信徒生活の(さん)(よう)

本多 庸一

目 次

1.     現代語訳

2.      原文文字起し

3.     解説

 

1 現代語訳

  工事中

 

2 原文文字起し

()し我に従わんと(おも)う者は、(おのれ)(すて)(その)十字架を(おう)て、我に従え。(()(たい)伝十六章二十四節)

 

()(タイ)伝十六章十三節以下の場合は、耶蘇(イエス)伝道開始已来(いらい)二年目の終りか三年目の始の頃にもあらん。反対者の抵抗 (いよいよ)強く、圧迫 (いよいよ) (はげ)しく成り(きた)りたれば、(しばら)(その)鋭鋒(えいほう)を避けてカイザリヤ・ピリピの辺陬(へんすう)(おい)て、静かに門徒の覚悟を定めんと試み(だま)えるが如し。(すなわ)ち彼等の信仰の告白を促し玉いければ、ペテロが代表して立派に耶蘇(やそ)の活ける神の子キリストなることを告白せり。耶蘇の門徒を教育し玉える甲斐(かい)ありて、定めて満足せられ玉いし事ならん。(その)信仰の(とおと)きと彼等が与えらるる特権の大なることを宣言し玉いて、厚く奨励をなし玉えりと見ゆるなり。門徒等も大秘奥(ひおく)を握り、大奨励を得たるに歓喜(かんき)雀躍(じゃくやく)して、眼前の形勢困難なるにも(かか)わらず、青雲の(こころざし)(いや)堅く希望満々たるの(おもい)をなせしならん。

(しか)るに(あに)(はか)らんや、幕は(にわ)かに変化して未来の大王たる彼らの(しゅ)は、(はなは)だ遠くもあらぬエルサレムに入りて非常の冒険なる動作に()で、長老、祭司の長、学者等より(くるしみ)を受けかつ殺さるるまでの覚悟を(もっ)(その)地に入らんとすとは、狂か又暴か、実に驚愕(きょうがく)出る所を知らざりしが、気逸(きばや)のペテロは急に近寄りて手強き諫言(かんげん)をなせり。或る人は肩に手を置きしならん、或は抱きしならん、又は(かたわ)らに引寄せて申せしならん(など)云えど(あきら)かならず、また()まで必要もなし。()(かく)俄に顔色(がんしょく)を改め所謂(いわゆる)直諫(ちょくかん)、否(むし)強諫(きょうかん)(こころ)みたるならん、(けだ)し世に()う忠臣の()すべき所を(えん)せしならん。(たた)くに大を(もっ)てすれば大に鳴るの(たとえ)にて、耶蘇の御答(おこたえ)(また)いつになき厳愨(げんこく)なる態度をもて(きび)しく(けんせき)し玉えり。「其処(そこ)退()けや我に邪魔する者」(いな)「我を迷わす者よ」と。丁度(ちょうど)出世の初め試練に逢い玉える時に、悪魔に(のたま)いしと同じ言葉を用い玉いしは、いとも(かし)こきことにこそ水も漏らさぬ主従師弟の中にも、時には高熱の(あらそい)あるを(まぬが)れず、(これ)(また)万世(ばんせい)の教訓となることなれば是非(ぜひ)なき次第なり。

今は多くの(ことば)(ついや)すの時機にはあらざれども、或意味に(おい)て我等日本の基督教徒もどうやら静かなる処にて、主より信仰の告白を促されて()る様な気味がするにはあらずや。又(どう)すればペテロの態度に出で、主に御諫(おいさめ)を申すまじきにもあらざる様ならずや。主は果して何との玉うべきやは、多く研究を要せずして(あきら)かなりと思わるるなり。

(さて)我等の本文は右の如き序幕の引続きにて、(これ)が参考となるべき本文を挙ぐれば、改訳馬可(マルコ)伝には「人もし我に従い(きた)らんと(おも)わば、(おのれ)を棄て、(おの)が十字架を負いて我に従え」とあり、文理漢訳に依れば「凡欲我者当己負十字架而従上ㇾ我」とせり、英訳は左の如し。

If any man would come after me, let him deny himself, and take up his cross, and follow me.

(これ)を四段に分ち()く思うなり。即ち

我に従わんと思う者

己を棄て

十字架を負いて

我に従え

(これ)はペテロが告白せし信仰と共に万世(ばんせい)不易(ふえき)の教訓にして、千百の教訓を貫く所のものなり。いざ兄弟姉妹と共に、()けても布教の任を双肩に負う教職兄弟と多数の信徒を代表して、(わが)教会の中堅となる兄弟と共に(この)聖訓の意義幾分を考究せん。

 

一、己を()つ、又は己に()

(この)意味は決して曖昧(あいまい)難渋(なんじゅう)なる者にあらず。一見明白にして所謂(いわゆる)(おのれ)を後にして人を先にし、(きょう)(けん)博愛(はくあい)を貴び主の為め親の為め所謂(いわゆる)善行を(はげ)むべきことなり。ここに主とペテロとの応対を比照(ひしょう)して見逃されぬ一の暗示は、君父(くんぷ)の為め国の為め世の為めに(はか)る、決して(おのれ)を先にするではなくとも、(こと)公道に(かな)わざれば主の御心(みこころ)(かな)わぬことなり。世には随分(おのれ)()つるの行動をなすの忠孝(ちゅうこう)仁侠(じんきょう)なきにあらず。()れど(やや)もすれば私利を(はか)らざれば()なりとして公道(こうどう)(こう)()()(かん)を顧みず、不知(しらず)不識(しらず)私情に()られ公利公益を害するの結果となり、克己(こっき)目的を失する者往々(おうおう)あり。宗教的信仰には非常に厚くして、正理(せいり)公道(こうどう)を思うに(いとま)なき者もままあることなり。主の身を(あやう)うすることを極諫(きょくかん)するの情(仮令(たとい)幾分自家の利害を含むとしても)(うる)わしき事なり。()れども耶蘇(やそ)は神の事を思わず人の事を思うと戒め玉えり。(せい)(どう)の倫理道徳の高きこと大なること(ここ)(おい)てか(あら)わる。嗚呼(ああ)克己(あに)(これ)(ひっ)()匹婦(ひっぷ)一身の私欲を慎むのみならんや。実に天地の大道(だいどう)如何(いかん)と顧みるべきなり。(この)聖訓の模範は実に天の栄光を棄て、罪ある人の姿となり玉いて天下万世の為め生死をなし玉える主の(ひと)(もっぱ)らにし(たも)う所なり。(しこう)して(これ)吾人(ごじん)のごとき(ちいさ)(もの)(ども)にも神の子として(これ)を命じ玉うこと、実に父と救主の大恩なり。(いか)奮励(ふんれい)せざるべけんや。

 

二、()の十字架を負い(又は己の十字架を負い)

(これ)(こつ)()の修養をなさんが為に、又吾人(われら)が主の御用を勤め、人道を行わんが為に避くべからざる者なり。十字架の最大標本たる主は、長老祭司の(おさ)、学者等より仕向けらるる所の十字架を負い玉えり。(ひそ)かに(おも)うに、ここにの玉わざる十字架(じゅうじか)()お多し。吾人(われら)小智(しょうち)之を知悉(ちしつ)する(あた)わざるは勿論なれど、(その)一、二の思付(おもいつく)ところを挙ぐれば、此外(このほか)に骨肉親族の頑迷(がんめい)より来るところの苦痛、(なお)(その)上に未来の大事を托せんとして心血を注いで保護教育をなしつつある門徒諸信者の不信暗愚(あんぐ) (しゅう) (こう)等は、如何に重き十字架なりしやも知るべからず。是は今日までも係わる所にして、吾人(われら)も実に其の幾分か責任ある者とすれば恐懼(きょうく)の至りなり。

(さて)吾人(われら)は開明の世界明治の聖代(せいだい)に逢い、多くの意味に(おい)て主(および)先輩信徒のごとき十字架を負うの機会なき者なり。是皆(さきだ)てる十字架の余勢(よせい)余徳(よとく)と云わざるべからず。実に感謝の(ほか)なきことなれども、()りとて一も十字架なきはあらず、今は今(だけ)のものあるなり。社会の我が所信と習慣に多少の不折合(ふおりあい)なることある等は、十字架上の(ちり)として(かぞ)うるに足らざれども、思想界の困難も(また) (いにしえ) になき十字架なり。目に見えぬ迫害暗闘(あんとう)は、(しき)りに鋭敏(えいびん)になりつつある心頭(しんとう)を刺激して幾多の(しん)(そう)を動揺せしめ、希望を(むなし)うせしめ、人をして五里霧中(ごりむちゅう)に迷わしむると同時に、発達せる物質界の誘惑が道心(どうしん)(あやう)くし、宗教心を(うすく)せしむること又甚だ強大なり。右を超脱(ちょうだっ)せる信者の社会にて、甲は自由の一端に走りて他を啤睨(へいげい)して遅鈍(ちどん)(くみ)するに足らずとし、乙は深く神秘の(ちまた)に入りて他と(すべ)浮薄(ふはく)()(じん)()みる者とす。或は (はなはだ) 厳酷(げんこく)に又は(はなはだ)放浪的(ほうろうてき)なるの事にて、(やや)もすれば寛容忍耐博愛の態度を失うに至る。吾人(われら)も、(また)何時(なんとき)か知らん(その)一方に(かたよ)りて、自ら溺れんとするに至らんも計るべからず。(かか)る事柄は互に皆十字架を形ち作る者にして中々容易ならぬ事なり。(しこう)して吾人が之を負うて立たんとする勇気に乏しきは、又一の重き十字架なり。されど十字架は我等の為めに必須の条件なり。主は又他の処に(おい)ても、十字架を()りて我に従わざる者は、我に(かな)わざるなり(()(タイ)伝十章三十八節)と。されど又(ほか)の所には(その)(くびき)をとりて我に(なら)え、なんじら心に平安(やすき)()べしとも(のたま)えり。我いかで屈すべけんや。

(その)(ほか)我儕(われら)の負うべき十字架は、教会として個人として負うべき者数多し。是に大に注意することは、其の十字架即ち己の十字架と云う事なり。無意識に又は(よんどこ)ろなく避くるの力なきが(ゆえ)に負いつつあるものにてはなく、必要と認めたる困難をば自由の決意を以て歓迎して当る事なり。又は義勇奉公の(きょ)には、我より進み計画して、十字架の困苦に入ることなり。我儕(われら)も幾分か試みつつある(はず)なれ共、(なお)大いに(ふる)うて主の訓戒を実験すべき事なりとす。

吾人にはどうしても自ら弱きが為めに来る困難の外に、歴史的に先入(せんにゅう)(しゅ)となれる、(ほとん)(せい)となれる偏頗(へんぱ)、嫌悪(および)猜疑(さいぎ)に向って進むの難あり。

在来の勢力ある宗教は、根本主義の相違せる者にして(かつ)社会の内外に充満せるに(しい)て割込むより来るの難あり。

風俗は吾人(われら)の主義よりするも、()た時代の標準よりするも、攻撃せざるを得ざる状態にあり。故に吾人(われら)の忠実なる()け反対の度も(また)強かるべき事なり。

 

三、(しこう)して我に従え

(しこう)してという所に力を入れて考えたし。主は「我に従わんと(おも)う者」はと云い給いて、又も「我に従え」と結び玉えるは、大に力を込め玉えることと思わるるなり。英文には二つのアンドを用いて三段に分ちあり、漢文にも十字架の下に「而」を入れて(あきら)かに句を(わか)ちあり、「従う」の字は前の従うよりも一層深き意味なるべし。門徒等は前も今も従い()るには相違なけれど、今一層密接に梱隨(こんずい)すべきことを命じ玉えるなり。即ち或命令或(くん)(かい)服膺(ふくよう)するよりは基督自身に密接し、一歩づつ(その)足跡を踏む様に(その)感化を親愛し、(その)意志を実行することなり。()れにより「克己(こっき)」も「負 十字架」も真正(しんせい)円満(えんまん)となるなり。

ボヘミアの殉教者ジョン・ハッス〔フス〕が、火刑(かけい)に処せられん()めに刑場に引出されたる時、三重の紙(かんむり)に悪魔を(えが)きたるものを(かぶ)らせたれば、ハッス()れを見て(いわ)く、「我主イエス・キリストは我が為に(いばら)の冠を戴き玉えり、(しか)らば我は主の為にいかに恥辱なるにもせよ、(この)軽き冠を()ぶらざらんや。我は実に(よろこん)(これ)を被らんと欲す」。臨席の諸監督曰く、「今我等(なんじ)の霊を悪魔の手に渡す」と、ハッス目を挙げ天を(あお)いで曰く、「主イエス基督、(なんじ)()つて(あがな)い玉える我が霊を(なんじ)御手(みて)に任せ(たてまつ)る」と。主は我が爾曹(なんじら)を愛するごとく汝等も相愛せよとの玉えり。是即ち主に梱隨(こんずい)し、主の(かた)に従いて主の心を行うことなり。()し主に梱隨(こんずい)することを忘れたらんには、多少の克己(こっき)も十字架も(あるい)はわが(つまづき)となること多からん。又他人の妨害となることもあらん。()だ主の如く克己し、十字架を負いたらんには、我にも人にも(はた)(また)神にも適合する事とならん。 )

吾人は聖書に於て解しがたき事、一致しがたき事少しとせず。されど主に従う事によりて(その)弱点を無言(むげん)に解決する事を得べし。幸いにして主の教訓は、之を他の教理(くん)(かい)に比して明白(かん)(たん)なり、直覚的なり。(これ)を奉じて主に梱隨(こんずい)する事に於て甚だ便、絶対の服従を以て主に従うべし、(すべて)の難問題は皆是にて解かるべし。いて()くるにあらず、実行して解くるなり。主の跡を踏むこと密なれば密なる程、其容貌(すがた)もよく見え、其音声もよくわが耳に徹し、其感動も強くして其の徳力を受くること大なるべし。(しこう)して服従も容易になり、義務にあらずして(むし)(たのしみ) となるべし。(その)幸福如何ぞや。(これ)は決して(じん)寿(じゅ)や学力の関係にあらず。(あるい)(むし)寿(ことぶき)もなく、学力もなき謙虚なる心には、(かえつ)て入り易き事なるべし。之を()(しゃ)(さとき)(もの)に隠して、(おさな)()(あらわ)し玉うを謝すとは、主自身の感謝なり。実に難有事(ありがたきこと)なりかし。

己に()ちて徳を行えよ、困難を忍びて(その)義務を果し向上の(みち)を歩めよ。(これ)一に奮励(ふんれい)力行(りっこう)の必要を教え玉うなり。(しこう)して最後には我に従えとのたもう。是は又も一箇条の力行を加えたるよりは、(むし)ろ他力に()りて円満の結果を()べしとの奨励又保証なり。我即御自身なり、吾人の従うべき者は主なり、父より(いず)恩寵(めぐみ)、聖霊の加護誘導、皆此の我なる御一身を通して賜わるなり、働きにあらず恩寵に()ることなり。主に従うことは御恩(みめぐみ)(すべ)てに()るるなり、主御自身の全体に接することなり、主御自身に触れて以て父の御膝下(おんひざもと)に安ずることなり、(あな)(かしこ)

吾人(われら)は祖先より色々の善き教を伝えられたり。()し日本に儒道も神道も仏道もなかりしとせば、いかにして吾人が今日基督教の(おう)()を今日だけにても知ることを得べき()。吾人は(わが)祖先により、神より、()準備(そなえ)を与えられたり、感謝すべき事なりとす。されども吾人の伝来物は一方に偏する者多し。力行を(おもん)ずる者は他力完成を知らずして難路に彷徨(ほうこう)す。他力を(ちょう)ずる者は力行修徳の永生(えいせい)に欠くべからざるを知らずして、妄想(ぼうそう)安心をなして暗黒の途上に不覚の楽観をなしつつあり。是基督の自力(じりき)他力(たりき)円満完全なる(すくい)の大必要ある所以(ゆえん)なり。(ねがわ)くば真の神の御佑(みたすけ)によりて基督を伝え、吾人に直接の責任ある帝国の上下貴賤(きせん)(この)福音(ふくいん)を伝え、神国(しんこく)の幸福を普及せしめんことを。      

(『護教」第一〇五六号、明治四四年一〇月二八日)

 

3 解説