恭しく 天長節を迎ふ 目 次 1. 現代語訳 2.
原文文字起し 3. 解説 1. 現代語訳 明治40年、秋は既に深い。空は高く晴れ爽やかな空気が流れ収穫物が蔵を満たし人々はなごやかに、皇風が至る所にそよぐ時、十一月三日は正に近づいた。これ、我大和民族三千年の史上比類なき大業を成就し光輝をあたり一面に照らされた明治天皇陛下の天長節を祝すべき日なのだ。日本に生れて明治の日本人である者、誰がその幸運にして此の佳節を祝す光栄を喜ばない者があるだろうか。そして、その中に一団の結社に属する者であって、他と異なる趣味を懐き深く慶祝の誠意を表すべき者があるのを信ずる。それはつまり他人ではなく、本年六月を以て年来の宿題を貫徹し、その一か条を宗教箇条の一つに加えてその立場を標榜した日本メソヂスト教会員こそ即ちその者なのだ。 我々は聖書の教える所により、凡て有る所の權は皆神が立てておられるのを信じ、日本帝国に君臨しておられる万世一系の天皇を奉戴し、国の憲法を重んじ、国法に遵うのだ。 日本人である我々と我皇室との関係は、単にこの一ゕ条が意味するところに限らない。我々の租先は大まかに言って皇統の男系でなければ創業時代の臣民の子孫なのだ。大和民族は実に一大家族の関係である。我が天皇家の始祖が国を草創された時、豊芦原の中津國である既成の邦国を征服したと言うよりは、寧ろ新たに拓殖の業を創め殖民と成したと言う方が妥当であろう。それ以来代々文化を施し産業を興したのであって、一つとして天皇家の保護や指導を受けなかったものはない。天下が麻の様に乱れた状態に陥ったことが無い訳ではない。内憂外患が数々至ったのに、一国が瓦解土崩の禍を免れ、乱世を正す時機を来たらしめた者は、つまるところ皇室が存在して民族の中心となっているからで無いのではない。天が我が皇室を通じて此の民族を恵み給うことは素晴しいと言うのさえ愚かなりと言うべきである。そうして遂に明治の大業を興して世界を驚倒し萬世を照そうとするに至っては、皆我が皇室の天祐の厚さを証明しないではいられないのだ。幕政三百年の鎖國は実に基督教に関することが最も多い。今や維新以来僅かに四十年。我々基督信者も他の旧来の宗派と一視同仁の保護自由を享受するのは実に是は世界の偉観である。敢えて基督信者の自由だけを言わないで、嘗て宗教の地位に在って重大な待遇を被った神道仏教も共に一種の宗教として平等の待遇を受けるに至っては更に驚くべきことであると思う。信教の自由を誇称する欧米列強に於いても、我国以上に各宗教が均等の待遇を受ける国は無いのです(北米合衆国を除いては)。欧米諸洲中最も自由な新法を有する処には取分け法外な処置がある処が多いけれども、我信教の自由は其の類ではない。明治の初より漸く宗教の自由が実地に行われて進み、憲法に明記されたのであるからには、空疎な文章で実効性が無いという懸念はありません。国内国外の歴史を顧みると、宗教の一派や新宗教が公の許可を得る時には、多くはその君主が自らこれを信奉し、その威望に依って臣民を誘導して共にこれを信奉させることがある。この様にして新教派は自由を亨くると共に他の教派は抑圧を加へられることを免れない。我明治の信教自由は全くこれと異り、政教別途の原則を重んじて新旧共に平等である。皇室とは毛髪ほどの関係も無い。日本臣民の信教自由は純粋に自由なのだ。生命財産は法律に拠って安全なのだ。国防は世界第一流の陸海軍が任に当たる。日本人民は全員この世の幸福をこの世に求めることができる。決して内外教会の助力は必要ないのである。純粋な信教自由の国に住んで純粋に宗教道徳を学べることについて、日本に於ける基督信徒以上の者、これを世界の何処に求めることができるだろうか?これは全て我皇室が天の助けにより我々に与えてくださったものなのだ。従ってこう言おう、日本臣民であって最も高尚にして最も大なる恩恵を今上陛下より頂いた者は基督信徒であると。宜しく真心から忠義の心を懐いて正義を実行し、仁愛の道を施してその並々ならぬ御恩に報いようとすべきである。 そもそも国家が成長し繁栄する秋に当り天皇陛下の国家統治に力を添え国の勢力を拡張しようとするなら、民心を広く大きくしてその好みの質を高くし、その情緒を篤くしてその言行を正しくし、至る処で世間の人心の助けとなる徳風を養うよりも大切なものはない。その様にして我々基督信徒が、天の父の完全を理想として救主の献身を模範とし、主が与えて下さった安心と慰めの中に在ってその本分を尽くそうとすることを誓うならば、願わくば佳節慶祝の本旨に適う者となることを。 頓首敬白 (明治40年10月28日 越中富山市に於いて) 2. 原文文字起し 明治四十年秋既に老いたり。天朗かに氣清く蔵豐かにして蒼生和し、皇風四邊にそよぐの時、十一月三日は正に近づけり。是れ我大和民族三千年の史乗中比類なき大業を成就し光輝を八絃に照らし給ヘる明治天皇陛下の天長節を祝すべきの日なり。生れて明治の日本人たる者、誰か其の幸運にして此の佳節を祝すの光榮を喜ばざるものあらんや。而して其が中に一團の結社に属するものにして、他に異れる趣味を懐き深く慶祝の誠意を表すべき者あるを信ず。其は即ち他人にあらず、本年六月を以て年來の宿題を貫徹し、左の一ヶ條を宗教個條の一に加へて其の立場を標榜せる日本メソヂスト教會員こそ即其の者なれ。 吾人は聖書の教ふる所により、凡て有る所の權は皆神のたて給ふ所なるを信じ、日本帝國に君臨し給ふ萬世一系の 天皇を奉戴し、國憲を重んじ、國法に遵ふ。 日本人たる吾人と我皇室との關係は、單に右の一ヶ條に合蓄せるに限らず。吾人の租先は概して皇胤の流を酌む者にあらざれば創業時代臣民の子孫なり。大和民族は實に一大家族の閾係なり。我が高祖高宗の國を肇めらるヽや、豊芦原の中津國なる既成の邦國を征服せりと言はんよりは、寧ろ新たに拓殖の業を創め殖民と成せりと云ふ方適當なるべし。爾後代々文化を施き産業を輿す一として 皇家の保護誘掖を蒙らざるなし。時に天下亂麻の状態に陥りたることなさにあらず。内憂外患比々至れりと雖も、一閾瓦解土崩の禍を免れ、撥亂反正の時機を來らしめたる者は、畢竟皇室の存在して民族の中心となれるに由らずんばあらず。天の我が皇室を通じて此の民族を恵み給ひしこと賢しと云ふも愚かなりと云ふべし。而して遂に明治の大業を興して一世を驚倒し萬世を照さんとするに至りては、皆我が皇室の天祐の厚さを證せずんばあらざるなり。幕政三百年の鎖國は賓に基督教に關すること尤も多し。今や維新以來僅かに四十年。吾人基督信者も他の舊来の宗派と一視同仁の保護自由を享受するは實に是れ世界の偉観なり。敢て基督信者の自由のみを謂はず、曾て宗教の地位に在りて重大なる待遇を蒙れる神道佛教も共に一種の宗教として平等の待遇を受くるに至りては更に驚くべきことなりとす。信教自由を誇稱する欧米列強に於ても、我國に勝りて各宗均等の待遇を受くる者あらざるなり(北米合衆閾を除きては)。欧米諸洲中尤も自由なる新法を有する處には尤法外なる處置ある處多けれども、我信教の自由は其の類にあらず。明治の初より漸く宗教の自由實地に行はれて進み憲法に顕はれたる者なれば、虛文無實の嫌なし。内外の史乗を顧るに一派新教の公許を受くる時に多くは其の君主自ら之を奉じ其の威望を以て臣民を誘導して共に之を奉ぜしむることあり。斯くて新教派は自由を亨くると共に他の教派は壓抑を加へらるヽことを免れず。我明治の信教自由は全く之と異り、政教別途の原則を重んじて新奮共に平等なり。皇室とは毫も閾係なし。信教自由の日本臣民に於けるは純粋自由なり。生命財産は法律によりて安全なり。國防は世界第一流の陸海軍をもて任ぜらる。日本人民一切世上の幸福は世上に之を求め得べし。決して内外教會の助力を要せざるなり。純粋なる信教自由の郷に在りて純粋に宗教道徳を學ぶの便あること、日本に於ける基督信徒に過ぐる者之を何處にか求んや。是れ皆我 皇の天祐の下に吾人に賜ふ所なり。故に曰く日本臣民にして尤も高尚にして尤も大なる恩澤を今上陛下より蒙れるものは基督信徒なりと。宜しく誠忠の心を懐いて正義を實行し、仁愛の道を施して其の高恩に報ずることを圖るべし。 抑國家興隆の秋に當り皇謨を翼賛し國立を擴張せんには、民心を濶大にして其の好尚を高うし其の情緒を篤うして其の言行を正しうし至る處世道人心を裨益するの徳風を養ふより大なるはなし。而して吾人基督信徒が天父の完全を理想として救主の献身を模範とし、主の與ふる安慰の中に在りて其の本分を盡さんことを盟はゞ、庶幾くは佳節慶祝の本旨に合ふ者あらん。 頓首敬白 (明治四十年十月二十八日 越中富山市に於いて) 4. 解説 この原稿は明治40年10月28日(月)に書かれています。この日庸一は富山市会堂で歓迎会があり、「組織に付き」て演説をしています。前日も同所で演説をしています。この原稿は何処かで発表する為に宿泊所で書き上げられたのでしょう。あるいは27日の演説の原稿を書き直したものなのかも知れません。 この原稿は独特のリズム感に溢れ、庸一の高揚感や勃興期の日本の雰囲気が伝わってきます。現代語訳はそれが失われるので原文を併せて読んで頂きたい。幕末、明治維新、日清日露戦争を体験した庸一にとって彼が目指したキリスト教は日本を欧米列強に伍して生存せしめるための日本人の精神的支柱だったと思われます。宗教家、経営者としての庸一はその「坂の上の雲」を目指したのでしょう。庸一が仕えていた津軽藩藩主は近衛家の宴席であり津軽藩は官軍側に付いたことにも目配りしたいと思います。 庸一はこの時53歳で、メソジストの監督として東奔西走の日々でした。ちなみにこの原稿が書かれた10月は弘前、盛岡、仙台、浜松、静岡、豊橋、沼津、金沢、富山、福井を訪問し、ほぼ連日会議や講演を行っています。庸一は64歳で長崎にて客死するまでその様な生活を送ったことが資料から判ります。山北青山学院院長はそれを「過労死」と表現しておられましたが、21世紀を生きるクリスチャンはそのことを知っておくべきでしょう。 |