かめの遠足

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平松良夫

 

歌詞も文学のうちと考えて、今回は「トラや帽子店」というコーラスーバンドの歌を取り上げたいと思います。子供にとっても大人にとっても楽しい彼らの作品の中に「かめの遠足」という歌があります。

かめが遠足に行くことになって、三日前からリュックサックにお菓子をつめ始めます。好きなチョコレートは、遠足の日までに溶けてべたべたになってしまいます。

当日は、夜明け前から集合場所へ向かって出発するのですが、ようやく着いてみると、一緒に行く予定の仲間たちもバスもいません。もう昼になっていたからです。しかし、かめは気落ちすることなく、お弁当をバス停で食べて、ゆっくりと山に向かいます。山に着いたら何をしようか楽しみにしながら、口笛を吹いて。

 

夜になっても、かめは山に着きませんでした。それでもかめは、少しもあせることなく、きれいな星空を眺め、明日の旅を夢見ながら眠ります。間に、繰り返しの詞が入ります。

 

のんびりゆこう のんびりゆこう

いそいでゆくと すぐおわるだろう

のんびりゆこう のんびりゆこう

ゆっくりゆけば まだまだつづく

 

こういう歌を聞くと、ほっとして、ゆったりお風呂につかっているような気持ちになります。

 

速くどんどん先に進む方が快く感じられる人にとっては、ゆっくりと時間をかけることはかえって苦痛になるでしょう。それに、ぜひとも間に合わせなければならない用事もあります。しかし、その必要がないのに、速く進むのが好きなわけでもないのに、急がなければと追い立てられる気持ちになるのはなぜでしょうか。

 

「かめの遠足」の歌を聞いていて気が付いたことがあります。「のんびりゆこう。……いそいでゆくと、すぐおわるだろう。……ゆっくりゆけば、まだまだつづく」。つまり、目的地に早く着くことを望んでいるのではなくて、遠足そのもの、その全体を楽しんでいるのです。

 

ゆっくり働き生活するのが好きな人に限らず、速いのが好きな人にとっても、やっていることの結果ばかりでなく、その過程も楽しんで、かかわる物事の全体を味わうことができれば、日々の暮らしがもっと落ち着いたものになるのではないでしょうか。

 

有名な大学に入り、社会の中で高い地位につくというようなことも、その時その時の自分にふさわしいことに喜びをもって打ち込んだ結果ならよいのですが、ゴールとして目指すもの以外には心が向かず、途中は息をつめたような生活を続けることになるとしたら、人生を短くして、その一部分しか味わえないような気がします。なんとかゴールに達しても、果たして自分らしい深い呼吸の仕方を取り戻すことができるでしょうか。

 

ユックリと勉強して、

ユックリと恋愛して、

ユックリと歳をとってゆくことである。

人生の楽しみ、自らその中にあり、である。

 

これは、小説家で童話作家の坪田譲治が六十二歳の時に書いた言葉です。

 

人生の一つ一つの段階を、結果をあせらず、苦労も含めてかみしめながら、十分に時間をかけて過ごしてゆく。ここに生きることの豊かな喜びがあるのではないかと思います。

 

聖書によると、生きることは愛すること、神様を愛し、互いを愛することです。生きることの目的が愛することだとしたら、先を急ぐ必要はないはずです。ひと時ひと時が愛の機会だからです。

 

カールーヒルティの『眠られぬ夜のために』という本の中に、こう書かれています。「キリストは何事にも時間をかけ、良い事についてもあせるということがなかった」。

 

私たちのために、いつも最も良いことを望み計らおうとしていてくださる神様に信頼して、与えられるひと時ひと時を恵みとして味わい感謝することができたら幸せです。