約束の賚 本多 庸一 目 次 1. 現代語訳 2. 原文文字起し 3. 解説 1 現代語訳 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼等が座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2章1一4節) この驚くべき事件は、実に1900年の昔の今日起ったのです。私たちは今日これを記念するに当り、又この聖霊の賜を受けるに足る心でいられないことはないのです。 それではどの様にしてこの聖霊の賜を受けるべきでしょうか。主キリストが自ら教えて「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいる様にしてくださる。」(ヨハネによる福音書14章15、16節)と言いました。つまり主の掟を守る者に、この約束をお与えになったと言うのです。それでは、その主の掟とは何でしょうか。主は又答えて「わたしがあなたがたを愛したように、たがいに愛し合いなさい。これが私の掟である。」(ヨハネによる福音書15章12節)と言われました。これによってこれを見れば、主の掟を守るとは愛しあい互いに和する徳を指すことは明らかです。 進んでその約束を受けた状況を、この本文について研究しましょう。 先ず注意を惹くのは、弟子達の「心を合わせて一所に居た」ことということです。心を合わせ、思いを同じくして相一致し、しかも一団となり一所に居て、情濃やかに愛篤いもの、これに極まったとも言うべきでしょう。主の所謂「たがいに愛する」ものでなくして何でしょうか。次に俄に疾風の様な響きが起ったと言います。次第にではなくて「俄に」です。疾風ではなく「激しい風のような響き」でした。烈風が堂外に吹くのではなくて、天来の響きが室内に充ちたのです。前後左右から彼等を囲んだのです。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあり、炎ではなく「炎のようなもの」が現れたのです。一面に室内に拡がったのではなく、各人の上に個別に止まったのです。換言すれば社会的に広く来たのではなく、個人的に熱く止まったのです。これ大いに考えるべきではないでしょうか。 ユダヤの三大祭りの中、その最も重大な二つは、新約の二大事蹟によって、形を改め、力を加えて今日に伝わっています。一つはユダヤの踰 越 の祭りであり、今日の復活祭です。他はモーセの十誡を受けたペンテコステであり、今日の聖霊降臨の紀念日がそれです。旧約の祝日と新約の記念とが相合し、更に進歩して今日に至ったのです。主が「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書5章17節)と言われたのは、この辺の消息をも洩らすものではないでしょうか。 これより十日以前でした。キリストはその弟子等に世界伝道の大命を下し、聖霊降臨の約束を残して昇天なさいました。主が十字架に死んで以来知識なく経験もない弟子等は、ただ失望に沈んでいましたが、その復活に会いその昇天を見たので、些か力づき末頼しい心地がしたに違いありません。この様な次第で万民に福音を宣伝するという大任を思っては、互に相誡め相励まし、予期せず集会をするに至ったのでしょう。集会の外の者は敵の勢力を見て気後れし、内の者は自らを省みて愧じ、かつ事業の大きい事を思っては、憂愁限りないものがあったでしょう。ただ、頼む所は約束の霊の降臨だけでした。日々相集まっては主の道徳と聖愛を語り、交情 愈ひたむきにし、真に主を愛し互いに愛しなさいとの教えについて、未だ曾て無かった経験を得たことでしょう。準備に怠りがないのですが、未だ求める元気が出て来ません。まるで鉄道のレールの上に列車が並んでいるけれども、その原動力である機関車が無いように、月世界をも撃つ程の大砲に装薬が充填してあっても、点火すべき火が無い様なものです。こうして一日が過ぎ二日が去って週となり旬となって未だ真の約束を遂げられません。待望の心が愈切実になって来て、増々顧みられるのはその誡を守れとの教えを思い返し、悔い改めの気持ちが頻りに興って、徴税人マタイが軽蔑されたり邪推して何人かを恨んだことがあると謝ったこともあったでしょう。トマスはペテロの無学を心中馬鹿にしたと告白したこともあったでしょう。ペテロは僅かの動機に不覚を取ったのを懺悔し、ヤコブ、ヨハネは諸兄弟を外して自分達の高位を望んだ傲慢を告白して謝りました。百二十人の男女、一心同体となって各その足らない点を顧みたことでしょう。こうして又安息日は過ぎました。新しい主の日が来ました。今日こそはと、熱心、厳粛、愛に満ち信に輝いて集会は熱くなり、数人の祈祷は軌を一にして、天父と主キリストと約束された慰めの聖霊とに捧げられました。ですがそれによってどんな反応を体験するかは、全く予想できないことでした。 忽ち天より疾風のようなき響きが来て家中に満ちました。各人の上を炎のような光が止まったのです。会衆は皆平伏したことでしょう。やがてある者は頭を上げて、他の者の頭上に光を見、別の或る者は他の者の上に認めて、終に皆等しくその徴を受けて、同じく恩寵に浴したのを知ったのです。この様にして衷心に信仰が振い、愛情が動き、義憤が勃然として発し、新たな気力が鬱然として満ちたのを感じたのです。 儀文儀式の中に教育されたユダヤ人には、風と火は有効でした。その名誉利欲に拘る人には、風と火は必要なものです。言葉の能も又形象的異象であって、その吉兆の裏の意味を察すれば、地方的宗派的人種的偏見が破れ、博く世界の万民を愛して伝道しようとの精神が起った事を表わし、種蒔きとパン種の譬喩に苦しんだ者が大いに天の父の聖旨を体現し、人々の奥底にある心を貫いて万人を悔い改めさせる事を意味します。分争嫉妬の家は和気あいあいとした一群となり、敵を恐れその勢に気後れした者は時代を変え世界を呑むという気概を現しました。盛なりと言うべきです。 私たちにもまたこの大任があり、この気概が必要です。必ず約束の賚を受けるでしょう。これを受ける道は主の誡を守るにあります。絶対の服従をするにあります。私意を去って神意に従うことです。これは屈従するのではなくて、自由による合意です。徳に感化されるのです。生命に合一するのです。衝突はここに休まり、平和がここに訪れ、自由も又ここに存ります。ジョージ・ムーラ氏は幸福の秘訣の理由を2つ挙げて言いました。「日々神恩によって善い意識を保つ事と、聖書を愛読する事です。」と。アンドルー・マレー氏も又言いました「絶対服従の生活には両面があります。一方に於いて神が貴方に要求する所を実行して悉く服従し、他方に於いては神が次に貴方になさろうとする所に全く服従するということです。」と。約束の賚を盛る器は全き服従です。誡を守って兄弟を愛することです。謙遜なる懺悔です。誠実なる相愛です。 (「本多庸一先生説教集」75―81頁) 2 原文文字起し ペンテコステの日に至りて、弟子等みな心を合せて一処に在りしに、俄かに天より 迅風の如き響ありて、彼等が座する処の室に充てり。焔の如きもの現れ、岐れて彼等各人の上に止まる。是に於て彼等はみな聖霊に満たされ、其聖霊の言わしむるに従いて異なる諸国の方言を言い始めたり。(使徒行伝二章一-四節) 此驚く可き事件は、実に千九百年の昔における今日起りしなり。我等今日之を紀念するに当り、亦此聖霊の賜のを受くるに足る心を以てせざる可からざるなり。 然らば如何にして此聖霊の賜を受く可き。主キリスト自ら教えて曰く、「若しなんじら我を愛するならば我誡を守れ、われ父に求めん。父かならず別に慰むる者を爾曹に賜いて、窮なく爾曹と偕に在しむべし」(約翰伝十四章十五、十六節)と。即ち主の誡を守るものに、此約束を与え給うを謂うなり。而して其主の誡とは何ぞ、主又答えて曰く、「我れ爾曹を愛する如く爾曹も亦たがいに愛すべし。是我が誡なり」(約翰伝十五章十二節)と。之によりて之を見れば、主の誡を守るとは相愛し相和するの徳を指すこと明かなり。 進んで其約束を受けし状況を、此本文につきて研究せん乎。 先ず注意を惹くは、弟子等の「心を合せて一処に在りし」ことなりとす。心を合せ思を同うして相一致し、而かも一団となり一処に在りて、情 濃かに愛篤きもの、此に極まれりとも謂う可し。主の所謂「たがいに愛する」ものに非ずして何ぞ。次に俄に迅風の如き響起れりと謂う。漸次にあらずして「俄に」なり。迅風にあらずして「迅風の如き響」なりき。烈風堂外に吹くにあらずして、天来の響室内に充てるなり。前後左右より彼等を囲みしなり。「焔の如きもの現れ、岐れて各人の上に止まれり」とあり、焔にあらず「焔の如きもの」現れしなり。一面に室内に拡がりしにあらず、各人の上に個別的に止まりし也。換言すれば社会的に広く来れるにあらず、個人的に熱く止まりし也。これ大に考う可きにあらずや。 猶太の三大節中、其最も重大なる二者は、新約の二大事蹟によって、形を改め力を加えて今日に伝わる。一は猶太の踰 越 節にして、今日の復活祭なり。他はモーセの十誡を受けたるペンテコステにして、今日の聖霊降臨の紀念日是れなり。旧約の祝日と新約の紀念と相合し、更に進歩して今日に至れるなり。主の「われ律法と預言者を廃る為に来れりと意う勿れ、われ来りて之を廃つるに非ず成就せん為なり」(馬太伝五章十七節)と謂える、此辺の消息をも洩らすものに非ずや。 此より十日以前なりき。キリストは其弟子等に世界伝道の大命を下し、聖霊降臨の約束を残して昇天し給えり。主十字架に死せしより智識なく経験なき弟子等は、只失望に沈みたりしに、其復活に会い其昇天を見ては、聊か力づき末頼しき心地したりしなるべく、かくて万民に福音を宣伝するの大任を思いては、互に相誡め相励まし、期せずして集会を為すに至りしならん。外は敵の勢力を見て臆し、内は自らを省みて愧じ、且事業の大なるを思いては、憂愁限りなきものありしならん。只頼む所は約束の霊の降臨のみ。日々相集まりては主の道徳と聖愛を語り、交情 愈切にして、真に主を愛し互いに愛すべしとの条件につき、未だ曾て有らざる経験を得しなるべし。準備怠りなければ、未だ求むる元気出で来らず。恰も鉄道の上列車打ち並びて、其原動力たる汽罐車のあらざる如く、月世界をも射つべき大砲に装薬ととのいて、点火すべき火のなきが如し。かくて一日と過ぎ二日と去りて週となり旬となりて未だ真の約束遂げられず。待望の心愈切なれば、 益顧らるるは其の誡を守れとの条教件なるべく、悔改の念切りに動きて、税吏マタイは軽蔑せられたり、邪推して何人かを恨みたりと謝せしもありし乎。トマスはペテロの無学を心に嘲たりと告白せしなるべき乎。ペテロは些少の動機に不覚を取りしを懺悔し、ヤコブ、ヨハネは諸兄弟を外にして高位を望みし傲慢を辞し謝す。百二十人の男女、一心同体となりて各其足らざるを顧みたるなる可し。かくて又安息日は過ぎぬ、新らしき主の日来たりぬ、今日こそはと、熱心、厳粛、愛に充ち信に輝きて集会は熱し来り、数人の祈禱は軌を一にして、天父と主キリストと約束せられたる慰めの聖霊とに捧げられたり。而かも如何なる応験来るやは、蓋し予想し能わざりし所なり。 忽ちにして天より迅風の如き響来りて室に充てり。各人の上焔の如き光止まりし也。会衆は皆平伏せしならん。やがて甲は首を上げて、乙の頭上に光を見、丙は丁の上に認めて、終に皆等しく其徴を受けて、同じく恩寵に浴せしを知れり。而して衷心には信仰振い、愛情動き、義憤勃然として発し、新気力鬱然として充ちたるを感じたるなり。 儀文儀式の中に教育せられたる猶太人には、風と火は有効なりき。其の名誉利欲に拘泥する人には、風と火は必要なるなり。方言の能も又是れ形象的異象にして、其休徴の蔭を察すれば、地方的宗派的人種的の偏見破れて、博く宇内万民を愛して伝道せんとの精神起れるを表し、播種醗酵の譬喩に苦みしもの、大に天父の聖旨を体し人心の奥底を穿ちて、万人を悔改せしむるを意味す。分争嫉妬の室は、和気靄然たる一群となり、敵に恐れ勢に臆せるもの、一世を傾け天下を呑むの概を現せり、盛なりと謂う可し。 我等も亦此大任あり、此気概を要す、宜しく約束の賚を受くべし。之れを受くる道は主の誡を守るにあり、絶対の服従をなすにあり、私意を去て神意に従うなり。屈従にあらずして、自由の合意なり、徳に感化せらるるなり、生命に合一するなり。衝突此に休し、平和此に至り、自由も亦此に存す。ジョージ・ムーラ氏、幸福の秘訣の二理由を挙げて曰く、日々神恩によりて善き意識を保つ事と、聖書を愛読する事なりと。アンドルー・マレー氏も又曰わく、絶対服従の生活に両面あり、一方に於て神の汝に要求する所を実行して悉く服従し、他方に於ては神の次に為し給わんとする所に全く服従するにありと。約束の賚を盛る器は全き服従なり、誡を守て兄弟を愛することなり、謙遜なる懺悔なり、誠実なる相愛なり。 (「本多庸一先生説教集」七五-八一頁) 3 解説 原文で引用した聖書の箇所の訳には共同訳を使用しました。 |