国士論 本多 庸一 目 次 1. 現代語訳 2. 原文文字起し 3. 解説 1 現代語訳 工事中 2 原文文字起し 我儕の国は天に在り。(腓立比書三章二十節) 此本文は種々に英訳せらる。 Our conversation
is in heaven. Our commonwealth
is heaven. Our citizenship
is in heaven. 二十世紀聖書には、 We are citizens
in heaven. とあり、然れば大同小異にして、即わち我儕は天国の士民たりとの義なり。著者パウロが其の宗教を宣伝するを以て天職とし、而して其立場を明かにせるもの、我は天国の士民なりと公言せし也。 此本文を以て余の国士論を演ずるもの、決して矛盾にあらず、我儕は天国の士民なりとの思想と、現世界に割拠して国家を建つる日本国民なりとの事実と、矛盾するものに非ざる也。却て現国家を通じて、更に高き、更に大なる天国という霊的道義的国家を望み、又天国の義を稽えて、現国家をより清く、より正しく向上せしむるを得べきなり。 現国家に生活して国士たるもの、要素を思うに、蓋し三あり。(第一)国家を認識して之に対する責任を有する事、即ち我属する所の国家は他人のものに非ず、我属にして、我は之れに責任義務を有することを感じ、又盡すを謂うなり。(第二) 国家の主権者を尊奉して君民の関係を重ずる事。若し共和国の如く君主なきものも、其主権を代表するものに仕えて、其関係を重ぜざる可からず。(第三)国民と喜憂を共にし同情を有する事。夫れ国民は国家を組織する分子にして、我と同じく国家の責任を分ち、同じ主権者を重ずるものなれば、単に戸籍を列ね祖税を出すものたるに止まらず、喜憂安危を共にする覚悟あるべきは勿論なりとす。敢て貧富を問わざるなり、貴賤を別たざるなり、賢愚を謂わざる也。而して現今の我日本人は概ね此資格を有す。此れ諸外国人の凡て驚く所、実に通じて愛国者なりと評する、決して諛辞にあらざるが如し。 然れども敢て此に現今という、蓋し今日の如く国家観念の旺盛なる時あらざればなり。姑らく昔時の歴史をたどるを止め、余の短生涯の経験よりするも、四十年前は国家という観念なく、主権者に対する思想も甚だ茫邀として、少数士人に於ても只藩あるを知って他を知らず。多数人民の如きは、皆尽く文盲、民は依らしむべく知らしむ可からずとの治下にあるを以て、自個の利害の外何等の考もなしと謂うべかりき。即ち少数識者を除きては国士なかりし也。潮って元禄時代を見よ、彼の義士銘々伝に徴するも最初の義士二百人は百人となり終に五十人となれるを以ても、如何に国士の少なかりしかを知るべきに非ずや。 更に一葦水を隔てて彼大陸を見よ。韓国あり清国あり。数億の生民其処に住すれども、国士の資格を有するもの果して幾人ぞや。識者なきにあらず、智者なきにあらず、滔々時事を論ずるもあり、主権者の何人なるかも知らざるにあらず、然れども彼等は寸毫も痛痒を感ぜざる也。これ其境遇の致す所にして、愛国ならんとするも其国家なく、忠せんとするも其君主あらずの感を懐くもの多かるべく、情甚だ憫れむ可しと雖ども、彼等は終に国士にあらざる也。我等幸に此日本に生れ、此隆盛なる国運に遭う。国士の志操を以て国士の関係を有したきものに非ずや。 昔時は人民をみかたからと称して、国家の財産と視たりき。これ個人の権利を尊重する文明の思想にあらず、我等は国家の生産物又は財産として満足す可きにあらず、実に国家の一分子なり。或意味に於ては主権の源なり、少なくとも国家の主権を保護するものなり。故に国士たる要素を具えざるべからず。進んでパウロの所謂天国の国士たる資格を要するなり。 夫れ二個の国家は相衝突す。然れども相重なりて、大、小を容るるときは衝突あることなし。天地に俯仰し宇宙を大観すれば、現国家の外、更に高く更に大なるものを感ぜざる能わず。此国家に生活すると同時に一層完全広大なる国家に生息するものに非ずや。啻に日本国の元気と謂わず、宇宙の元気を吸収せざる可からず。キリストの所謂「爾曹まず神の国と其義とを求めよ」(馬太伝六章三十三節)と謂えるものは、此意を明かにせるもの也。使徒パウロは羅馬人たる権利を有せり。されど宇宙の国士として、其大任を帯び其大志を遂ぐる為には、羅馬の国士たる特権を蔽履の如く棄てて顧みざりしは、現国家より更に高く広き天国を重じたるなり。我等も亦人なり。豈に堯舜に譲らんや、パウロに譲らんや。日本国の国士たるのみならず、更に亦天国の国士たるべし。而して此上なるものを通じて現国家を高めざるべからず。 宇宙に大法天則の整然たるものあるは、人のよく知る所なり。文明の世、科学開けて此一貫の法則一層明かになれり。而も現今の法律の如く朝令暮改せず、古今を通じて不変なり。此れ豈に無意味なるものならんや。此に主権者を尋ねず、偶然の事と做すはあまりに無頓着にあらずや。国家の法律は主権の存在あるを証す。宇宙の法則も亦其主権者を認知せしむるを得べし。且つや我等の良心を省みて、厳然たる一個の法則、少なくとも道義の憲法あるを見る、此れ即わち天の声にあらずや。キリストは此に主権者を知らしめたるのみならず、更に之を温めて天父と云へり。此に於て乎、我等は国士以上更に神の子と称せらる。天地は逆旅にあらず、人は旅人にあらず、艱難も謝すべし、悲憂も謝すべし、真に安じて以て円満の人格を養い得べし。我等は浪人にあらず、其大摂理大経綸の下に其責任を尽すべき也。 要するに宇宙の主権者を認識して、我現在未来を寄託するにあり。宗教の観念を修養して、神明を信奉し我任務を自覚するにあり。これをこれ天国の国士と謂う。余は題を国士にとれり。試みに武士が其魂とし生命とせる刀に対する態度を以て、宗教心の発達に喩えん乎。徳川泰平の代も既に末になりては、乱兆 既に識者に見えざりしに非ざるも、多くは未だ泰平の夢裡にありき。或は惟えらく世は泰平の春なり、快楽の花に戯れ幸福の甘に嘯くに如かずと。斯くて先祖伝来の名刀は、空しく長持の底に蔵せられ、細身の刀こしらえ美しきを好みて、刀とる手に三味線を弾きしもあり。或は此に一種の経済思想に富めるあり。世は何時変りて、士 の禄に離るるやも測り難し。伝来の名刀空しく筐裡に蔵せんは不利益なりと、正宗の名刀を以て楊枝をけづり鰹節をかくに頗る切れ味よし。斯くて只実用を主とするものあり、これ智き人なりと謂う可し。他に真面目なる人物あり。先祖伝来の名刀恭しく之れを蔵し、一週に一度十日に一度敬みて取り出てては、さながら祖先に対するが如く、之れによりて其勲功を念い、精神を練り士気を磨くなり。今日宇宙の国士として霊の刀たる宗教に対する又此三種の態度あるを見る。神を離れ過去未来を念はず、宗教を迂なりとして、只現世の快楽に憧がれ、利己を以て人生の極致たりとする、其一なり。或は宗教を方便視し又人生に必要なるものなりとして使用するもの、其二なり。此種の人は我国に特に多きが如し。米国の著名の一牧師、嘗て印度支那等を歴遊し、我国に来りて、其神社仏閣の多くして而かも其壮麗なるに驚きしが、其驚きや嘆美の意味にあらざりき。十年前の調査なれども我国の神社は二十七万、仏寺は十万ありき。而して租税の重きに堪えずと謂うにも拘わらず、尽く充分に維持せらるるに非ずや。直ちに見れば宗教の勢力盛なるが如きも、其宗教心や只利害の念にして、毫も道義の心あるなし。念ずる所商売繁昌のみ息災延命のみ。これ正宗の名刀を以て楊枝を削り鰹節をかくが如きなり。宗教心なきに非ず、低く動けるなり。我等天国の国士たるものは、之れを高く清く導かざるべからざるなり。 パスカル曰く、人は思う為に造られたるは明かなり。是れ人の誇る可き惟一の秀美なり。正しく思慮することは人類義務の総計なり。而して思慮の真正なる法式は、己に始まり、己の創業者に中し、己の最後に終ると、げに思うことは人の特権なり。己れの何たるかを思いて、創造者たる神に至り、終に我最後にも安ずるを得ば、これ人として適当の義務を尽せしものと謂うべし。 無頓着、無分別の生活は、下等動物の生活なり。神なく道なきの生活は、奴隷の生活なり、浪人の生活なり、国士の生活に非ざる也。現世の国家に忠孝の士たれ、精神の天国にも亦忠孝の士たらざるべからず。 (『本多庸一先生説教集』一―九頁) 3 解説 |