ぶらり信兵衛

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平松良夫

 

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢に

なりません」   (Iコリント13章4節)

 

だいぶ前のことですが、テレビで「ぶらり信兵衛道場破り」(山本周五郎原作『人情裏長屋』)というコメディ調の時代劇を放映していました。松村信兵衛という浪人が長屋に住んでいて、ふだんは近所の子供たちに読み書きなどを教えて暮らしています。ところが、だれかが困っているのを知ってまとまったお金が必要になると、信兵衛は町の道場に出掛けてゆき、手合わせを申し込むのです。

 

信兵衛は、いつもにこにこして、長屋の人たちと冗談を言い合ったり、時にはうかつなことをやって笑われたりしていますが、実は並外れた剣術の腕を持っているのです。ですから、町の道場主には楽に勝てます。しかし信兵衛は、相手がわかる程度に力を見せておいてから、わざと負けるのです。道場主は、本当は自分が勝てる相手ではないことを知っていますから、二度と来ないように、相当のお金を差し出します。信兵衛は、それを使って人助けをするわけです。

 

信兵衛は、その気になれば、名をなすことも、かなりの地位につくこともできる能力を持っています。このような場合、たとえ自分が落ちぶれていても、まわりに暮らす貧乏で名もなく地位もない人たちを見下して、まともに相手にしないことがあります。

 

しかし信兵衛は、決してそういう態度を取らないのです。長屋にはいろいろな人たちが住んでいます。貧乏なのは皆同じですが、ばかなことを言ったりやったり、だらしがなかったり、中にはけちだったり、ずるかったりする人もいます。また、仲間のだれかが危ない時、自分の身を捨てて助けにかけつける勇気が出なくて、自分や家族を守るのが先になり、見て見ぬふりをしてしまうこともあります。

 

温かい人情はあるのですが、そういう弱さや愚かさを持った人たちに対して、信兵衛は実に思いやり深く寛容なのです。気さくに長屋の人たちと付き合って、何か問題が起こった時には、自分のことのようにあれこれ悩み、いざとなったら道場破りという奥の手を使って助けるのです。

 

私がこの番組を見ていたのはまだ十代の後半でしたが、あんなふうに寛容になれたら、人間関係がずいぶん楽になるだろうな、と思ったのを覚えています。

 

私たちは、心の中であっても口に出しても、まわりの人たちに対してたくさんの要求を抱きがちです。しかし、なかなかその通りにはなりませんから、不満がつのり、まわりの人たちを困らせるようなことを言ったりしたりして、関係が悪くなり、自分自身も辛い思いをします。

 

私たちはだれでも、いろいろな問題を抱えて暮らしています。お互いの限界や弱さを知った上で、それでもなお拒否することなく、ゆるし合い助け合って、いっしょに少しずつでも成長してゆくことができたら、本当に幸せです。

 

私たちが愛し合うことをお望みになる神様ご自身が、私たちの醜さや弱さをすべてご存じの上でゆるし、あるがままの私たちをかけがえのない子として愛してくださっています。このように計り知れない寛容をもって神様から受け入れられている私たちが、どうしてお互いに小さなことをとがめ立て、心を閉ざすのでしょうか。また、すでに神様からゆるされている自分を、どうしていつまでも責め続けるのでしょうか。

 

キリストの十字架においてその限りない愛を示された神様は、私たちに関する一つ一つのことばかりでなく、何よりも私たちの存在そのものをお喜びくださっています。私たちがお互いにゆるし合い、寛容であることは、その愛に感謝をもって応えることなのです。

 

「しばらくの間、批判することをすっかりやめてみなさい。そして、いつでもどこでも、力をつくして良いことを励まし、助けるように努めなさい」(カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために』)