祈りの恵み 平松良夫 静まる時 私たちの生活は毎日あわただしく、仕事や家庭のことなど差し迫った用事に追われ、なかなか落ち着いて祈る時間が取れません。黙想の助けとして書かれた、アントニー・デーメロ神父の「蛙の祈り」という本の中には、こんな話が載っています。 ある老師が、その地方の知事に「瞑想なさってはいかがですか」と勧めました。しかし知事は、「せっかくのお勧めですが、忙しくて、とてもそんな時間が取れません」と答えたというのです。 「忙しいので目隠しを取る暇もないと言って、目隠しをしたままジャングルを歩く人を思い浮かべますね」。そう老師が言うと、知事はこぶしを振り上げて叫びました。「そんなことを言ったって、全く時間がないんだ」。 老師は言いました。「時間がないから瞑想するのが難しい、と考えるのは間違いです。本当の原因は、心のざわつき、騒々しさにあるのです」。 わざわざ特別な時間を取らなくても、祈りの心をもって暮らしていればよいのではないか、とお考えの方もいらっしゃることでしょう。しかし、そのつもりでいるうちに、いつの間にか心と生活の焦点がぼやけ、周りの騒々しい動きに巻き込まれているということはないでしょうか。 エリヤは、バアルの預言者たちとの戦いの後ホレブ山に退き、主の「静かにささやく声」を聞いて、再び預言者として立つ力と導きを受けました(I列王19章1−18節・新共同訳)。私たちも、聖霊の働きにより聖書を通して心の奥に語りかけられる、生きることの原点となるべき言葉を聞くためには、この世のあわただしい営みから退いて深く静まるひと時が、ぜひとも必要なのではないでしょうか。 ただ、私たちの心はいつも同じ状態ではありませんから、確保した時間に祈りに集中できるとは限りません。いつの間にか神様を忘れて、物思いにふけっているということがあります。気にかかることが次々に浮かんできて、とても静まっているとは言えない心の状態のまま、祈りの時間が過ぎてしまうこともあります。何をどう祈ったらよいのかわからず、途方に暮れることもあります。退屈になって、しばしば時計を見ては、読みかけの本などに手が伸びそうになることもあります。しかし大切なのは、その内容がどうであっても、主にささげた時間として、ほかのことは何もせず、ひたすら主のみ前にすわって過ごすことだと思います。続けるうちに、主との交わりのために取り分けられたこの時間が、ほかのどの時間よりも慕わしいものになっていくに違いありません。 しかし、静かな祈りの時が信仰の歩みにとって欠くことのできないものであることを知っていても、なかなか望むようにはなりません。体調が良くなくて、朝の祈りの時間を十分に取れるほど早く起きられないことがあります。その日にすべきことを済ませてほっと息がつけるころには、疲れも出てきます。日中にひとり落ち着ける時間を見つけるのは、たいていの人にとってなおさら難しいことでしょう。しかし、もし祈りの時間を取りそこなう日が続いても、祈りそのものをあきらめてしまうことはありません。 カールーヒルティは、「眠られぬ夜のために」という本の中で、「悪魔のすべての仕業を水泡に帰せしめるためには、ただ一度だけ神を仰ぎ見るか、呼びかけるかすれば十分である」と書いています。仕事や家事の合間に、あるいはその最中に、ふと主を仰ぎ見る一瞬も、やはり祈りなのだと思います。信仰の内容が凝縮された、「主よ、われを憐れみたまえ」のような短い祈りの言葉を口や心で繰り返し唱えることも、主を仰ぐ心が深まり、私たちの生活の中に根づくのに助けとなるようです。 何をどう祈るのか 祈りが充実しないように思えても、いらだったり、やめてしまったりする必要はありません。たとえば、祈りというと、無理にでも言葉を探して語り続けなければならないかのように考えがちです。しかし神様は、私たちの心そのものを聴いてくださいます。私たちの間でも、信頼し気持ちが通う人と共にいる時には、黙っていても気づまりなどころか、静かな喜びで心が満たされているのを感じるのではないでしょうか。祈りにおいても、沈黙は決してむなしい時ではありません。主イェスーキリストのご生涯と十字架とご復活に表わされた父なる神のみ心に思いをめぐらしつつ、ただ黙ってすわっていることも祈りであり、主との交わりなのです。 時には、耐えがたい悲しみや苦しみを抱えて、どのように祈ったらよいかわからず、うめき声やため息しか出ないこともあります。それも祈りであり、憐れみ深いご配慮を絶やされない主との交わりです。言葉にならない祈りも、ぽつりぽつりと取りとめなく続く祈りも、私たちの思いをくまなく知っておいでになる聖霊が、誤りなく伝えてくださるのです(ローマ8章26節)。 私たちが人と接する時に、自分の言葉やふるまいが相手の気に入るか、それとも気にさわるか、ほとんどいつも心のどこかで考えているのではないでしょうか。そのため、祈る時にも、こんなばかなことを言ったら神様のお怒りを買うのではないか、こんな醜い過ちを告白したら見捨てられるのではないか、こんなつまらない愚痴をお聞かせしてはあきれられるのではないかなどと、いろいろなことを心配してしまいます。しかし、私たちのごたごたとした心の中をそのまま神様の前にさらけ出すことは、たとえそれが神様に対する怒りや恨みや疑問を含んでいても、やはり信頼の表われなのだと思います。 神様の前では、私たちは幼い子供のようなものです。親の立場になって考えると、自分の子供が悲しみや苦しみや疑問をその心の中にしまい込み、ひとりで耐えているとしたら、どんな気持ちがするでしょう。親としては、たとえ子供の抱えている問題がすぐに解決できないようなものであっても、せめて聴いて、その重荷を共に負い、少しでも軽くしてやりたいと思うのではないでしょうか。 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(ピリピ4章6節・新共同訳)と勧められているように、どんなことでも、どんな気持ちでも訴えることを、神様は望んで待っていてくださいます。私たちの祈りをとりなしてくださる主イエスご自身が、ご受難の時を前にして、「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14章36節)と、あるがままのお心を父なる神に差し出しておいでになるのです。 神様は、この世界のことも、私たち一人ひとりのことも、よくご存じです。しかし私たちが、自分の心を奥底まで注ぎ出して、生きるうえでの数々の重荷をキリストを通して私たちの父なる神にゆだね、共に負っていただく。そのようにして交わりが深められ、親しいものとなっていくことを神様は望んでいてくださるのです。 私たちは神の家族として、互いが試練の中にある時に、その苦しみ悩む心を聴き、励まし合います。しかし、私たちの魂の真のいやし手は、私たちすべての者の父でおいでになる神様です。イェスーキリストの十字架において愛の極みを示された父なる神こそが、気休めでない、魂の深みに至る慰めを与えることがおできになるのです。私たちの最も大切な役割は、その慰めを指し示すことです。 恵みのみ手にゆだねて 「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11章9節)と主イエスはおっしゃいます。しかし、私たちが願うことは何でもそのままかなえられる、と教えておいでになるのではありません。親が、子供のために何が良いのか判断し、その時のその子にとって最も良いものを選んで与えるように、私たちすべての者の父でおいでになる神様は、私たちにとって最も良いものを最も良い時にお与えくださるのです。ですから神様は、時には私たちを乏しい状態に置かれることも、悲しみや苦しみの中に置かれることもあります。しかし、そのような試練を通して、私たちが求める以上の恵みをお与えになるのです。 願いがかなえられないと、神様から見捨てられたように感じることがあります。家族や親しい友人のいやしなど、切実な願いが聞き届けられないように思われることが続くと、神様に怒りを感じることさえあります。しかし、いつも私たちが信じてよいのは、私たちの訴えを、神様は必ず聴いていてくださるということです(詩篇55篇17節)。ただ、私たちの求めに、いつ、どのようにしてお答えくださるのかということは、神様が私たちのためにお選びになるのです。 親を信頼する子供は、待つことができます。「あとで」と言っておいて忘れたり、ごまかしたりすることがない、と信じているからです。私たちの間の父親は子供の信頼を裏切ることがあります。しかし、この世界のどんな愛もはるかに及ばない、永遠に変わらず限りのない愛をもって私たちのためにご配慮くださる方、いつも私たちにとって最も良いものを備えていてくださる方が、私たちの状態と必要を知り、思いを聴いていてくださいます。必ず聴いて答えてくださると信じて求めることと共に、時が来てみ心が示され道が開かれるのを信じて忍耐強く待つことも、神様のお望みになることなのです。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10章36節)。 それゆえ、心のすべてを注ぎ出した後に、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14章36節)と祈って、すべてをおゆだねするのです。 十七世紀の修道士ローレンスは、五十歳を過ぎてから修道院に入りました。この年齢になって修道院の共同生活に順応するのは、難しいこととされています。その上ローレンスは、苦手な台所の仕事を任されて苦労します。しかしやがて彼は、それも喜ぶことができるようになります。「私は、フライパンの小さなオムレツを、神様への愛のためにひっくり返します。……何もすることがない時には、台所の床に落ちている一本のわらを、神様への愛のために拾い上げます」。 祈りの生活を通して、主との交わりがますます深まり、私たちが日々かかわるすべてのことを主への愛のためにささげることができるようになったら、生きることが重荷ではなく、もっと軽やかなものに変わっていくのではないでしょうか。 |