見つけるまで

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平松良夫

 

最近、友人から聞いて、『あの子をさがして』という中国映画を見ました。

町から遠く離れた山間の村に、土壁の教室が一つだけ、先生が一人だけの小さな小学校があります。そこへ十三歳の少女が村長に連れられてやってきました。先生が危篤の母親に会いにゆくので、一ヵ月間その代わりをするためです。

 

先生は、歌一つ満足に覚えていない少女に、こう言い置いて旅立ちます。「ただ教科書の内容を黒板に書いて、生徒たちに写させればよい。もし生徒が一人も減らなかったら、村長が約束した報酬のほかに褒美(ほうび)をやろう」。

 

ある日、いたずらで言うことを聞かずに少女を困らせていた男の子がいなくなります。父親が亡くなり、母親は病気で、借金がかさむばかりなので、町に働きに出されてしまったのです。村長に相談しても、できることはないと言って取り合ってくれません。仕方なく、一人でその男の子を捜しにゆくことにします。しかし、バスに乗るお金がどうしても手に入らず、歩いたり、通りがかりの車に乗せてもらったりして、ようやく町に着いてみると、その男の子は行方が知れなくなっていました。

 

大きな町です。どこをどう捜したらよいのかまったくわかりません。あちこちを歩き回るうちに気が付いて、呼び出しのアナウンスを頼みますが、男の子は現われません。電柱に尋ね人の貼り紙をしようと、残ったお金を全部使って紙と筆と墨汁を買い、駅の待合室のいすで、寝ずに百枚も書き上げます。ところが、連絡に必要な住所や電話番号が落ちていたのです。そのことを指摘してくれた人から、テレビが一番効果的だと教えられます。しかし、長い時間歩いてたどり着いたテレビ局では、身分証明もお金も持たない少女は相手にされず、受付の人や警備員に追い出されてしまいます。

 

それでも少女はあきらめて村へ帰ることをせず、テレビ局の門の外に立って、局長が出てくるのを待つのです。夜が更けて門が閉まると、すでにお金を使い果たしていた少女は、料理店のテーブルに残っていたものを人目を盗んで食べ、飢えをしのぎます。疲れ果てて、道端で眠り込んでしまった少女の手から、百枚の尋ね人の貼り紙が落ち、風に吹かれて散ってゆきます。

 

明くる朝も、テレビ局の門の前に立って局長を待ちます。その少女の姿に目を留めた人から事情を聞いた局長は、少女が教育関係のテレビ番組に出演できるように取り計らってくれるのです。しかし少女は、番組のキャスターから僻地の学校の状況について尋ねられても、緊張して何も言えません。促された少女は、こぼれ落ちる涙を手でぬぐいながら、カメラを通して男の子に呼びかけます。それを見たある料理店の主人が、自分のところにいる男の子のことだと気が付きます。飢えてさまよい歩いていた男の子は、そこで皿洗いをしながら食べさせてもらっていたのです。

 

テレビを見て心動かされた人々から寄付が集まって、男の子の母親は借金を返し、かなり傷んでいた校舎も建て直されることになりました。一日一本しか使うことができなかった白墨もたくさんもらい、みんなで一字ずつ黒板に書く場面で映画は終わります。

 

初め少女は、約束された褒美が目当てで、この男の子を連れ戻そうと思ったのでしょう。しかし、試みたことが次々に失敗してもあきらめず捜し続けるうちに、男の子を見つけ出して助けることそのものが目的になってゆくのです。

 

いなくなった一匹の羊を「見つけるまで」捜し歩いた羊飼いのように(ルカ15章3〜7節)、神様は、繰り返しご自身から離れてさまよう私たちを、どの一人も見捨てず、どんな犠牲も惜しまずに助け、みもとにある、かれることのない憩いの泉に導き戻してくださいます。また私たちが、つまずき迷いながらも、あきらめることなく主を慕い求める歩みを喜び、愛をもって応えてくださいます(エレミヤ書2913節)。

 

このように、いつも私たちを助け生かそうと見守り、働き続けていてくださる、父なる神の永遠に変わらぬ真実な愛に支えられて、私たちは自分の知恵や力が尽きる時にも、揺らぐことのない希望を抱いて生きることができるのです。