与える幸い

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平松良夫

『与える木』(邦訳『大きな木』)というアメリカのシルヴァスタイン作の絵本があります。

 

昔、一木のりんごの木がありました。この木には、小さな男の子の友達がいました。男の子は毎日やってきて、木の幹を登り、枝にぶらさがって揺らし、りんごを食べて、遊びました。疲れると、木の陰で眠りました。男の子は木が大好きでした。木は幸せでした。

 

月日がたち、大きくなった男の子がやってきた時、木は言いました。「さあ、私に登って枝を揺らし、りんごを食べて遊びなさい」。男の子は答えました。「ぼくはもう大きくなったから、そんなことをして遊んだりしないのさ。……買いたい物があるんだよ。お金が欲しいんだ」。「それなら、私のりんごを取って、町に持ってゆきなさい。売ったら、いくらかのお金になるだろう。それで欲しい物を買いなさい」。そこで少年は木に登り、りんごをたくさん取って、持ってゆきました。木は幸せでした。

 

長い間姿を見せなかった男の子が、大人になってやってきた時、木は枝を揺さぶって喜び、前のように遊びに誘うのでした。しかし大人になった男の子は言いました。「忙しくて、木に登ったりしてはいられない。結婚して子供が欲しいんだ。みんなで暮らすには、家が必要なんだよ」。木は言いました。「私には家がない。森が私の家だからね。でも、私の枝を切って、それで家を建てなさい」。そこで、大人になった男の子は枝をみんな切って持ってゆき、家を建てました。木は幸せでした。

 

多くの年月が過ぎ、すでに中年になった男の子がやってきた時、木はうれしくて、のどが詰まりそうになるほどでした。「さあ、来て遊びなさい」。「気が重くて、遊ぶ気にならない。船に乗って、遠くへ行きたいんだよ」。それを聞いて、木は言いました。「私の幹を切って、船を造りなさい。それで好きな所へ行けるだろう」。そこで男の子は木の幹を切り、船を造って、どこかへ行きました。木は幸せでした。

 

また長い時が過ぎたある日、その男の子がすっかり年老いてやってきました。「ごめんよ。もう、あげるものが何もない」。そう木が言うと、「歯が弱くなって、りんごはかじれないよ」と年老いた男の子が答えました。「枝も幹もなくなってしまった」。「疲れて、枝にぶらさがるのも、幹を登るのも、とても無理だ」。木がため息をついて、言いました。「ごめんよ。何かあげられるものがあったらなあ……。でも、もう何も残っていない。あるのは、古い切り株だけだ。悲しいよ」。年老いた男の子が言いました。「今はもう、なんにもいらない。ただ、すわって休む静かな場所が欲しいだけさ」。「そうかい」。木は少し元気になって言いました。「すわって休むのには、古い切り株なんか実にいいと思うよ。さあ、来て、すわりなさい。すわって、ゆっくり休みなさい」。年老いた男の子はそうしました。木は幸せでした。

 

この木は、自分の持っているものを次々と与えて、最後には切り株だけになっても、幸せでした。木が悲しく思ったのは一度だけ、もう男の子にあげるものが何もなかった時です。その時にも、まだ男の子にしてあげられることが残っていたのを知って、大変に喜びました。

 

私たちは、この男の子のように、家族や友達など、まわりの人たちから何かしてもらうことばかり考えてはいないでしょうか。しかし主イエスは、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20章35節)とおっしゃっています。

 

もちろん、「受けること」、何かしてもらうのもうれしいことです。それが温かい心から出たことでしたら、なおさらです。しかし、いつも他の人たちから受けることばかり考えて暮らしていたら、幸せでしょうか。きっと、この人もあの人も私が望むようにしてくれなかった、そんな悲しさや悔しさで心がいっぱいになって、まわりの世界が暗く曇って見えてくることでしょう。

 

ところが、日々ふれ合う人たちのために、何かできることはないか、たえず探しながら暮らしていると、喜びの種は尽きることがありません。まわりの人たちにしてあげられることは、いつでも何かしらあるからです。