愛するということ 平松良夫 だいぶ前のことですが、「フォロー・ミー(私についてきて)」という題の映画が上映 されたことがあります。 舞台はイギリスのロンドンです。まじめで有能な弁護士さんがいて、自分の法律事務所を持って仕事をしています。三十過ぎのようですが、まだ独身です。お母さんはひとり息子に大きな期待を寄せていて、良い人と早く結婚してほしいのですが、本人は一向にその気配を見せず、独身生活を楽しんでいます。 この弁護士さんには、週末になると決まったレストランに行って、ひとりで食事をする習慣がありました。ある時、そのレストランで、若い不器用なウエートレスに出会います。注文をまちがえたり、グラスをひっくり返したり、いろいろな失敗をします。 きちんとしたことが好きなこの弁護士さんが、どういうわけか彼女にひかれ、そのレストランに行くたびに彼女を目で探します。やがてあいさつから会話が始まり、デートをするようになります。 この弁護士さんの趣味は、哲学や文学の本を読むこと、クラシック音楽を聴くことなどです。それに対して、アメリカから流れ歩いてきたこの女の人が好きなのは、ジャズを聴き、ダンスをすることでした。ずいぶん違うのですが、彼はこの女の人を理解しようと、自分がそれまで行ったことのない所へ行き、やったことのない事も試してみるのです。 だんだん親しさが深まり、良い家柄の娘との結婚を望んでいた、彼のお母さんの反対を押しきって、二人は結婚します。 古い伝統を受け継いでいる家庭です。お父さんはすでに亡くなっていて、お母さんとその弁護士さんとお嫁さん、三人の暮らしです。食事の時も、大きなテーブルに三人だけ、それも離れてすわり、ウエーターがついています。その夕食の時間に、お嫁さんは毎度のように遅れてくるのです。お母さんが、家のしきたりを守らないと言って彼女を非難します。初めは彼女をかばっていた夫も、やがて責めるようになります。 それでも彼女は、毎日のようにどこかへ出かけるのです。ついに夫は疑いを抱き始め、私立探偵に調査を依頼します。この探偵はちょっと変わった人で、よれよれのコートを着て、いつもマフィンをポケットに入れています。ただ、人の心がよくわかる人なのです。しばらくして、その探偵が報告にやってきます。夫が聞きます。「男がいるのか」。探偵が答えます。「います」。夫が顔色を変えて、「それはだれなんだ」と聞くと、探偵は目の前にいる夫を見つめ、指さして答えます。「あなたです」。 彼女は、たださまよい歩いていただけなのです。夫は探偵に尋ねます。「どうしたらいいのだろう」。探偵は言います。「ただ奥さんのあとについてゆきなさい。しかし、話しかけてはいけません」。 話しかけては、また彼女に要求し、縛ることになります。彼女は夫を愛し、夫と一緒にいることを望んでいるのです。しかし、一緒にいると、夫が家から受け継いだ妻の型を押しつけられ、自分ではなくなる。一緒にいたいが、一緒にいることができない。 私たちは、まわりの人たち、特に親しい友だちや一緒に生活する家族に、自分の期待を押しつけがちです。押しつけられた相手は、愛情を失い、嫌われるのが怖くて、自分を押し殺してしまうことがあります。しかし、それではあるがままのその人ではなくなります。良い事でも、押しつければ暴力です。まして、自分のわがままな欲求を押しつけては、家族や友だちとの心通い合う関係は生まれません。 聖書は、愛するということを、私たちが人間らしく生きるために最も大切なこととして教えています。生きることは愛することだと言っても良いのです。しかし、聖書に表わされている愛は、相手を自分の思い通りにしたいという欲求ではありません。そうではなくて、相手の人が自分自身であるのを望むこと、その人が自分らしい呼吸をして、生き生きと喜んで生きるのを望み、助けることなのです。 |