自重 本多 庸一 目 次 1. 現代語訳 2. 原文文字起し 3. 解説 1 現代語訳 工事中 2 原文文字起し 愛する者よ、我等今神の子たり。後いかん未だ顕われず。其の顕われん時には、必ず神に似んことを知る。そは我等其の真の状を見るべければなり。(ヨハネ第一書三章二節) 此の聖句は恰も鉱山の如くして幾多の宝石は探るに従って出で来るべし。さあれ悉く之を探らんとするは今日の趣意に非ず。「我等今神の子たり」という聖句を取りて、少しく自重の感を述べんとす。 卒業生諸君、諸君は今や人生生活の一段を経たり。宜しく自ら重んじ自ら敬するの念厚からざるべからず。世の宗教は何れも謙遜を教え、又必要あるに於ては反復繰返しても之を説くことあり。然りと雖も吾人は必ずしも常に自ら下ってのみ居るべき者にあらず、時に首を上げて大いに自重し、大いに自敬するの要あり。謙遜と自重一見矛盾せるものの如し。之をしも矛盾と云わば是れ必要なる矛盾にして、亦甚だ結構なる矛盾なり。宇宙には矛盾せること甚だ多し。而して其の最も顕著なる者は人に於て之を見る。パスカル曰く「人は一茎の芦の如きものにして、天地間最も脆弱なるものなり。されど此の背は思考するものなり。宇宙の大なるや人を亡ぼさんと欲せば手を下す迄もなく、一呼の毒気一滴の薬水も容易く人を殺すを得べし。然れども人は尚お宇宙よりも貴し。蓋し人は自己の死するを知る。宇宙は自家の力をだに知らざるなり」と。是れ即ち人の甚だ賤しきが如くして而かも甚だ貴きを謂えるなり。 人は慥に動物なり、然れども人には動物以上の心性あり。上らば天の使ともなり、下らば陰府の悪魔ともなるべし。是も亦一つの矛盾とやいわん。兎まれ人は惟尋常の動物として止まる能わざるなり。吾人の修養工夫に於けるも亦時に矛盾せるが如きを免れず。徳川家康大黒の賛あり、曰く「大黒の頭巾は上を見ぬ為めの頭巾なり。されどこは時に脱するを得るものなるを忘るべからず」と。彼が一生の行動は此の一言に盡せり。彼は謹慎にして容易に出でず、而かも其の一起するに於ては必ず其の志を貫徹せずんば止まず。彼れ始めは今川氏に屈し織田氏に仕え、更に豊臣氏に腰を折りて終に天下を一統せり。 吾人は大いに謙遜を学び小心翼々として内に反省すること肝要なり。宗教家常に人に勧めて曰く「悔い改めよ、謙遜なれ、己を頼む勿れ、汝自らを棄てよ」と。是れ豈に荒唐無稽の言ならんや。実は吾人は罪人にして自ら救うの徳もなく、自ら潔むるの能もなきものなり。然れども是と同時に吾人は亦自己の貴きをも忘るべからず。我等今神の子たり、吾人五尺の身を以て此の天地に処す、強しというべけんや。さあれ翻って其の霊界に於ける吾人の立場を見れば、吾人は神の子にして救世主の弟たるなり。其の貴き血を以て贖われし程に天父の恩寵を辱うする者なり。諸君、上より恩護を受くる此の如く、周囲には父母師友の養育教訓あり。又自家の加労と修養とありて以て今日卒業の光栄に接す。焉んぞ世の邪魔者の如く、罪悪の奴隷の如く世を渡って可ならんや。更に我が国家社会の現勢と必要とを察し、卿等が修養したる種類と其の保持せる信操とを考うるときは、諸君は如何に尊貴なる地位に立ち如何に重要なる任務を希望せらるるものなるやを知り得べし。 今や世は物質的文明を謳歌すと雖も、精神上の真文明を求むることを知らず。今や我国は大雄に当りて国家的精神の勃興盛なりと雖も、其の根本なる家庭に至っては僅かに新聞紙の材料となるのみ。世の実際は未だ何れより手を下すべきかを知らざるなり。日露戦争の終局は今俄に預言し難けれども、仮りに希望の如く大勝利を得たりとせよ。勝誇りたる国民をして勝って兜の緒をしめ、真に大国民として東洋の進歩平和を司らしむるには果たして如何になすべきや。其の先導者となり縁の下の力持となるべきもの果して何処にかある。嗚呼是れ卿等の任ならずや。 諸君よ、予輩は青年なり、未だ任ずべきの時至らずという勿れ。青年にして任ずるの志なくんば愚老を以て終らんのみ。青年を救うは青年なり。時将に至らんとす。天下の青年争うて武勲を慕い、威望功名を崇みて、精神を養い実徳を修むることを忘却し了らん。此の時に当りて誰か其の空虚を填め、預言者となりて世の酔夢を醒まさんとはする。嗚呼是れ諸君の任ならずや。 卒業生諸君、吾人が罪人の子たるを思えば悔改謙遜奴隷の如く屈せざるべからずと雖も、許されて神の子たり救われて天国の臣民たるを考うれば、欣喜雀躍己を忘れて奮発し、地の塩たり世の光たるの職分を尽さざるべからざるなり。然るに或は僅なる情欲を禁ずる能わず、或は些少の自由に飽かんことを求めて世人と浮沈し預言者たるの性格を失うに至らば、自らを辱しめ主を辱しめ道を辱しめて愛する邦家の必要を欠くに至るべし。是れ豈に志士仁人のなすべき所ならんや。 諸君は或は進みて更に高き教育を受け、或は伝道に従い、或は実業につくもあるべし。其の往く道は何れにあれ須らく自ら重んじ自ら敬し抱負を大にし、人の師表となり縁の下の力持となりて其の責任を全うせられんことを希望す。「凡そ神に由る此の望を懐く者は、其の潔きが如く自らを潔くす」(ヨハネ第一書三章三節)。之を実行せん事決して易きに非ず、さあれ主は今も尚宣う「懼るる勿れ、我れ既に世に勝てり」(ヨハネ伝十六章三十三節)と。 (明治三十七年四月四日、青山学院及び同女学院卒業生に対する説教筆記) (『本多庸一先生遺稿」三〇六―三〇九頁) 3 解説 |