喜びの種 平松良夫 牧師 |
喜びの種
平松良夫
「少女パレアナ(ポリアンナ)」(エレナ・ポーター作)というアメリカの物語があります。主人公の少女パレアナは、牧師の家庭に生まれ、幼い時に母親を亡くします。それからは、教会の婦人たちの助けを受けながら、父親の手で育てられます。ところが、まだひとり立ちするのには早過ぎるころに、父親も天に召されてしまうのです。ひとりになったパレアナは、伯母さんのもとに引き取られて成長してゆきます。
このような境遇にあって、パレアナの心を支えたのは、牧師の父親が教えてくれた「喜び探し」という遊びでした。聖書の中には、「喜び」を意味する言葉がたくさん出てきます。ですから、どんな時でも必ず喜べることがあるはずだというのです。
伯母さんがパレアナを引き取ったのは、ただ親戚の義務を果たすためでした。しかし、伯母さんの固く閉ざされた心も、パレアナといっしょに暮らすうちに、だんだんほぐれ、開かれてゆきます。
このように、パレアナの行くところではどこでも、まわりの人たちの心まで明るくあたたかくなるのです。そのため、あるお医者さんは、勧めることを何一つ聞こうとしない頑固な患者さんに困り果てた時に、こう言ったくらいです。「この人には、パレアナを一服あげるのが一番だ」。
獄中にありながら、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4章4節)と勧めたパウロの目は、ひたすらイェス・キリストに注がれていました。私たちは、順調な時にしか保つことのできない楽観的な気分ではなく、いつも変わらない確かな根拠に基づいて、喜びの種が絶えずまかれていると信じることができるのです。そう信じて探す時、絶望と感じられる状況の中でも、初めは気付かなかった喜びの種が見えてきます。
私たちにいのちの恵みが与えられているのは、キリストの十字架に示された父なる神の限りない愛を日々の生活の中に見いだして、喜び感謝しつつ生きるためです。