神の子たる基督

(クリスマス説教)

本多 庸一

目 次

1.     現代語訳

2.      原文文字起し

3.     解説

 

1 現代語訳

  工事中

 

2 原文文字起し

(はじ)()(ことば)あり。(ことば)は神と(とも)にあり。(ことば)は即ち神なり。(約翰(ヨハネ)伝一章一節)

 

それ(ことば)肉体となりて(われ)()(うち)(やど)れり。(われ)()(その)(さかえ)を見るに(まこと)に父の(うみ)たまえる独子(ひとりご)の栄にして、恩寵(めぐみ)真理(まこと)にて()てり。(同上十四節)

(いま)だ神を見し人あらず。(ただ)生み給える独子(ひとりご)すなわち父の(ふところ)にある者のみ(これ)(あらわ)せり。(同上十八節)

 

イエス・キリスト降誕(こうたん)の記事は三福音書(ふくいんしょ)(しる)さる、(こと)()()伝に最も(つまびら)かなり。(そもそ)(この)記事はキリスト自身に(おい)ても、事実の証人としては、之を伝うるに便ならざる部分なり。(いわ)んや使徒等よりも更に後輩なるルカに於てをや。(その)材料を得る為には、不便少なからざりしなる()し。(ただ)(これ)につきて他の使徒よりも、一層便利多かるべしと見うるはヨハネなり。彼は主の愛する弟子と()ばれたり。特に主の最後に(あた)りて十字架上より(その)母マリアを托せられたるなり。之を保護して共に住みける朝夕(ちょうせき)、マリアに思い出多きイエスの誕生につきて語る所なからずや。(しか)して(この)ヨハネはイエスを伝するに(この)記事を省略せり。(あるい)は既に三福音書に記されしを以てなりしやも知るべからざれども、恐らくは一層深く高きクリスマスを(しゅく)さしめんとの用意なるべし。

クリスマスにイエスを祝するものは、神子(かみのこ)の謙遜と(その)苦難とを思いて、ベッレヘムの背景に宿なかりし貧しき夫婦、(うまや)(まぶね)(よこた)われる赤児を(しの)ばざるはなし。これ当然の事にして、教訓と感慨もとより多かるべしと(いえ)ども、独り(ここ)(とど)まるべきにあらず。更に(この)真相を観んと欲すれば、我等はヨハネの(しる)せしものを玩味(がんみ)して、深く思い高く察せざるべからざるなり。

一、思うべきはベツレヘムの寒村に、宿なき嬰児(えいじ)として生れしのみなる()からず。神の子は水遠の位を離れて(しばら)く有限の境遇に下り給える事()れなり。よしや帝王の家に生まれ金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中、錦繍(きんしゅう)(つつ)まれたりとも、比類なき謙遜にあらずや。貧人(ひんじん)下流の生活の家族の中に生長し給える事、最より驚く()し。(しか)れども濁世(だくせい)に下り給いて、親しく罪人の伴侶となり給える、更に更に驚くべき事にあらずや。既に人間に入り給えりと()う、(その)細目は問うを要せざるなり。何となれば彼は栄ある神の独子(ひとりご)なればなり、永遠の神と皆に在りし道なればなり。我等はまず(この)祝会にまず神の子たることを紀念せざる可からず。

二、神(くだ)れりと謂う、これ人昇れりとの意にあらずや。神子(かみのこ)(くだ)りませるほどに、人は愛重(あいちょう)せられたるなり。人既に神を忘れ(その)罪悪の道にさまよえり。(しこう)して神は(なお)(これ)を棄て給わず、神子(かみのこ)を下し給いて救拯(きゅうじょう)の道を与え給う、此れ丁重なる待遇なり。アダムの初めて()()られ、エデンの楽園に逍遙(しょうよう)して罪なかりし時にも(まさ)れる恩恵にあらずや。所謂(いわゆる)(おんちょう)に恩寵いやまされるものなり。(ただ)イエスの上をのみ思いて、神子(かみのこ)降誕(こうたん)の主題たる我等に思い及ばざるは、之を祝する所以(ゆえん)にあらず。切に謂えば神子(かみのこ)の地に(くだ)れるは、人類の天に生るべきを示し給えるなり。神、人となり給う。(こと)実に奇なり。之によりて人、神の如くなることを()、更に奇中の奇と()うべし。我等は実に此恩を(しゃ)せざるべからず。

三、ベツレヘム槽裡(そうり)嬰児(えいじ)を祝するのみにあらず、生長して救拯(きゅうじょう)の大業をなしたまえる大人物の降誕を祝するなり。天使の歌の中に星の光明を浴する可憐(かれん)赤児(あかご)を愛するは、事(はなは)(うる)わしくも、我等にあまりの関係を有するものにあらず。我等の降誕を祝するは、(その)徳を仰ぐなり、(その)心を慕うなり、(その)足跡(あしあと)を踏まんとするなり、(その)模範を学ばんとするなり。神と仰ぎて(これ)(なら)わんとするは、万人の希望にして、「(われ)()に父を(あらわ)し給え」(約翰(ヨハネ)伝十四章八節)()うもの、()にピリポのみならんや。(しゅ)答えて()わん、「我かく久しく爾曹(なんじら)(とも)に在りしに未だ我を(しら)ざるか、我を見しものは父を見しなり」(同上九節)と。キリスト実に神の徳を形に顕わし、(その)生涯に(あらわ)して、我等に模範を示し給えり。此れを学ぶは実に(その)降誕を祝する所以なり。

四、(ただ)に主の成人と(その)事業と教訓とを尊重するに(とだ)まらず、(その)一生の終焉(おわり)をも知り、 (いよいよ)(その)降誕の貴きを(かい)して、之を祝するなり。

古来の人物、棺を(おお)うて始めて(その)評価を定め得べし。五十年の一生よしや名声(めいせい)噴噴(しゃくしゃく)たりとも、(その)最後にして忠孝の道を失い、未練羞辱(しゅうじょく)に終らば、其生涯(ことごと)く皆(おお)われて不名誉となるべし。()のイスカリオテのユダも、三年間は十二使徒の一人として堂々たる伝道者たりしならん。(ただ)(その)最後の失敗によりて、「その(ひと)(うま)れざりしならば幸なりしならん」(馬可(マルコ)伝十四章二十一節)と呪わるるに至れり。主の死は実に主の生涯の光栄なり、絶頂なり。其愛其品格、(ことごと)(ここ)に高潮せり。我等は主の降誕を祝するに当り、其終焉(おわり)()かく高潔に神聖なるを見て、(いよいよ)尊重礼拝の念を深うする(なり)

五、(しか)れども死は到底厳粛にして悲惨なり。死を恐れざるは、基督者の特色なりと(いえ)ども、()かも祝会の意を全くするものにあらず。キリストにつきて思念(しねん)すべき大なるもの未だ(のこ)れり。主の復活()れなり。自由を以て犠牲となり給える主は、又自由を以て其生命を恢復(かいふく)し給える也。

其復活によりて、主の死は滅亡に(あら)ざることを(しょう)し、真に(きよ)(いけ)祭物(そなえもの)たることを(あきら)かにせり。失敗の生涯にあらずして、勝利の一生たることを示せり。地を征服して天に昇れり、罪悪を救いて神に帰れり、死と陰府(よみ)との門は(つい)に之を密閉す()からざるの事実を現わせし也。

我等の降誕を祝する主は、赤児にあらず、敗亡(はいぼう)の士にあらず、永遠の勝利を得たまえる大王、大将軍なり。(ここ)に至りて歓喜益々加わり、祝賀(いよいよ)熟するを感ぜざる(あた)わず。キリストの一生は神の(さかえ)なり、実にこれ神(くだ)り給える顕現(けんげん)なり。主は有神論を説き給わざりき、哲学を講じ給わざりき、(しか)れども其生死を貫きて凡人たらざるを(あかし)せり。クリスマスは実に光明輝く時なる也。

(「本多庸一先生説教集」三三―三八頁)

 

3 解説