(しゃ)罪者(ざいしゃ)たる基督(キリスト)

本多 庸一

目 次

1.     現代語訳

2.      原文文字起し

3.     解説

 

1 現代語訳

  工事中

 

2 原文文字起し

子よ、心安かれ、(なんじ)の罪(ゆる)されたり。(()(タイ)伝九章二節)

 

幾度(いくたび)(とな)えらるる事なれども、イエス(きみ)は多角にして金剛石の如し。君は(まろ)からず、(また)立方体にもあらずして、幾多の方面を備えさせ給う。 (いにしえ)の預言者も(しゅ)御名(みな)の数々を()げにき。使徒(しと)()(これ)(すくい)(ぬし)とよび、十字架に()けられたるイエスとなす。聖書にはイエス(きみ)の神の大権を以て世人(せじん)審判(さば)かんとの事あり。(しか)して主自らも(また)人の子と称し、道なり真理(まこと)なり生命(いのち)なりと云い、(あるい)は生命のパン、葡萄の樹などと(その)(おん)状態(ありさま)(たと)えさせ給う。主の御姿(みすがた)かくの如くなれども、我らは罪を(ゆる)(たま)う方面よりの君を忘るる(あた)わず。今(いささ)かこの一面をうかがい(たてまつ)らんか。

題詞(だいし)となしたる(ことば)の主の御唇(おんくちびる) より()れけるは、イエス君の大御名(おおみな)(きこえ)ようやく高くして、神の権能(けんのう)を信ずる者の四方より病を(いや)されしとて、御許(みもと)(きた)れる時なりき。ここに記されたる病人は癱瘋(ちゅうぶ)(なや)める者なりとす。(この)(やまい)は脳の血管破裂して(かしら)に血の充つるより起る由にて難治の症なりという。主がその信仰を(よみ)して(やまい)(いや)(たま)える次第は事々(ことごと)しく()わずもがな、病人は(もと)より病を癒されんとて来たりぬ。(しか)るに主は第一に病気を癒すという方には取懸(とりかか)(たま)わで、他の事をなし給いぬ。即ち病を癒すべしと仰せられずして罪(ゆる)されたりと(のたまい)いぬ。

そもそも罪の赦さることと、病気にかかるとは別物なり。(しか)るに主は病気を()いて、まづ(つみ)(ゆる)されたるを告げ給いたり。或は人間罪を犯したるによりて病気(おこ)りたるなれば、罪赦されたりとは即ち(やまい)(いや)されたりとの義なりと云えども、そは余りに附会(こじつけ)()うべし。如何(いか)にも今日の世とて人々の欲を(ほしいまま)にするより、罪を犯して心労を求むるより、種々の病をおこすに相違なしと(いえ)ども、この病人の(やまい)(はた)して罪の結果なりしかは未だ(あきら)かならず、(はた)(また)世の(すべ)ての病は罪に(もとい)すというべきにあらざる也。

基督は世界中の病を癒さんとて来り玉いしにあらず。()(しか)らば主は(かな)らず、万民の(のっと)るべき医法を(のこ)し玉いしならん。イエスには更に大なる目的あり。世の罪を赦さんとの事即ちこれなり。イエスは(もと)より病を(いや)し給いぬ。されどそは慈愛(じあい)(あふ)るる余りに治し給いしのみ。

イエス罪を赦し給うにあらずば、金剛石(こんごうせき)の一面に罪をゆるすという(かた)なくば、我らいかで神前に()づるを()んや。たとい主、病を癒し給うとも、真理を教え給うとも、(しゃ)(ざい)と云う門なくんば、人は宝の山に入ること能わざる也。

さればイエスも反対者の(おこ)るをも(かえり)みず、その罪を赦す資格ある事を度々(たびたび)(おお)(いで)られたり。イエスが罪を赦すと云うは認め難し、(てん)()こそそを(ゆる)(たま)わめといわんか。そも天の父とは(たれ)の教えたる所ぞ。こはイエスによりて始めて(あきら)かになりしならずや。基督の罪を赦し玉う資格を拒みて、(これ)を天父にのみ取らんとするは、それ矛盾にあらずや。基督は導く権能あれど、救う事能わずとせば信仰の土台動かざるを得ざるべし。イエスは(あく)までも人を道徳の備われるものとして取扱い給う。これ人の病よりも重き方を、()ず正したもうにても知らるべきなり。肉体か精神か、形か形以上か、(いず)(おも)きかはイエスの(これ)に対し給えるにて(あきらか)なり。それ神のなし給う奇蹟(きせき)とはその道理、今の我らに分らざるまでにて、神には分明なる事なり。もし道理に(たが)いたる事ならば、神なりとていかんぞよく為し給わんや。我らも神の好む所を好みて、心の病を癒されんことを求むべきなり。仮令(たとえ)病みて身は(たお)るるも、霊魂はその救いに(あず)からんなり。

()(さと)りたりとて責任の消滅するにはあらず。よし今より(しょう)(じょう)潔白になりたりとも、今までの罪は如何(いか)すべき、一度犯したる罪の白紙となる事はあらじ。人を悩ましし事、人の財を奪いし事、これらの汚辱(おじょく)は神とてただ消すことかなうまじき()。ただ神は罪を問い給わざるを()べし。イエスは神が人の罪を問わでも済むべき条件を造り玉えり。人の神の御前に(おじ)(まど)う事なきを得るは、主が爾の罪(ゆる)されたりと、(のたま)うによる。ここに人は善を行う元気を生ず。もとより人は天国へゆくにもせよ、地獄へ()つるにもせよ、善事をなすべき筈なれど、地獄へおつるとの事定まりては、情ある人に善事(ぜんじ)()げられん事(かた)きにあらずや。我らは義務の外に希望を欲す。さなり、人情を与え給える神は、我らに希望という興奮剤を授けさせ給う。

罪に(けが)れたる我らは安心を求む。これ天より恩寵(おんちょう)を呼ばんとするものなれば、まづ健全なる心と()うべし。既に恩寵を得て()れに(やすん)ずるは更に進みたる心なり。之を得たるにあらずして(これ)に意を止めざるは、病める心というべし。我ら怠らずして恩寵を求めんには、主は必ず(なんじ)ら心安かれと仰せられるべき也。

形に()ける我らは病気に(かか)ればその平癒(へいゆ)を祈祷に忘れずして、(かえ)りて己が虚偽(きょぎ)をいい、喧嘩(けんか)をなすなど、浅ましき心を癒されんことを願わず。天理教というものも或は(これ)なるべし。クリスチャン・サイエンスとか唱うるもそれならん。神は種々の人を用い給うべければ、病を癒すという事悪しからず。ただ病を癒されんことを望む(これ)らの教会の人々は、果して他の基督教会の信徒よりも品格上れりや否や。(しか)らずば基督の(とうと)み給う所をすてて、(ひくひ)きに流るる基督教会中の天理教というべき也。信仰篤き人々の中に往々医師に(たよ)るを()む人ありという。我ら(これ)に賛成すること(あた)わず。それ(もろもろ)の学術は神の宝蔵より宝を出して世に示すもの也。さるを(この)引出方(ひきだしかた)足らぬ二千年以前に帰るとは至らぬ事にあらずや。

(いにしえ)、基督教徒が病人の為に祈りける時は、油を注ぎてしかなしぬ。油はその頃万般(ばんぱん)の医薬に用いられしもの也。知るべし。古代の教徒の医薬の力に頼りつつ、(しこう)して全能の主に願えしを。さらば我らも神の与え給える進歩の(たまもの) をうくべき也。何事も真の裏に(いつわ)りのつき来るものなり。よくせざる()らず。(しこう)して罪を(ゆる)されて事の安きを得るのみならず、全く(きよ)まりて神の御姿(みすがた)にたちかえらんは更に願わしき事たるなり。

(『本多庸一先生説教集」四四-四九頁)

 

3 解説