帰る

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平松良夫 牧師

帰る

平松良夫

 

何年か前の夏に、札幌に向かう夜行列車に乗っていた時のことでした。ラウンジの大きな窓からぼんやりと夜景を眺めていた私に、ほかの人たちがいなくなるのを待って話しかけてきた人がいました。

 

「そうか、あんたも札幌へ行くのか。おれは三十年ぶりに帰るんだよ。おやじとけんかしてね。それじゃってんで東京へ出てきたんだ。いろんな仕事をしたよ。でも、どれもものにならなくてね。まとまった金ができたら帰って、こんなに立派にやってるんだって見せようと思ってたら、おやじは死んじまった。もう十年も前のことさ。

 

最近は、体の調子が悪くてね。ねえさんが心配して、もう帰ってこいって言うんだ。でも、おれはもう六十だよ。帰ったって、おふくろに、八十になるんだけどさ、何もしてあげられるわけじゃない。

 

……こわいんだよ。帰るのが」

 

ルカによる福音書のたとえ話の中で、父親の愛の深さがわからずに家を出た息子が、どん底の生活を味わって目が覚め、帰ってきます。その時に、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15章20節・新共同訳)、と書かれています。いつも心に浮かべて待っているのでなければ、前もって知らせることもなく帰った息子が、まだ遠くにいて、しかも落ちぶれて姿が変わっているのに、すぐに気が付くことができるものではありません。同じように、私たちすべての者の父でおいでになる方は、私たちがご自分のもとに帰るのをいつでも待っていてくださいます。

 

キリストが十字架の犠牲によって私たちの罪の蹟いを成し遂げ、復活され、私たちのいつも変わらぬ執り成し手として共にいてくださるからには、たとえどんなにたくさんの深い過ちを重ねても、世を去る時を目の前にしていても、もう遅いということはありません。父なる神のもとに帰る時は、いつでも「今」なのです。

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図 1