待つ時

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平松良夫 牧師

 

 

待つ時

平松良夫

もう少しのところで電車に乗り遅れると、大きな損をしたような気持ちになります。それは、待つ時間が無駄に思えるからではないでしょうか。

 

私たちはほとんどいつも、効率よく物事を進めようとします。それは、たくさんの事を確実に処理するためには必要なのでしょうが、仕事ばかりでなく、効率など忘れてもよいはずの休養や遊びの場合も、無駄なく時間を使おうと考えてしまいがちです。

 

自然にできた一本の道と所々に生えている草や木のほかは、見渡すかぎり何もない広野に、どこからともなく人がやってきて、いつ来るとも知れないバスを待つ。こんな風景を映画などで見ると、私たちは結局何のために急いでいるのだろうか、と思います。豊かな「今の時」が、広野に立つ、その人の内と周囲の世界とを満たしているような気がします。

 

作物を育てるには、できるかぎりの手をかけながらも、実りの時が来るのを待つことが必要です。子育てが、まさにそうです。親にできるのは、それぞれの子供の成長過程に添って、時に応じた手助けを与えることで、先を焦れば、子供の心や体の成長をゆがめるばかりです。病気から回復するのにも、やはり縮めることのできない時間があります。

 

聖書は、「すべてのわざには時がある」(伝道の書3章1節・口語訳)と言っています。働くにも、休むにも、遊ぶにも、それぞれの時があるというのです。そうであるなら、待つ時も、決して無駄な時間ではなくて、生きることの中に確かな位置が与えられた、必要な時のひとつであるはずです。

目的が遂げられる時だけではなく、それを待ちながら誠実に課題と取り組み続けるひと時ひと時が、私たちにとって生きる恵みを味わう大切な時です。実りの時と待つ時は、ひとつなのです。

 

神様は、私たちに恵みを注がれるために、それぞれの時を備えられたのです。