日本基督者の覺悟

本多 庸一

目 次

1.     現代語訳

2.     原文文字起し

3.     解説

 

 

1. 現代語訳

わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。(ヨハネによる福音書17章18節)

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人のためにも、お願いします。(同17章20節)(編注;以上共同訳)

 

祈祷では神と人が交わり感じるのが常であって、祈祷は宗教の本質的要素です。キリスト教では祈祷に関する思想が最も大切です。ヨハネによる福音書17章は全編が祈祷です。ここに挙げた聖句は私たち信者の目的や性質と、主がどんなにこれを重んじ給うかを示すものです。

 

キリストが(つか)わされたように、とは、少くとも父の心を伝えて神の証人となり、世を救う(わざ)を成そうとする為ですが、これは王公、執政、将軍、富者、知者等がする事ではなくて、世界の人民が天の父の子として行うということなのです。従って20節に『彼らの言葉によってわたしを信じる人のためにも、お願いします。』と主が言われるのは、20世紀の我々も将来の信者も皆此の中に含まれていることになります。これは世界中の信者が皆同じなのですが、日本のキリスト者としてこれをどう考えたらよいでしょうか。

 

一、         開教五十年目に当って、我が国とキリストとの関係はとてもだ奇異なことを思えば、後の者が(かえ)つて先となる境遇が実現するのは聖意ではないでしょうか。

 

二、         我が国で起こった多くの事は既に世界を驚かす程に進歩しました。聖教の進歩も又大きいのではないでしょう。又本当に、そうなる必要は大きいと言えないでしょうか。

 

三、         日本では万事に国民の合意が必要なので、教会に関する数字においては他の伝道地に比べて未だ優れた成績を出していないにも(かか)わらず、日基、組合、聖公、日美ら各派が皆国民的設立を始めました。これは日本の伝道は日本人が主とならなければならないことが明らかになった表れです。これは各派に普通に見られることです。

傳道(でんどう)(かい)(しゃ)の幹事に「日本人に伝道なさる事について言えば、今より数倍の宣教師が日本に来ても多過ぎることはありません。但し日本の教会の責任という点から言えば、日本に留まる宜教師が一人もいないなら、私たちは少くとも全国の教化を任せる訳にはゆきません。」と答えたことがあります。

 

四、         精神界と物質界との不釣合はどうしてこんなに(はなはだ)しいのでしょうか。所謂(いわゆる)上流階級の人が最も求めるのは、富と情肉と言えます。射利(しゃり)投機(とうき)などの迷信(誤った信仰)は階級の上下を通じて少しも衰へません。この迷信と道徳とは増々隔たりが大きくなっています。(我々は)この間に立って無形の神、世界の救い主、精神界の恩寵、幸福向上進歩を伝えようとしています。これは至難(しなん)の事です。至難であるが故に絶対必要なことです。人々を此の程度に引上げないことがあるでしょうか。

五、         私の同胞を天皇の赤子(せきし)だと言う人がいます。(これ)も又人の子だと言う人もいます。四大の結集する無明(むみょう)の子だと言う人もいます。しかしながら、私の同胞は天の父の子であって主の十字架により(あがな)われ、そして永遠に幸福になるはずの者であり、信仰を棄てれば永久に亡ぶ者だと言うのであればそれはキリスト信徒ということにならないでしょうか。我々はこの様に同胞を重んずべき(はず)の者なのですから、どうして何もしないで自然に(まか)せておけるでしょうか。

 

伝道立会の方法が二つあります。ーは既に大小ともども土台を得た以上は、断然外からの助けを離れて背水の陣を()き、多数の小教団を自然淘汰に(まか)せることです。他の一は内外の力を調和して、円満の内に相当の発達をしましょうというものです。これは歳月に於て少しく後れることはありますが、最後は量に於て質に於て優れた成果をあげられるでしょう。これは従来の関係から観れば(むし)ろ自然でしょう。

 

私たちは第二の方法を採用した者です。ですが今ここにどちらの方法が果して奮發力を生ずるかは現実の緊急問題ですが、伝道の最大中心動機は神の心と人の情態を以て同情を(ふる)わすのですから、私たちは決して一時の境遇に依存すべきではありません。宜しく此の中心動機を以て頑張りましょう。真誠に自分の分を(つく)そうとする者は、たった一人でも共同でも、間断なく主に忠なる働きをしましょう。

(明治42年6月20)

 

 

2 原文の文字起し

汝我を世に(つか)わししごとく我も彼等を世に遣はせり。(ヨハネ傳十七〇十八)

我唯彼等の為に祈らず、彼等の敵によりて我を信ずる者の為にも祈るなり。(同十七〇廿)

 

祈祷は神人交感の常にして、祈祷は宗教本體の要素なり。基督の祈祷中の思想は(もっと)も大切なり。ヨハネ傳十七章は全編皆祈祷なり。掲げたる本文は吾人(われら)在世の目的性質と、主が如何に(これ)を重んじ給ふかを示すものなり。

基督の(つか)はされたる如くとは、少くも父の心を博へて神の證人(あかしびと)となり、世を救ふの(わざ)を成さんが為めなれ共、王公又は執政、将軍、富者、知者等としての事にあらず、世界の人民たり、天父の子としてなり。(しこう)して廿(にじゅつ)(せつ)の『彼等の(おしえ)によりて我を信ずる者の為に祈る』と(のたま)へば、廿(にじゅつ)世紀の(われ)も将来の信者も皆此の中に含蓄(がんちく)せらるるなり。是は世界中の信者皆同じき事なれども、日本基督者として如何に考ふべきや。

 

一、開教五十年目に當りて、我國(わがくに)と基督との關係(かんけい)(はなは)だ奇なるを思へば、後の者(かえ)つて先となるの境遇を實顕(じつげん)するの聖意にあらざるなきを得んや。

 

二、我國の百事は既に世を驚かす程に進歩せり。聖教の進歩亦大ならざるを得ざらんや。又(じつ)に其の必要大なるにあらずや。

 

三、國情は萬事(ばんじ)國民的なるを要するが故に、未だ教会に(かん)する(すう)()(おい)て他の(でん)(どう)地に比して秀でたるに(あら)ざるにも(かか)はらず、日基、組合、聖公、日美と皆国民的設立を始めたり。是れ日本の傳道は日本人が主とならなければならぬことを表明したる者なり。是れ各派の通状なり。

傳道(でんどう)(かい)(しゃ)幹事に答へて曰く、日本人に傳道さるる状態より云へば、今より(すう)(ばい)の宣教師(きた)るも多きことあらず。(しか)も日本教會の責任より云へば、一人も宜教師が(とと)まらずば、吾人(われら)は少くも全國の教化を(にん)ぜざるべからず。

 

四、精神界と物質界との不釣合何ぞ(はなはだ)しき。所謂(いわゆる)上流の(もっと)(もと)むる所は、富と情肉となり。射利(しゃり)投機(とうき)的の迷信は上下を通じて少しも衰へず。迷信と道徳とは(いよいよ)離隔(りかく)す。此の間に立ちて無形の神、世界の救主、精神界恩寵、幸福向上進歩を(つた)へんとす。至難(しなん)の事なり。至難なるが故に()(よう)なり。公衆を此の程度に引上げさるべからず。

 

五、(わが)同胞を以て天皇の赤子(せきし)なりと云ふあらん。(これ)(また)人の子なりと云ふあらん。四大の結集せる無明(むみょう)の子なりと云ふあらん。(しか)れど是れ天父の子にして主の十字架により(あがな)はれ、以て永遠に幸福なるべく、()つれば永久亡ぶべき者なりと云ふは基督信徒にあらずや。如斯(かくのごとく)同胞を重んずべき(はず)の者にして、どうして(てん)(ぜん)として自然に(まか)すべき()

 

傳道(でんどう)立會の方法二つあり。ーは既に大小ともども土臺(どだい)を得たる以上は、斷然外助を離れて背水の陣を()き、多藪の小教團をば自然淘汰に(まか)すべし。他の一は内外の力を調和して、可成(かなり)(えん)(まん)の發達をなすべし。歳月に於て少しく後るることありとも、最後は量に於て質に於て優勝なる者を得ん。是従来の關係より観下すれば(むし)ろ自然なりと。

 

吾人は第二法を取りたる者なり。(しか)るに今(ここ)(いず)れが果して奮發力(ふんぱつりょく)を生ずるやとは實地(じっち)の緊急問題なりと(いえど)も、傳道の最大中心動機は神の心と人の情態を以て同情を(ふる)はすにあれば、吾人(われら)決して一時の境遇に依頼すべからず。宜しく此の中心動機を以て(ふる)はざるべからず。(しん)(せい)(おのれ)の分を(つく)さんと(ほつ)する者は、単獨にても共同にても、間斷(かんだん)なく(しゅ)に忠なる働きをなさざるべからず。

(明治四十二年六月廿日)

 

3 解説

この原稿は明治42年6月20日(日)午前10時に東京麻布鳥居坂美教会で使われました。時間からして聖日礼拝の説教に使われたのでしょう。

この数年前から庸一は日本美以(メソジスト)教会の監督として東奔西走の生活を続けています。前5月は15箇所、6月は8箇所で講演や説教をしています。移動には蒸気機関車程度しかない当時庸一は体を酷使していたことが分かります。さすがに8月8日から一カ月間青森県岩木山麓の常磐野で病気保養していますが、9月からは活動を再開し、翌明治43年には米国、カナダ、朝鮮へ数か月の長期旅行をしています。庸一はこの3年後の3月、庸一は長崎で召天するに至りました。