない生涯を終えたのに、世の中は何事もなかったかのように営みを続けてゆきます。では、その朝世を去った人の存在は、この世界の人々にとって何の意味もなかったのでしょうか。
いや、そうではない、と聖書は私たちに告げています。ひとりの人が、二度と繰り返されることのない生涯を終えたのに、世の中は何事もなかったかのように営みを続けて行きます。では、その朝世を去った人の存在はこの世界の人々にとって何の意味もなかったのでしょうか。
いや、そうではない、と聖書は私たちに告げています。ひとりの人が世にある時と去ってからとは、この世界は決して同じではありません。私たちの目には変わりなく見えても、神様の目にはそうではないのです。ホスピスで世を去ったこの身寄りのないお年寄りのことが、その生涯に触れ合った人々の記憶にとどまるのは、ほんのしばらくのことかもしれません。しかし神様にとって、御子イエス・キリストの十字架の犠牲に値した一人ひとりの存在は、永遠に消え去ることがないのです
(イザヤ49章15節、ローマ8章38-39節)