新約(しんやく)第一(だいいち)(かい)

本多 庸一

目 次

1.     現代語訳

2.      原文文字起し

3.     解説

 

1 現代語訳

(とき)()ち、(かみ)(くに)(ちか)づいた。()(あらた)めて福音(ふくいん)(しん)じなさい。(マルコによる福音書1章15節)

 

イエス・キリストがバプテスマを受けてガリラヤに帰り、カペナウムに()いて会堂で(おしえ)()いた時、「群衆(ぐんしゅう)はその(おし)えに非常(ひじょう)(おどろ)いた。(かれ)らの律法(りっぽう)学者(がくしゃ)のようにではなく、権威(けんい)ある(もの)としてお(おし)えになったからである。」(マタイによる福音書7章28、29節)群衆がその様に思った理由は沢山あるでしょうが、その訓戒が尊厳に満ち、理があり力があったことが最大の理由なのでしょう。それに加え訓戒の数も多いのですが、その概要を挙げれば、その第一は「悔い改めよ」という冒頭の本文です。その第二に「我に従え」(マタイによる福音書4章19節)、その第三は理想的八品性(マタイによる福音書5章312節)であって、「(さいわい)なるかな」との祝福の言葉をお加えになったものです。その数は多く、枚挙に(いとま)ありません。これらは全て神の子、(すく)(ぬし)であるキリストの命令であって、その大小要否を論ずる必要はありませんでしょうが、この第一の訓戒こそ実に最初の(おお)きな(いましめ)であって、又キリスト(きょう)の性質を良く表明するものと言えるでしょう。      

 

(1) バプテスマのヨハネの悔改(くんかい)との相違

その表現に()いて(おおい)(こと)なる所があります。ヨハネの悔い改めは悪い行いを理解して改めるよう奨励するものです。イエスの悔い改めは救いの力を有難く受け入れさせるものです。自分に依るか他者に依るかの程度の(あさ)(ふか)さと将来発達の希望に()いて、その違いは(はなは)だしいものがあります。ですから主は言われました。「()(あらた)めて福音(ふくいん)(しん)じなさい」と。(ここ)に至って信仰は私たちと密接な関係を有し、悔改はその重大な条件となりました。これは実に天の門であって新しく生きるきっかけとなる理由です。これは人が生きる方向が全く変悪ことを意味します。つまり自分の力に頼らず、他人に頼らず、物に頼らず、全く神に頼るものなのです。バプテスマのヨハネの悔改は名誉を(おも)んずる人、(せい)(せつ)を楽しむ君子でも、或る人は実行できるでしょう。自分の力を頼む所があるからです。所謂(いわゆる)反省の意味が無い訳ではありません。かのヘンリ・ワァールド・ビーチャルはこの()を良く説いて言いました「我々が他人に対して悔改(くいあらため)を表明しようとする時は、まるで直立する険しい崖を()じ登ろうとするのに似ています。又法律に対し悔改(くいあらため)するとしましょう。これは鰐魚(わに)の飢えた口に向うのに似ています。或いは時代の人気に対して悔改(くいあらため)するとしましょう、茨の繁茂みに自分の身を投げ込むのに等しいです。唯一、神に向って悔改(くいあらため)することは、神様の仁愛(じんあい)温和(おんわ)が一杯詰まった所に飛び込むのであって、神様が貴方の霊を受け止めることは、まるで海水が遊泳者を受け止めるように、貴方を前よりも(きよ)く、(かつ)白くして帰らせるのです。これは世間の悔改(くいあらため)と異なるところです。

 

()真正の悔改(くいあらため)は進歩に必要です

自分の足りない点を知るのは生き方を補って正そうとする第一歩です。補正を求めるのは、向上の道であり、そこに進歩が生じます。ですから悔改(くいあらため)なしで、どうして進歩することができるでしょうか。メイスンが言いました。「悔改(くいあらため)は謙遜する心情に始まり、生活の改良に終る。」と。ネヴインスは言いました「真の悔改(くいあらため)は罪の為に砕かれ、且つ罪によって砕かれた心情の上で成り立つものです。」と。ダビデ王が歌って言いました。「神の求める生贄(いけにえ)は打ち砕かれた霊。神よ、あなたは(あなど)られません。」(詩篇51篇19節) (訳者注;原文では十七節とあるが十九節の間違い。)と。悔改(くいあらため)は信仰によって神と結びつくのです。神は必ず貴方を(ゆる)し、そして貴方の道を与えてくださるとの希望が心に満ち(あふ)れるのです。神の愛に引かれるのです。言い換えれば自分を棄てて神の中に入るのです。神の中に入る者には進歩があり生長があります。自分の力を頼む者はこの境地に至ることはできません。傲慢は実に進歩の敵です。悔改(くいあらため)は即ち謙遜です。この道に()いてのみ神の子としての発達を遂げることができるのです。

 

()信者一生涯の状態なり

悔改(くいあらため)は若者だけに限るべきものではありません。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」(マタイによる福音書6章28節)と教えられた信徒は、朝に夕に悔改(くいあらため)をした結果あらゆる面で優れ、恩寵(めぐみ)真理(まこと)との経験によって喜びと希望が与えられるでしょう。過失の無い人はいるでしょうか。幸にして積極的には罪悪を犯さなくとも、消極的には忠信(ちゅうしん)仁愛(じんあい)の足らない、悔改(くいあらため)をするのに値する者が実に多いのではないでしょうか。信徒の生涯は進歩の生涯です。発達の生涯です。一歩に一歩必ずや悔改(くいあらため)の門があるのです。(かつ)て某聾唖(ろうあ)(いん)の教師が或る日その生徒達に一つの質問をしました。「どんな感情が最も(よろこ)ばしいでしょうか?」と。それから種々(さまざま)な感情の名前を教えたところ、生徒は各自の石板に答案を書きました。Aさんは「歓喜」と言い、Bさんは「希望」と言い、Cさんは「満足」と言い、Dさんは「愛情」と言いました。中に一人の最も平和に充ちた表情の少女がいました。教師が彼女をチェックしたところ書いてあったのは「悔改(くいあらため)」でした。大いに驚いてその理由を訊ねたところ少女は最も幸福に、嬉しそうな表情と態度で、「本当に、神の前に謙遜することこそ最も喜ばしい事なのです。」と答えました。これは実にキリストの御命令の要領を得たる者というべきです。

悔改(くいあらため)をすることが(げん)(しゅん)(いん)(うつ)の状態になることだというのは(いま)だキリストの本当の意味を解っていない人です。そもそも、主がお勧めになるのは退(しりぞ)いて暗い部屋で号泣(ごうきゅう)し、心身を苦しめ、(うれ)いに沈めという事ではありません。

積極的に父なる神の膝元に自分の罪を告白して赦しを求め、勇んで完全に進めという事なのです。何となれば退(しりぞ)いて自ら苦しむのは十分の謙遜ではありません。自分の力を頼む所があるからです。真の悔改(くいあらため)は自分を裸にして、神の光明裡(こうみょうり)に入るのです。ですからその質に於いて快活なのです。神の待ち給う御手(みて)(いだ)かれるのです。何の躊躇(ちゅうちょ)する所があるでしょうか。感恩(かんおん)と悦楽が自然と生まれるはずではないでしょうか。それに、悔改(くいあらため)は時間をかけて論ずるべきでもありません。ただ、時を失わないで、真実なのが必要です。西洋の諺に「貴方は悔改(くいあらた)めに(はや)()ぎることはない。ただ、貴方は悔改(くいあらため)の機会を逃すかどうかを知っていて(すみや)かであるべき事を知らないのだ。」と言うのがあります。これは(すみやか)悔改(くいあらため)ない者が時には居ることを教えているのです。又「真の悔改(くいあらため)は遅()ぎても決して心配ない。 だが遅い緩慢な悔改(くいあらため)の多くは恐らくは真実ではない。」とも言います。

もし真実の道徳から起るものではなく、単に利害の念にのみ()られたなら、それは真の悔改(くいあらため)ではありません。これは大いに警戒しないではいられません。痛切な心の内からの(さけび)は、たとえ(おく)れたとしても、神は必ず喜んで受け取ってくださるでしょう。気付いた時が即ちその機会なのです。悔改(くいあらため)は事の挽回(ばんかい)を言うのではありません。

(ねが)わくば、我等新しい人も(ふる)い人も、神の子となって天の父の愛を知り、救い主の恵みを頂く者となり、朝夕その聖前(せいぜん)に真実偽りない悔改(くいあらため)を行い、日々(せい)(せい)の域に深く進みたいものです。

 

(「本多庸一先生説教集」27-32頁)

 

 

2 原文文字起し

(とき)(みて)り、神の国は(ちかづ)けり、(なんじ)()()(あらた)めて福音(ふくいん)を信ぜよ。(馬可(マルコ)伝一章十五節)

 

イエス・キリストのバプテスマを受けてガリラヤに帰り、カペナウムに(おい)て会堂に(おしえ)()ける時、「人々(その)教を(おどろ)き合えり、()は学者の(ごとく)ならず、権威を()てる者の如く教え給えばなり」(()(タイ)(でん)七章二十八、二十九節)(その)(しか)所以(ゆえん)の者多かるべしと(いえ)ども其訓戒の尊厳にして、有理有力なることは其最大なるものなるべし。(しか)して訓戒の数も(また)多きも、(その)概要を挙くれば其第一は「悔改(くいあらため)よ」とにて此本文なり。(その)第二に「我に従え」(()(タイ)伝四章十九節)、其第三は理想的八品性(馬太伝五章三十二節)にして、「(さいわ)いなるかな」との祝福の辞を加えられたるものなり。其数(そのすう)、多くして枚挙に(いとま)あらず。()(ことごと)く神の子、(すくい)(ぬし)たるキリストの(めい)にして、其大小要否を論ずるの必要あらざれども、此第一の訓戒こそ実に最先(さいぜん)(だい)(かい)にして、又よく基督(きりすと)(きょう)の性質を表明するものと()うべけれ。            

 

(1) バプテスマのヨハネの悔改(くんかい)との相違

措辞(そじ)(おい)(おおい)(こと)なる所あり。ヨハネの悔改(くんかい)悪行(あくこう)(かい)(しゅん)を奨励するにあり。イエスの悔改は救拯(きゅうじょう)の力を甘受(かんじゅ)せしむるにあり。自他依頼の(せん)(しん)と将来発達の希望に(おい)て、(その)径庭(けいてい)(はなは)だしきものあり。(ゆえ)に主は(いわ)く、悔い改めよ(かつ)福音を信ぜよと。(ここ)にありて信仰は密接の関係を有し、悔改は重大なる条件となれり。()れ実に天の門にして新生の(はじめ)たる所以(ゆえん)なり。一生の方向の全く変更せるを意味す。即ち(おのれ)()らず、人に頼らず、物によらず、全く神に頼るものなり。バプテスマのヨハネの悔改は、名誉を(おも)んずるの士、(せい)(せつ)を楽しむの君子も、(ある)(これ)をなさん。(おのれ)を頼む所あればなり。所謂(いわゆる)反省の意味なきにあらず、()のヘンリ・ワァールド・ビーチャルよく(この)()を説きて曰く、我等、他人に対して悔改(くいあらため)を表せんとする時は、(あたか)も直立せる(けん)(がい)()じ登らんとするに似たり。又法律に対し悔改せん()(なお)鰐魚(わに)(うえ)たる口に向うに似たり。(ある)は時代の人気に対して悔改せんか、(しん)(けい)の茂みに(その)身を投ずるに等し。(ただ)神に向って悔改するや、其仁愛(じんあい)温和(おんわ)(じゅう)(そく)する処に飛び込む者にして、神は其霊を受くること、殆ど海水の遊泳者を受くるがごとく、之をして前よりも(きよ)く、(かつ)白くして帰らしむべしと、これ世の悔改と異なる所以(ゆえん)なり。

 

()真正の悔改は進歩の要法なり

我足らざるを知るは補正を求むるの一歩なり。補正を求むるは、向上の道なり、進歩即ち生ず。故に悔改なくして、いかで進歩あるを得んや。メイスン曰く、悔改は心情の謙遜に始まり、生活の改良に終ると。ネヴインス曰く、真の悔改は罪の為に砕かれ、且つ罪より砕けたる心情の(うち)に成るものなりと。ダビデ王(うたつ)て曰く、「神の求めたまう祭物(そなえもの)は、砕けたる霊魂(たましい)なり、神よ汝は砕けたる悔いし心を()()しめたもうまじ」(詩篇五十一篇十九節)(編者注;十七節とあるが十九節の間違い。)と。悔改は信仰を以て神に結びつくなり。神は必ず赦免(しゃめん)し、(かつ)(その)道を与え給うとの希望満々たるものあるなり。神の愛に引かるるなり。換言すれば(おのれ)を棄てて神の中に入るなり。神の中に入るものには進歩あり生長あり。己を頼むものは(ここ)に至る(あた)わず。傲慢は実に進歩の敵なり、悔改は即ち謙遜なり、此道に(おい)てのみ神子(しんし)たる発達を遂げ得る也。

 

()信者一生涯の状態なり

悔改は(ひと)り新進者のみに限るべき者にあらず。「野の百合(ゆり)はいかにして生長(そだつ)かを思え」(()(タイ)伝六章二十八節)と教えられたる信徒は、(あした)(ゆうべ)に悔改(しゅん)(りょう)全きに進み、恩寵(めぐみ)真理(まこと)との経験によりて喜楽と希望を加うべし。人(たれ)か過失なからん。幸にして積極的に罪悪を犯さずとも、消極的に忠信(ちゅうしん)仁愛(じんあい)の足らざる、実に悔改を値する者多きにあらずや。信徒の生涯は進歩の生涯なり、発達の生涯なり。一歩に一歩必ずや悔改の門あるべし。(かつ)て某聾唖(ろうあ)(いん)の教師、一日其生徒らに一問を発して曰く、如何なる感情が(もっと)も喜ばしき者ぞと。(しこう)して種々(さまざま)なる感情の名辞を(さず)けたるに、生徒は(おのおの)(その)石板に答案を書けり。甲曰く歓喜、乙曰く希望、丙曰く満足、丁曰く愛情、中に一人の(もっと)も平和に充ちたる顔色をなせる少女あり。教師(その)石板を検すれば書して曰く悔改と。大に驚きて其所以(ゆえん)を問えば少女は尤も幸福に、喜ばしげなる顔色と態度を(もっ)て、答えけるは「あわれ神の前に謙遜することこそ尤も喜ばしき事なれ」と。是実に基督の御命令の要領を得たる者と云うべきなり。

悔改を以て(げん)(しゅん)(いん)(うつ)の状態となすは(いま)だキリストの本旨(ほんし)を得ざるものなり。(けだ)し主の勧告は退(しりぞ)いて暗室に号泣(ごうきゅう)し、心身を苦しめ、憂悶(ゆうもん)に沈めとの事にあらず。進んで父の膝下(しっか)罪過(ざいか)を告白して赦免(しゃめん)()い、勇みて完全に進めとの事なり。何となれば退いて自ら(くるし)むは十分の謙遜にあらず、自ら頼む所あるが故なり。真の悔改は己れを裸にして、神の光明裡(こうみょうり)に入るなり。故に(その)質に於いて快活なるべし。神の待ち給う御手(みて)(いだ)かるるなり。何の躊躇(ちゅうちょ)する所かあらん。感恩(かんおん)と悦楽自ら生ずべき筈ならずや。且つや悔改は時を以て論ずべきにあらず、只時を失わずして、真実なるを要す。西諺(せいげん)に曰く、(なんじ)悔改に於いて迅速に()ぐること能わず。(けだ)し汝は悔改の機会を失するの如何に(すみや)かなるべきを知らざるなりと。これ時に(おい)(すみやか)なるものなきを教えたるなり。又曰く、真の悔改は決して遅きに()ぐるを憂えず、 (ただ)(おそら)くは遅緩(ちかん)なる悔改の多くは真実ならざるをと。

()し真実の道徳より起るものに(あら)ずして、単に利害の念にのみ()られたるものは、真の梅改にあらざるなり。これ大に警戒せざるべからざるなり。痛切なる心裡(しんり)(さけび)は、よしや(おく)れたりとも、神必ず嘉納(かのう)し給うべし。心づける時は即ち(その)機会なり。悔改は事の挽回(ばんかい)を言うにあらざるなり。

(ねがわ)くば我等新しきも(ふる)きも、神の子となりて天父の愛を知り、救主の恵みに(あずか)るもの、朝夕(その)聖前(せいぜん)に真実偽りなきの悔改をなし、日々(せい)(せい)の域に深く進まんことを。

 

(「本多庸一先生説教集」二七-三二頁)

 

3 解説

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