モモ

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平松良夫

 

モモという名の女の子がどこからかやってきて、町のはずれの、とうの昔に使われなくなった劇場に住み着きました。町の人たちは、帰る所もないこの小さな女の子が飢えることも寒さに震えることもないように、温かく行き届いた心遣いをしてくれました。

 

時がたつにつれ、モモが町に来たことは、モモばかりでなく、そこに住む人たちにとってもたいへん幸せなことだったのが、だんだんわかってきました。モモのところには近所の人たちが次々と訪れ、それができない時には、自分の家に来てほしいと頼みました。そのうちに、何か問題が起こると。まるで決まったことのように、「モモのところに行ってごらん」と言われるようになりました。

 

小さなモモが町の人たちのためにしてあげられたのは、何も特別なことではありません。訪ねてくる人の話を、ただじっと聴くことでした。

 

モモは、澄んだ深い湖を思わせる目で相手を見つめながら、その心に耳を傾けます。私たちの場合、聴く形はとっていても、早く話が終わらないかな、これから話したいことがたくさんあるのにとか、済ませなければならない用事がたまっているのにとか、また同じ話だ、疲れたなとか、そんなことを考えて心を散らしてはいないでしょうか。しかしモモは、相手が何度同じことを話しても、いつまで話していても、決していらだったりすることなく、その人の気持ちが満たされるまで、じっと聴き続けます。

 

すると話を聴いてもらっている人は、混乱した心がいつの間にか落ち着いてきて、沈んだ心が軽くなってくるのを感じるのです。そして、だんだん自分自身と自分のぶつかっている問題のあるがままの姿が見えてきて、もう一度その問題と取り組んでみようという、勇気と力と希望が湧いてくるのです。

 

たとえば、自分なんか生きていたってしかたがない、ろくなことができないし、だれも尊敬してくれない、いてもいなくても、まわりの人たちにとって大した違いがありはしない、と感じている人が、モモに心の中を打ち明けたとします。すると、不思議にそれまで気付かなかったことが見えてきて、自分には自分なりの生き方があるのだ、ちっぽけな者でも、この世界の中にほかの人と替えることのできない位置が与えられているのだ、ということがわかってくるのです。(ミヒヤエル・エンデ作『モモ』より)

 

聖書は、どんなにみすぼらしく見える人でも、あまり役に立たないと思われている人でも、自分はだれからも好かれず価値のない人間だと感じている人でも、神様の目にはかけがえのない大切な一人ひとりなのだ、と告げています。いなくてもよい人は、この世界に1人もいないのです。

 

同じように私たち自身も、神様から愛され、恵みに支えられて生きる者同士として、お互いを大切にして暮らすことが望まれています。

 

だれかを大切にするには、どうしたらよいのでしょうか。人や時によって違いがあるにしても、いつでも確かに必要だと言えるのは、聴くことです。それも、ことばだけでなく、その奥の心を聴くことです。私たちは、このように深く聴いてもらえる時に、ことばだけでなく、自分自身が受け入れられていると感じます。いろいろな問題を負っている自分が、あるがままに受け入れられ、大切にされているのを知ることは、この上ない幸せです。また、そのような幸せを見いだす助けになれるのは、同じくらいに、あるいはそれ以上に幸せなことです。

 

私たちが家族や友人だけでなく、日々ふれ合う人たち一人ひとりのうちに、神様から大切にされているかけがえのない存在とその生きる価値を見いだすことは、同時に私たち自身の生きる真の価値を見いだすことです。それは、何かができる、できないにかかわらず、持っているものにもよらず、神様から恵みとして与えられている価値なのです。

 

このように、私たちがお互いの心に耳をすます時、向かい合っている人を通して神様の愛に満ちたみこころにふれ、その人にも私たち自身にも注がれている豊かな恵みに共にあずかることができるのです。