日本に於ける宗教の現状

 

目 次

1.     現代語訳

2.      原文文字起し

3.     解説

 

 

1. 現代語訳

わが日本は無宗教の国ではありません。教義の基礎も古代に成立したのであり、その普及の程度も欧州のキリスト教国に劣るものではありません。近頃こういう事件がありました。 本郷その他に放火した十歳の不良少年が警察より養育院へ、養育院より感化院に移され、そこの神前に引出された時、監理者の質問に対する答えは、「神様は拝む者、神様はだます事が出来ません。」と言う様な(護教356号参照)、常識に欠けた答ではありませんでした。更にこの様な答はわが日本の多くの庶民もするものです。試しに欧米の下層民に同じ質問をしたとしましょう。神について、イエスについて、この質問の答えは、多分この十歳の悪少年に及ばないものが多いでしょう。そうではあっても我が国の国民には久しい間自分の宗教心を自由な心で発揮する宗教がありませんでした。自分の神仏に仕え自分の所信を自由に考える義務と権利とは二つとも政治家の為に奪われてしまっています。封建制度を採用した政府は儒教を規範とし、これに対して政体に適合する解釈を与え、政権を大工道具の様に使って自分にとって都合のよい倫理風の教を立てたのです。こうした状況に至って宗教はその堂の奥深く入り、現世で重く用いられるはずの人の道の教を失ったのです。神道は宗租と英雄とを祭る道具となり、仏教は貴賤貧富を問わず後世の冥福を祈る道具とさせられたのです。更に両宗教とも人生の弱さから人を慰めようとして加持、祈祷、禁忌、迷信、その他いろいろの用に使われたのです。こうして宗教は人心の奥に入らないでその上っ面にだけ触れるものとなりました。

 

王政が明治維新で改まり、天地の大道である世界の文明が採用されて政教分離し、政府は倫理宗教の事は僅かに教育法律の中でその職を行うこととなりました。真に、これは宗教が政治家の好き勝手から免れた好機なのです。であれば今こそ宗教はその全権を振って自由に大胆に自分の能力を発揮すべき時なのです。とは言っても悲しいことに、長期間見なかった眼は見えなくなり使わなかった手は萎えてしまったのです。本分を尽さなかった宗教は急に立ってもその職を尽すことができず、何事についても封建制に適すように定められた教えは制度と共に倒れようとしています。儒教は中流に舵を失った舟の様です。自力で進退する力なくただ流れに従って川を下ろうとするだけです。風紀はこの様に乱れ宗教を必要とする声は非常に高いのです。しかしながらこれに呼応する者はいません。まるで広野をさまよう旅人が、日は西に沈んで月は未だ東山に登らず、悲鳴を上げ人家の明かりを呼んでも反響が無いのに似ています。このゆき暮れた大和の旅人を救うのは誰か?神道と仏教とは兎にも角にも日本の大宗教であるこの両者、果して長い間廃れていた能力を快復し、或いは未曾有の徳力を発生してこの暗夜の光明となり広原の反響となるだろうか。その近未来の趨勢はどうだろうか。

 

最近の統計によって神道各派と仏教諸宗の僧侶との数を見ると、明治28年には実にその数は25万5,882人です。これを10年前の明治19年に比べると実に8万3,552人の増加です。どうして未曾有の増加でないことがあるでしょうか。ああ、二十万の大軍隊、これがあればアジアを席巻するに足らないことがあるだろうか。 日清戦争の兵は軍夫(編者注;軍隊に属して雑役をする人夫)を除けば十数万を動かしたに過ぎない。この数で東洋の老大国を震動させたのです。空気を真空でない所に入れることはできません。20万のこれらの諸君がよく勉められたなら、キリスト教がどれほど良い物だとしても入る隙は無いでしょう。しかし兵員がこんなに多いようですが静かに観察すると、問題の種がその中に潜んでいる様です。何を根拠にこう言うのでしょうか。 即ちこの様な全数の増加にも係わらず、この内に正しく神官と呼ばれ住職と称せられる者は逆に減少しているのです。

 

年度           神官           住職

19年        14、849         56、263

28年        14、927         53、275

 

即ち重なる教師の数は不思議にも2,910人減少しています。では今後の運命を負うべき青年の僧侶教師はどうでしょうか。キリスト教界の神学生とも言うべき各宗教学校の生徒は実に以下の通りです。

 

19年  24、557         28年  11、225

 

見よ、半数以上の減です。 13、332人も減っています。これは少壮の士しかこの任に当る志が無いことを示さない訳ではないでしょう。また東京府における各宗の住職の数を見ると

 

27年 2、103   28年 1、827   29年 1、689

 

即ち明治28年には前年より176人減少し、29年には前年よ414人減少しています。この29年現在の住職1,689人を寺院の数2,596人に比べれば、一寺につき住職はコンマ以下6強となります。東京は仏教が盛んではない所とはいえ、こうであるとは情けない現象ではないでしょうか。

 

旧宗教はこの様に衰えようとしています。しかし新宗教は概して盛んになろうとしています。天理、蓮門両教などは火が原野に燃え広がるばかりの勢があります。 これ敢て喜ぶべき事ではありませんが、宗教の環境が一転しようとするのは事実であるようです。仙台の第二高等学校または熊本の第五高等学校に於いてキリスト教の講演をゆるした事など、小事ではあても未曾有の事と言うべきです。この様にして信仰はいよいよ自由であろうとします。そうではあってもまたここに一種の迫害がない訳ではありません。国家的思想の衝突と文明の奢侈と無神論を唱える学術とは常に我等に迫っているのです。何を以ってこう言うかですが、要するに我国にキリスト教を弘めるのは、主に英、米、露、仏の人々です。これによって英米人に対する自分の感情が他に移って宗教に及ぶのです。

 

英国は世界の大国です。 従ってその人は自然に高慢になり自分の思い通りにしようとすることがよくあります。これは自然に人が嫌うところとなるのを免れません。当然東洋に於ける侵略は我らの心を反抗させるのです。教会の制度も此処では「上尊くして下卑しき」に近いです。ですが日本の有志家が見て好む所は、英国の国体がやや我国に近いところにあります。君主を尊ぶ心、君主に対する祈祷、私の意に適う様々な儀式礼典は荘厳にして学ぶベきものがあると思います。

 

米国はどうか、この国は開国の始めより私を導いて、誠があり丁寧で且つ公平です。加うるに米国には侵略の疑念もありません。米国の人は社交に長じ一見旧い付合いの様です。教会の制度も自由であり我国の古びた習慣を直すのに充分足ります。ですが国体、政体が余りにも我国とかけ離れている故に、私とは根本から感情を同じくし難いものがあります。私が米国に居た間、且つて大統領の改選に際しハリソン、クリーブランドの二候補者の競争が甚だしく、一面にハリソンを罵る者もあれば、他に時の大統領一国の元首であるクリーブランドを悪しざまに言う者もありました。私はこれを見て愕然としたことがあります。現実に高位の役職に付いている者について議論するのがこの様子であるのは、これは日本人には絶対できない事です。米国の社会はそれで治まっている。ですがこれを我国の規範としてはなりません。ですが、宣教師諸君が無心に行う言行の出どころがここにあることが往々にしてあります。その他社会経験の少ない留学経験者でこのような社会慣習にかぶれる者がいます。これはともすれば教会外の人を戦慄させる原因なのです。

 

ロシアは私が嬉しく思うものではありません。この悪感情の源は一は恐怖により、二は英書がロシアを悪く言うのが感化したこと、三は遼東半島の返還や朝鮮政策などが原因です。更に政府と教会が密接過ぎることが我邦人に面白くないという感じを抱かせるのです。

 

フランスは且って深く幕府と締結してわが海陸軍を助けましたが、維新以後やや疎外された趣が無い訳でもありません。従って痛痒を感ずることが少ないです。ただ、識者はその教えとローマ法皇との関係を嫌うのです。ですが彼の人々は多くが王党なので政体の相異から人心を傷付けるようなことが少なく、且つ伝道は知識もある武士達を対象にしないで下層の人と幼稚の小児との間が主なので、特段の衝突も起らないのです。ですから、もし露、仏二国の伝道者が居なかったら、我国の教育家のキリスト教に対する考えも今日ほどではなかったかも知れません。この様に政府も未だキリスト教徒の思想を知らず、やや理解はしても他より目の前で反対を受けるのではないかと気遣うのでしょう。そうして切るぞ張るぞとの追害は日に日にその跡を留めようとしますが、滔々とした文質(編者注;外見の美と内面の実質)の文明、華奢の風俗の流行は信徒を誘って止みません。の試練はいよいよもって強くなり耐え難いことは昔の迫害に勝ろうとし、科学を根拠に私を非難する者も又少なくありません。

 

そういう者に悪感情が無い訳ではありませんが、時は迫り機は熟しているのです。風教(編者注;徳をもって人々を教え導くこと)を難ずる者はいても救う者はいません。この様な時にこそキリスト教徒は決起すべきなのに、意気は逆に上がらずまだ広野の反響とするには足らないのです。この点においても仏教界と同じく神学生が近来減少するのを見ます。思うに、青雲の志が盛んな青年が名誉もなく金銭にも事欠く赴任地を選ばないのも尤もとしない訳ではありません。加うるに伝道界の内情は伝道を励まさず、相互に悪感情を持って神学生であることを喜ばないのです。事実が果してこの様なものだとすれば、将来に処する我等の方針はどうあるべきでしょうか。私はここに三策があると思います。上策、中策、下策がそうです。

 

上策  従来の方針を一層拡張し、国内外の人の同情を深くし、日本人の牧師だけが苦しんで外国の宣教師が豊かになる様な事を無くする為、なるべくその実質が近くなるようにし、互いに協力し心を同じくし道を尽すことにあります。我々は現在行っている伝道地や伝道方法が良いか否かを知りません。ですが兎に角この様に行われ、この様に継続して来られたのです。これを改めるのは対策として得になるものではありません。むしろ大いにこれを拡張すべきでそれ以外にありません。

 

中策  そうは言ってもそれは実現し難いと言いますか。ここに前のよりは劣るけれど一策があります。即ち従来の方策を多少変更して大改革を行い、国内各派の連絡を厚くし、宜教師の中から真に日本の為に患難を厭わないとの大決心がある人々だけを止めてその数を少なくし、(選り抜きの宣教師による)清い感化に依頼し(国民に)悪感情を与える機会を少なくします。この様にすれば発達は極めて遅いでしょう。遅いでしょうがこれが出来たら今の様な外来のものではなく、自然独立の教会となるでしょう。

 

下策  中策すらも実行し得ないのならば、止むを得ずここに下策があります。これは少数の優等者に完全を求めないで、劣等であっても多数の人々の力を借り、よく耐へよく忍び、遠くの未来を考慮して権利を貪らず、卑屈に流れず、一歩また一歩進んで遠い未来に大成を期待するのです。これは至難ではありますがこれを期して失敗するより外無いのです。であれば天下の事はどうして難しいことがあるでしょうか。ただ神だけがこの方法で幾分の成功を得させてくださいます。天皇はわが上にあり、罪に悩める我等をして今日あらしめ給う神は、われらの将来を祝してくださるでしょう。我等は大いなる神に感謝したいものです。

(明治31年7月16日)

 

 

2. 原文文字起し

わが日本は無宗教の(くに)にあらず。(おしえ)の基礎も(いにしえ)に成りたるを以て其の(でん)(ぱん)の程度も(あなが)ち欧州の基督教國に劣れるにはあらざるなり。近頃の事なり。 本郷其の他に火を(はな)ちける十歳の悪少年が警察より養育院へ、養育院より感化院に移され、かしこの神前に引出されける折、監理者の問に答へて、神様は拝む者、神様はだます事が出来ませんといへるが如き(護教三百五十六(ごう)參考)常識に(とぼ)しき答にあらずかし。(しこう)してかかる答はわが(さか)(なべ)の民なほ(これ)()くすべし。(こころ)みに欧米の下層人民につきて(これ)(ただ)せ。神につきイエスにつき、此方(こなた)の問に答ふる事、(あるい)はこの十歳の悪少年に及ばざるもの多からん。(しか)はあれど(わが)(たみ)は久しき間おのが権能(けんのう)を自由に(ふる)ふべき宗教を有せざりけり。その神佛に仕へその所信を樂しむ義務と(けん)()とは二つながら政治家の為に奪はれ(おわ)んぬ。封建制度を()りたる政府は儒教を規矩(きく)となし、(これ)(もつ)政體(せいたい)に適合する解釋(かいしゃく)(あた)へ、政權を大工道具として都合よき倫理風教を立てたりけり。こヽに(おい)てか宗教は深くその(どう)(おく)に入りて現世に重んぜらるべき人道風教(ふうきょう)我物(わがもの)とせずなりぬ。神道は宗租と英雄とを祭るの具となり、佛教は貴賤(きせん)貧富(ひんぷ)を問はず後世(めい)(ふく)を祈るの具とせられぬ。(しこう)して両教とも人生の弱點を慰めんとて、加持に祈禱(きとう)に、(きん)()に迷信に、あらぬ方にと用ゐられたり。かくして宗教は人心の奥にはいらで其の上部にのみ(さわ)るヽものとなりぬ。

 

王政こヽに(あらた)まり天地の大道(たいどう)世界の文明ならび用ゐられて政教分離し、政府は倫理風教の事(わずか)に教育法律の中にその職を行ふに至らしめたり。眞にこれ宗教が政治家の駆使(くし)(まぬが)れたる好機なりとす。されば今こそ宗教はその全權(ぜんけん)(ふる)うて自由に大膽(だいたん)(おの)が手並を(あら)はすべき時なれ。さはれ悲しいかな、久しく見えざる眼は(もう)(もち)ゐざる手は()ゆ。本分を(つく)さゞりける宗教は急に()ちてその職を(つく)すに足らず、(よろ)づ封建制に適すべく定められたる(おしえ)は制度と共に倒れんとす。儒教は中流に舵を失ひたる舟の(ごと)し。自ら進退する力なくたゞ流れに従ひて下らんとするのみ。風紀こヽに(みだ)れ宗教必要の(こえ)また(はなは)だ高し。(しか)も之に(おう)ずるものとてはあらず。宛然(あたかも)(こう)()をさまよふ旅人、日は西に没して月は未だ東山に登らず、悲鳴(ひめい)(ともしび)を呼ぶも反響なきに()たり。このゆき暮れたる大和(やまと)の旅人を救ふは(たれ)ぞ。神道と佛教とは()にも(かく)にも日本の大宗教なる此の両者、果して()く久しく(すた)れたる能力を快復(かいふく)し、(あるい)未會(みぞ)()の徳力を発生して此の暗夜の光明となり(こう)(げん)の反響とならんか。そが(ばん)(きん)の趨勢や如何(いかん)

 

最近の統計によりて神道各派と佛教諸宗の僧侶との(かず)を見んに、明治廿(にじゅう)(はち)年には(じつ)にかヽる人々の數二十五萬五千八百八十二人に(のぼ)れり。(これ)を十年前の明治十九年に(くら)ぶれば(じつ)に八萬三千五百五十二人の増加なり。(あに)未曾有(みぞう)の増加にあらずや。あヽ二十萬の大軍隊、これあらば(もっ)亜細亜(あじあ)席巻(せっけん)するに足らんか。 日清戦役の兵は軍夫(ぐんぷ)を除けば十數萬を動かしヽに過ぎず。(しこう)してよく東洋の老大國を震動(しんどう)せしめき。空氣を真空なき所に入るヽ能はず。二十萬の諸君にしてよく(つと)められんには、基督教いかほどよき物なりとて入る(すき)はあらざるべし。(しか)るに兵員かく多きが如きも静かに観ずれば、(わざわい)のその中に伏しあるに似たり。何を(もっ)てかいふぞ。 (いわ)くかヽる全數の増加に(かかわ)らず、此のうちに正しく神官と呼ばれ住持と(しょう)せらるるものは(かえ)りて減ぜり。

 

年度               神官              住職

十九年        一四、八四九         五六、二六三

廿八年        一四、九二七         五三、二七五

 

即ち重なる教師の(かず)は不思議にも二千九百十人を減じぬ。さらば此の後の運命を負ふべき青年の僧侶教師はいかん。基督教界の神學生とも云ふべき各宗教學校の生徒は實に左の如し。

 

十九年  二四、五五七         廿八年  一一、二二五

 

見よ、半數以上の減なり。 一萬三千三百三十二人を減じたる(なり)。これ少牡(しょうそう)の士が此の任に當るの(こころざし)なきを示すにあらざるか。また東京府に於ける各宗の住職の數を見るに

 

廿七年  二、一〇三   廿八年  一、八二七   廿九年  一、六八九

 

即ち明治廿(にじゅう)(はち)年には前年より百七十六人を減じ、廿九年には前年より四百十四人を減ぜり。この廿九年の現在住職千六百八十九人を寺院の(すう)二千五百九十六人に比すれば、一寺につき住職はコンマ以下六強となる。東京は佛教の盛んならざる處とは云へ、さりとは情けなき(けん)(しょう)ならずや。

 

(きゅう)宗教はかく衰へんとす。されど新宗教は概して盛んならんとす。天理、蓮門兩教の如きは火の原に燃ゆるばかりの勢ありき。 これ(あえ)て喜ぶべき事にはあらぬも、宗教の一轉(いつてん)せんとするは()(じつ)なるに似たり。仙臺(せんだい)の第二高等學校または熊本の第五高等學校に(おい)()教の講演をゆるしが如き、小事なれども未曾有の事といふべし。かくして信仰はいよいよ自由ならんとす。されどもまた(ここ)に一種の迫害なきにあらず。國家的思想の衝突と文明の奢侈(しゃし)と無神論を唱ふる學術とは常に我等に迫りをる(なり)。何を(もっ)てか(これ)を云ふ、(けだ)し我國に()教を弘むるは、(おも)に英、米、露、佛の人々なり。之を以て英米人に對する我が感情は(うつ)して宗教に及ぶなり。

 

英國は世界の大國(なり) 従つて其人(そのひと)自ら高漫(こうまん)屢々(しばしば)我意を(つの)ることあり。これ自然に人の()むところたるを(のが)れず。(いわ)んや東洋に於ける侵略は我らの心を反抗せしむるに於てをや。教會の制度も此處にては(うえ)(とうと)くして(した)(いや)しきに()たり。(しか)れども日本の有志家が視て以て好む所は、かれの國體の稍々(やや)我に近きにあり。君主を(とおと)む心君主に對する祈祷、わが意に(かな)ふよろづの儀式(れい)(てん)また荘厳にして學ぶベきものありとなす。

 

米はいかん、この國は開國の始めより我を導きて(ねんごろ)にかつ公平なり。加ふるに國に侵略の疑念もあらず。其の人は社交に長じ一見(いにしえ)の如し。教會の制度も自由にして(すこぶ)る我奮弊(きゅうへい)(いや)するに足る。然れども國體政體(あま)我國(わがくに)のとかけはなれるを(もっ)て、我とは根本より感情を同じうし(がた)きものあり。()が米國に在るや、曾々(かつて)大統領の改選に際しハリソン、クリブランドの二候補者の競争(はなはだ)しく、一面にハリソンを(ののし)るあれば、他に時の大統領一國の元首たるクリブランドを悪しざまに言ひ()すもあり。余は之を見て(おぼ)えず愕然(がくぜん)たりき。現に(くらい)()きをるものを議すること(かく)(ごと)きは、これ日本人の断じて(あた)はざる所なり。米國の社會はそれにて治まれり。されど(これ)(もつ)(わが)規矩(きく)とす()らず。(しか)るに宣教師諸君が無心にてなす言行の往々(おうおう)此處(ここ)に出づることあり。さては世馴(よな)れざる新帰朝者がか氣習(きしゅう)にかぶれるあり。()(どう)もすれば教外の士をして戦慄せしむる所以(ゆえん)(なり)

 

露國は我喜ぶ所とならず、かる悪感情の源は一は恐怖により、二は英書の露を()からぬやうにいひなす感化により、三は遼東(りょうとう)還付(かんぷ)(たい)(かん)政策(せいさく)(など)(いん)す。(しこう)して政府と教會との餘り密なることいよいよ(わが)邦人をして面白からずとの感を(いだ)かしむる(なり)

 

佛國は(かつ)て深く幕府と結びてわが海陸軍を助けたれども、維新以後やヽ疎外せられたる情なさにあらず。従ひて痛痒(つうよう)を感ずる(すくな)し。たゞ識者はその(おしえ)(ロー)()法皇との閾係を忌諱(いき)するなり。されど()の人々は多く王黨(おうとう)なれば政體の相異よりして人心を(いた)むる如きこと少く、且つ(でん)(どう)も知識ある士流を突かずして下層の人と幼稚の小兒(しょうに)との間に(もっぱ)らなれば、(いちじ)るしき衝突も起らざる也。さればもし露、佛二國の傳道者なかりしならんには、(わが)教育家が()(きょう)に對する(かんがえ)も今日ほどならざりしやも知る()からず。かくして政府も未だ基督教徒の思想を知らず、やヽ解するも他より眼前の反對を受けんと氣遣(きずか)ふに()たり。(しこう)して切るぞ張るぞとの追害は日に日にその跡を(とど)めんとすれども、滔々(とうとう)たる文質(ぶんしつ)の文明華奢(きゃしゃ)風俗は信徒を誘うて()まず。 此の試練はいよいよ強くなりまさりて()(がた)きこと昔の迫害の上に出でんとし、科學によって我を難ずるもの亦(すくな)からず。

 

それ悪感(あくかん)なきにあらざるも、時は(せま)れり機は熟せるが如し。風教を難ずる者あれども救ふ者はなし。かヽる時にこそ基督教徒は蹶起(けっき)すべきなるに、意氣かへつて(たかぶ)らず未だ廣野(こうや)の反響たるに()らざるなり。(ここ)にても佛教界と同じく神学生の近來減少せるを見る。(けだ)し青雲の(こころざし)盛んなる青年の此の(さかえ)なく金銭にも事缺(ことかく)く地を選まざるも(もっと)もならずとせず。加ふるに(でん)(どう)界の内情は(これ)(はげ)まさず、悪感(あくかん)交々(こもごも)起りて神學生たるを喜ばさるなり。()(じつ)(はた)して()(ごと)しとせば、将來に處する(われ)()の方針は如何にして可なるべきぞ。余は(ここ)に三策あるを信ず、上策、中策、下策これなり。

 

上策  従来の方針を一層擴張(かくちょう)し内外人の同情を深うし日本人の牧師のみ苦しみて宣教師(ゆた)かなるが如き事なからん為、なるべく其の(じつ)を近からしめ協力(きょうりょく)同心(どうしん)(みち)(つく)すにあり。余輩(われら)は現今の傳道地(でんどうち)(でん)道法(どうほう)のよきや否やを知らず。されど()(かく)かくしてなされ、かくして繼続(けいぞく)()られたる(なり)。之を(あらた)むるは策の(とく)たるものにあらず。むしろ大いに(これ)擴張(かくちょう)すべきのみ。

 

中策  されどそは()(がた)しといふか。(ここ)に前のよりは劣りたれど一策あり。即ち従来の方策を()(じっ)て大改革をなし、國内各派の連絡を厚うし、宜教師も真に日本の為に患難(かんなん)()せずとの大決心ある人々のみを(とど)めてその(かず)(すくな)くし清き感化に依頼し悪感(あくかん)(あた)ふる機を(すくな)からしめよ。かくせば(はっ)(たつ)めて遅からん、おそかるべけれど出來(でき)たらんには今のごとき外来のものならで、自然獨立の教會たるべし。

 

下策  中策すらも實行(じつこう)し得ずとならば、()むを得ず(ここ)に下策あり。こは少數の優等者に全きを求めずして、劣等にても多數の人々の力を()り、よく耐へよく忍び、遠く(おもんぱか)りて(けん)(むさぼ)らず、卑屈に流れず、一歩は一歩を進め(もっ)遼遠(りょうえん)の後に大成を期すべし。こは至難なりと(いえど)(これ)を期して失敗するより(ほか)なき(なり)。されば天下の事(いず)れか(かた)からざらん。(ただ)神のみ(これ)をして幾分の成功を得せしめ給ふ。天皇わが上にあり、罪に悩める吾人(われら)をして今日あらしめ給へる神は、われらが将來を祝し給はん。余輩(われら)は大いなる神に感謝せんと欲す。

(明治三十一年七月十六日)

 

 

4.    解説

この原稿は庸一が49歳、校長をしていた東京英和学校が青山学院に改称して4年後の時のものです。日露戦争が始まる6年前になります。教勢拡大に意気込むと同時に悩む若き経営者としての庸一の息遣いが聞こえてきそうです。「加ふるに(でん)(どう)界の内情は(これ)(はげ)まさず、悪感(あくかん)交々(こもごも)起りて神學生たるを喜ばさるなり。」などは切実な感じがします。

戦後大きく変質してしまった日本のプロテスタントの原初の形がここにあります。庸一の言う上策、中策、下策などは今でも通用するでしょう。

庸一の文章にはリズムがあります。このリズムは現代語に訳すと失われます。現代人にとって読みにくい漢字には振り仮名を多く付けましたので、原文のまま声を出して読んでみて頂ければと思います。

(当サイト 管理人 本多 謙)