かけがえのないひとり

 

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ人や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスはつぎのたとえを話された。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。』と言うであろう。

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

ルカによる福音書15章1~7節

 

                

ガリラヤの湖のほとりで、ユダヤの丘の上で、イエス様は、聴く人々にとって身近なことを取り上げ、たとえ話にして、神様がどんなに私たちを愛しておいでになるのか、お伝えになりました。

 

百匹の羊を飼う人がいたというのです。ある日、羊を連れ、水や草を求めて歩き回っているうちに、一匹いなくなっていることに気がつきました。羊飼いは、九九匹の羊を野原に残して、その日歩いた道をたどり直します。

 

いなくなった羊に特別な価値があったとは書かれていません。それどころか、群れから離れずに歩くことができないのですから、何か弱さを負っていたのかもしれません。羊飼いは、野原に残す九九匹のことが心配だったでしょうし、疲れていたことでしょう。夕暮れが近づいていたのなら、野獣や強盗に襲われる危険もありました。しかし、放っておいたら、迷った羊は飢えと疲れで死んでしまうのです。

 

 羊飼いは、自分の疲れや危険もかえりみず、あきらめることなくさがし回って、ついに迷った羊を見つけ出します。

 

このたとえ話が告げているのは、私たちの中には、いなくても良い人,どうなっても良い人は、ひとりもいないということです。神様にとっては、どのひとりも、イエス様の十字架の犠牲に値する、かけがえのない存在なのです。

 

 いつでもどんなことがあっても、自分が神様からかけがえのない子として愛されていることを知る者は、まわりのどの一人も、同じように神様の愛を受けている大切な存在であることが分かります。

 

 私たちも、誰かを見捨てたくなる時、自分のことさえ、どうなっても良いと思える時、いのちの源でおいでになる方が、私たちをどんなに深く愛しておいでになるのか思い起こしたいと思います。

 

私は、清瀬にある病院のホスピスに関わっていたことがあります。そこでは、癌にかかり、回復の見込みがないと診断された方々が、この世の最後の時を過ごしておいでになりました。私の役目は、その方々が心安らかに残された時を過ごして、この世に別れを告げることができるように、過ぎた日々を苦労も含めて恵みとして受け入れ、さらに新しいいのちへの希望をもって、この世から旅立つことができるように助けることでした。

 

ある朝早く、お年を召した身寄りのない男性の方が息を引きとられました。窓の外に目を向けると、よく晴れた空に白い雲が浮かんで、ゆっくりと流れていました。深い静けさを感じさせる朝でした。

 

私は思いました。やがて人々は起き出し、いつものように顔を洗い、着替え、朝食をとって、学校や会社に出かけて行ったり、家の用事に取りかかったりすることでしょう。ひとりの人が二度と繰り返されることのない人生を終えたのに、世の中は何事もなかったかのように営みを続けてゆきます。

 

それでは、その朝世を去った方の存在は、何の意味もなかったのでしょうか。この方は、いてもいなくても良かったのでしょうか。

 

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。・・・たとえ女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」とイザヤ書(4915)に書かれています。神様に祝福され望まれて、この世に生まれた、このひとりの人の存在は、神様にとって永遠に消え去ることがないのです。

 

 私たちの地位や持つものや能力に関わらず、一人ひとりの存在そのものに、今あるがままの私たち自身に、かけがえのない価値があるのです。イエス様の十字架に表わされた神様のかぎりない愛のゆえに。

 

 このような神様の愛を受け、たくさんの恵みをいただいて生かされている私たちも、お互いをかけがえなく大切な一人ひとりとして、いただく恵みを惜しみなく分かち合い、支え合いながら歩んでゆきたいと思います。

 

日本基督教団隠退牧師 平松良夫