2017年ウェスレー回心記念日集会

        於本多記念教会

講演「日本メソジスト教会110周年記念の遣産と今」(後半)

 

山梨英和学院理事長・山梨英和大学

前学長・合同メソジスト教会宣教師

     ジョージ・W・ギッシュ

 

それぞれの教会、また学校は創立者を大事にします。メソジスト監督教会のロパート・サミュエル・マクレイはその一人の指導者です。日本に派遣する前に中国の福州で25年間宣教師として務めました。何年か前に梅津順一(青山学院院長)先生ご夫妻がその当時の教会を訪ねられたそうです。ある意味で、中国で一番古いメソジスト教会はマクレイが建てたのです。マクレイは、本当は早く日本にも来たかったのですが、先ず、ベリーが1853年に日本に来航した直後、その艦隊が香港に入港した時、マクレイの奥さんが出産するため、たまたまマクレイご夫妻がそこに滞在中でした。日本の情報を得るためにマクレイはペリーの船員から日本の様子を聞き入れました。その時から度々日本へ派遣することを志願しましたが、当時アメリカの状況が不安定であったため、本部は彼が日本に行くことをなかなか認めませんでした。1872年になってやっと、ペック監督がマクレイを日本ミッションの監督に任命し1873年6月11日にコレル宣教師と一緒に日本に来たのです。(2、3年後にジュリアス・ソーパーとかジョン・デービスらが、北海道から九州まで巡回して伝道を始めたのです)。

 

そしてマクレイに半月遅れてカナダのウェスレアン教会が伝道を始めました。カナダには当時英国制度の教会と、合衆国監督制の教会の両方がありました。ウェスレアン教会は英国制度の方で、その教会から派遣されたジョージ・コクランとデイヴィッドソン・マクドナルドが6月30日に日本に来ました。二人はカナダ・ウェスレアン教会として最初の海外の宣教師になるわけです。次の年には、トロントの年会から独立した日本年会が生まれました。これは非常に大きな出来事です。日本年会というのは、いつも外国の本部の下で伝道するのではなくて、自分たちだけで組織されました。そしてメソジスト監督教会もマクレイが日本ミッションの監督として任命されました。日本の教会は当初から、本国の教会の「海外の教会」ではなく、現地の自治制の下で主体的に伝道したのです。

 

次の1874年にカナダ・ウェスレアン教会がもう一つのNew Connxion Methodistsと合同して、The Methodist Church of Canadaとなりました。その当時、カナダ・メソジストミッションが日本で建てた教会は、「日本メソジスト」という名前を使ったのです。だから私は、「日本メソジスト教会」は2回ありました。私たちの記憶にあるのは1907年に合同されたJapan Methodistですけれども、もともと日本におけるカナダ・メソジストは、自分たちのことを「日本メソジスト」と言ったのです。

 1884年にカナダにあった合衆国関係監督教会と英国制度の教会が合同して、もっと大きい The Methodist Church of Canadaとなりました。その制度はBishopという監督性とはちょっと違うSuperintendent制度に変わりました。なぜ私か今こんなことを言っているかというと、アメリカやカナダでいろいろな合同の動きがあった中で、日本でもカナダ・メソジスト、アメリカ・メソジスト、あとで入ってくるMethodist Protestantの美普教会とか、南部メソジストとかいろいろありました。しかし元々が同じウェスレーにルーツがあり、少しずつ合同の提案が出て来ました。1883年は、マクレイが本国の教会と他の日本にあるメソジスト関係教会に合同を提案することもありましたが、カナダでの合同の動きが、日本の合同にいろいろな意味で非常に影響を与えたと思っています。もう一つはカナダがWomans Missionary Societyを立ち上げた。婦人だけの組織が出来て1882年にカートメル先生が日本に送られた。カートメル先生は東洋英和女学院の創立者になりました。その後は山梨に行き、幼稚園などを建てました。

 

それぞれの教会の組織は似ているようで少しの違いがありました。またそれぞれの教会が別々に総会を開くので、本部と日本との組織の間に連絡をするのに時間がかかりました。しかもメソジストの総会は四年に1回しかないので、それぞれが本部と連絡を取り合いながら、日本で他のミッション教会と協力するやり取りはいったり来たりしていたことが、歴史を読むと読み取れます。福音教会の人たちも1876年に来日し、美普教会(Methodist Protestant Church)も来ました。後には同胞教会(ドイツ系)の教会も来ました。1883年から1907年の間に何回も合同の提案があり、合同委員会も設置されました。そしてやっと1907年5月2日から6月1日まで、最初の日本メソジストの合同総会が開かれたのです。その時に本多庸一先生が最初の監督に選ばれたのです。

 

 それからちょうど4年後に2回目の総会が開かれました。その2回目は「日本メソジスト教会」の最初の総会と言うべき総会でした。と言うのは、指導者たちが全員日本人になったからです。そこに宣教師たちが協力者として参加しました。

 

 そこで、Bishop本多が大きな幻をみんなに語りました。「美普教会や福音教会は合同に参加しなかったが、合同した三つの教会が一つのミッションになるのでいいのではないか。そして今バラパラになっているそれぞれの学校も、一つのBoard of Educationとして総合的な教育の局をつくるべきだ。だからその上にわれわれのMethodist UnionからWorld Christian Unionへ」とのビジョンを語りました。

 

 これは1911年の10月でした。その前年、本多庸一と同志社の総理と明治学院の院長とバプテストのリーダーとの4人が、エディンバラの世界宣教会議に参加しました。そこでBishop本多は日本語で演説したのです。それを通訳したのは日本YMCAの代表。本多庸一はただMethodistというだけではなく、YMCAの世界の役員でもありました。世界YMCA指導者であったジョン・モットと共に1901年からずっと世界中を回って、いろいろな活動をしました。とにかく、この本多記念教会の本多先生は宣教師と共に働いて、1911年には今でいうNCCのようなエキュメニカルな組織(キリスト教連盟)を立ち上げました。そこに当時の日本メソジスト教会が入ることになったのです。そうして、一つの日本のプロテスタントUnited Churchをつくることが、本多の幻だったのです。

 

私は1958年に日本に初めて来たのですが、その時から言われたのは、メソジスト教会から派遣されても長老教会などから派遣されても、日本はUnited Churchの国です。私たちはもちろんそれぞれの教派の違いがあったとしても、その合同した教会の一員となるわけです。1941年4月、5月に阿部義宗先生は団長としてアメリカ関係の教会を回っていったのです。Riverside CaliforniaFellowshipと言われているのですが、そこで日本の教会の代表が宣言したのです。今までのアメリカ、カナダの海外のミッションに感謝しつつ、これから日本には一つの国に一つの教会を建てる、と。そして戻ってきて6月24日に青山学院において日本基督教団の創立総会が開かれました。戦争中教団と関係があったメソジスト、長老教会、組合教会、カナダ合同教会、ディサイプルズなどが北米でInter-boardをつくったのです。戦争終わったら、みんなが教団に協力することを目指して、1945年の終わりから1946年の初めに使節団を日本に派遣し、教団と協力することを明言しました。これからの日本のミッションのイニシャティブ及びの発言権は日本にあるべきだと。海外の教会、特にカナダ、アメリカのInter-board関係教会はそれに従って宣教し、または援助金を日本が決めることに従って協力することになりました。これは私と私の世代の宣教師が受けた伝統でもありましたが、残念ながら2000年代に入って少しずつ協力体制が弱まってきました。

私たちが今、考えるべきことが宣教師を支える体制のことよりも、日本の教会が世界の教会として、今までの海外教会の協力の歴史を振り返って、そしてウェスレーの回心は今、私たちにとって、どういう意味であるかをもう一度真剣に考えることが大切と思います。心悩んでいる人が多い今の時代に、私たちも弱い人間であることを自覚することが必要と思います。今まで私たちの中には絶望したことがないとは言い切れません。もしかしたら、まだまだ自分の心のなかで自由に喜んで神の愛に自分の命を委ねて、喜んで生きることがまだできていない人がここにいるかもしれません。私も含めて。今日これからの聖餐式において私たち一人ひとりがイエスの愛によって、尊い犠牲によって、神に愛されたということを再確認して、これから私たちも喜んで神の愛を信頼し、イエスに従って進むことが出来ますように祈りたいと思います。

(了)

 

注;これは更新伝道会発行「更新伝道」151号に掲載されたものを文字起こししたものです。見易いように数字は英数字に変更してあります。