軍人必読 養 勇 論 (注;本資料は青山学院資料センター所蔵です。原本をご覧になりたい方は青山学院までお問合せください。) 目 次 1.
現代語訳 2.
文字起こし 3.
原本コピー 4.
解説 (注;以下は原文文面を、現代人が読み易いように、原文の雰囲気を保ちつつ、句読点の挿入、新仮名遣いや新字体への改変を適宜行っています。) 軍人必読 養 勇 論 昔の聖人が言った言葉に「智仁勇、この三つのものは人が世の中で備えておくべき徳だ。」というのがあります。物事の筋目、善悪、損得などを明らかにするのが智勇、それに自分を上手にコントロールして他の人を思い遣って自分を上手く制御し他人の心の痛みを憐れむのが仁といい、共に人の美徳であって、世界が廣いといってもこれを貴ばない所が無いはずはありません。しかし、3番目の徳の勇とはいっても、戦場で勇んで前に進み、困難を乗り越えて敵を破り、又上手に後ろに退いて敵の攻撃から自軍をうまく守る強い徳を具えなければ、どんな事でも成就することはできないでしょう。特に、戦場に臨んで命を賭けて勝敗を決する軍人においては、この勇気ほど大切なものはありません。平壌は天険の城です。旅順は世界に稀に見る要塞だが、勇がなければ守ることはできません。これらは皆実に新しい例であって説明を要しないことです。従って、世間で有益な生涯を送り、親に対して善き子となり、国家に対して善き民となり、親になって、人として生まれて良かったと思える人生を送りたいと願う者は、皆この勇気を養って頂きたい。特に、一国を守る城となり、上に一天萬乗の君主を奉り、その下に数千萬の同胞を守るという重い責任と大いなる名誉を擔う軍人は、一日も勇気を養成することを忘れてはなりません。 謹んで明治十五年一月四日の勅諭を拝読すると、「軍人は忠節を盡すを本分とすべし、礼儀を正しくすべし、武勇を尊ぶべし、信義を重ずべし、質素を旨とすべし、と五ケ條の聖訓をくださったのです。また、この五ケ條は軍人の精神でもあって一つの誠心、また五ケ條の精神だとも訓へてくださったのです。この様な高尚善美な訓戒を実行するのは軍人の務であるからには、この誠心を得て自分のものとし、この五ケ條を実行しようとするために、非常に強大な力即ち勇気が必要なのです。王守仁は文武を兼ね備えた名将だったが誠心を保つのが難しいことを嘆いて言われるには「山中の族は平げ易いが唯心中の族は平げ難い」と。大八洲日本の男児であれば誰が完全な軍人になることを願わない者があろうか。そうであっても往々にして此聖訓を全うするのが困難だと悩むことがあります。これは実に山中にいる百萬の族は懼れないけれども心中にいる小賊、即ち人が嗜欲に勝つ勇気に乏しいことは誠に口惜いことではないか。そうであれば先づ大勇気を振って自分の心中にいる小賊を平げることは、何よりも先にすべき戦争なのです。そうは言ってもこの大勇、生まれながら自分に具わったものではないので、今からこれを特に養成すべきでないものではないことは必然です。 さて、この養勇の事について先ず第一に考えるべきは勇に眞勇と假勇とがあることであって、またこれを君子の勇、匹夫の勇とも言うのです。この二つの勇が異なる様子を簡単に述べるとそれは大体以下の通りになるでしょう。 眞勇は人の心中にある道理と感情とが共に手を携えている様なもので、ましてどんな時にあってもその必要に応じて動き、また何事も耐え忍んで相当の処置をなすべき力を備へて居るものです。これに反して假勇は全く血気または感情だけで動くものなので、或る時には甚だ強く、他の時には見ぐるしいまでに拙い事態に陥るのだと思います。また、何をしても素直になされず、闘争して強い様なのだが共欲に克ち正道を行う事に弱いと云ふ有様なのです。古い歌に 底ゐなき淵ややさわぐ山川の 浅き瀬にこそあた浪いたて これは色々の事がまとって善い訓えをなす歌なのですが、眞勇と假勇の譬えとして、特に適していると言うべきです。眞の君子の勇は底深い淵のように沈みかえっているが、色は碧で渦は大きく、ゆったりとしていて晝夜の差がなく、幾万石の水を動す様子は誠に壮なりと言うべきです。假勇、つまり匹夫の勇は浅瀬の漣のようです。白波が逆立ってざわざわ音がするが、どうだろうか。水が浅いので底が明かに見え、旱魃の心配さえあることがある様なものです。世間にいる、怒に乗せられて狂暴を働き、酒に酔って乱心の振舞をする様な者は決して眞の勇ある者ではありません。まるでも夕立で浅瀬が濁るようなものでしょう。まして、自分の平常心を失い條理を失った様子は、一種の臆病とも云うべきものではありませんか。 元亀天正の戦国時代に、下野佐野の城主に天徳寺という名の大将がいました。。或夜、暇だったので琵琶法師を呼んで平家物語を謡わせたのでした。天徳寺がおっしゃるには、特に感動的な處を謡って欲しいとのことなので、法師は畏って、先ず佐々木の四郎高綱が宇治川の先陣を遂げた一段を精神を凝らして謡ったのでした。並んで居た近習小姓の若武者共が拳を固め小腕をさすって、まさに踊ろうとする様に勇み励んで聴いていましたが、天徳寺大将は獨り顔を俯いて涙が雨のように流れ襟も潤う程でした。一曲が終って漸く顔色を改め、もう一曲、と求めたところ、今度は那須與市が矢島壇の浦で源平両軍晴の場中に扇の的を射る段であったので若武者共、前よりも一層興に入って喜んで聴いて居ましたが、御大将は亦もや前にも増してとても感動し、流れる涙を止めることもできず、遂にはいよよと身を曲げて涙に沈み、一曲を終るまで其座に耐えたことでした。その日も過ぎて四方山の話の序に前夜の平曲の話となったところ、大将は近習の者に向って彼の平曲をどの様に聴いたのかと問いたところ、若者共も待設けていた様に、「それについては」と言い出し、その場にいたどの者も誠に面白く勇ましく語ったことでした。しかし、この様子は受け入れられないと大将が言われるのに対して、「御前は始終愁然として涙まで流されたではございませぬか」と言うか言わぬかの瞬間、天徳寺は気色を変え、なんと各々頼母しくない人々であることよ。武夫の物の哀れを知らぬ者ほど情けないものはない。四郎高綱は頼朝公の実弟であり、一方の大将である範頼にも賜わらず又寵臣梶原源太にも賜らない名馬を賜わったので、高綱は生きているとお聞きになったならば先陣は必ず高綱であるとお思いください、と暇乞して宇治川に向かった。是れ必死の覚悟である。萬一他人より先を懸けられたならば漲る荒瀬の眞中で腹掻きって死ぬ覚悟であること疑いがない。誰か之を思って哀れを感じない者があろうか。一方那須与一は、敵味方敷萬の軍勢が海陸に陣を布き、其中に数多源氏の勇士より侹でられて名誉の勤を命ぜられたのだ。もし射損じたら我が身の名折、一家の名折、兎も角も源平両軍士気の盛衰が立ちどころに相分かれ勝敗に影響するに違いないと心より神佛を念じ、射損じたならば再び馬の鼻を陸き向けず、腹掻き切って海底に沈もうとの決心。如何に哀れか、悲しくないことがあろうか。各々は唯血気にはやった男であって眞の武士ではないと思う。ああ、情けないことだ云々々と戒められたことでした。天徳寺のような者を眞の武士、君子の勇あるものと云うべきです。 眞正の勇気は心の淵の底深く安らかなる處にあるべきものなので、天地の間に懼るべきものが無いという覚悟と、如何なる方法によってでも自分が達成すべき幸福の望みを保とうとするのでなければ得難いものです。此事は金銀貨財を以て交換できるものではありません。他人を頼んで得るべきでもありません。勿論、自分勝手な考えで無分別に自分を騙すべきものでもありません。唯一つの方法があります。それは天地の大道に基いて人の心の淵と云うべき宗教の心、即ち人間以上の者、即ち神を慕う心を十分に成長させるところにあります。天地の間に人よりも魔鬼よりも猶強いもの、それは神明であって是以上に懼れるべきものはありません。眞正の勇気は懼れるものが無いという覚悟の上に生ずるものなので、其覚悟を得ようとする前に先ず人が正しく懼れるべき神明を認識しなくてはなりません。 嘗て某控訴院の判官某氏に聴いたことがあります。明治十二三年の頃故新島襄博士が京大阪の間を奔走して頻りに眞の神の道を傳えた事があったが、そんなころ大阪に於いて文武官吏の懇親会の様な集会があり、そこには鎮台の将校等も多数そこに参加し、司法部の各判官達も同じく之に参加したが、色々懇談の中で一人の客が頻に新島氏の熱心な運動を嘲り評したので、一座皆これに和して大に興に乗じ笑う声が部屋の梁塵が動きかねない程でした。にもかかわらず、ずっと上座に居て黙っていた某将軍は最前より其座興に同調しない様子でしたが、一座がどよめいたので少し気色を損じ、少し聲の調子を高くしておっしゃったのは、皆々、御素人の様に見えます。神仏宗教の話もそこまで侮るべきでは無いでしょう。両陣相対して勝敗の機が彌切迫し、眼を四方に心を八方に配って、敵味方沈まり返て呼吸を伺う時に臨んだ時は、思わず知らず神を頼むより外ないものであって、この様な死生の勝敗の場に立った経験のある者は、神仏の話は決して戯れにすべきものではありません云々と。一座、皆その誠実さに従った様に誰も言葉を返す者がなかったことでした。この事は現実にあった事であって、争い得ない人の心の証拠です。身体には飲食を欠かせないという性質がある様に、人の心には人より貴く、人より強く、人より賢いものを求めるのは天性です。西洋の大學者の言う所にも、世界は廣いものであって色々な國があり人民があります。或いは実に野蛮未開にして役所なく学校なく芝居見世物等更々ない處があっても人々が帰依する神仏を拝する場處がないものは未だ嘗てないのです。是も亦強い証拠となるものであって、人間は到底神を忘れてしまうことはできないものなのです。ですから今懼れに勝つべき勇気を養うに当って、先ず天性に付て居る神を懼れる心から養うこと、そして即ち神を認めることがその第一歩なのです。是に続いて大切なのは 神を選ぶことなのです。 神を尋ねるのは人の天性ですが、何でもかんでも拝むべきものではありません。天性の発達進歩に適するものでなければ眞に拝すべき神とするには足りません。或る人は、神は天地神明の道理(自然現象)であるとおっしゃっていますが、是は人情に適合しません。人は花を見ても月を見ても皆ご自分と同じ様に心あるものとして見るものだからです。薩摩守平忠度が櫻花の下に露営をした時に、 行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵のあるじなるらん と詠じ、花に対しても自分を想る情あるもののように思って心を慰めたのです。この様なのは眞の人情なので、神は神明の道理(訳者注;自然現象)であると言うばかりでは、決して人を満足させることはできません。ですから、どの様にしても情ふかく想り多い心を有った神を選ぶこと、それが自然に適うことなのです。また、人は今生きて神を尋ねるものですから、古への神によって今の人の必要を充すことはできないのです。又た、人には善悪邪正を分つ心が厳然としてありますので、世の迷ひの種となる残忍な神や悪人の祈りをも聞き上げる様な不正の神の様なものは皆未開人の心から成立したものであって、決して人の天性を研ぎ上げて勇気を養い忠君愛国の務めを全うさせるようなものではありません。従って、人が拝めるべき神は昔も今も将来も変りなく存在して、知恵も能力も具えるだけでなく、同情慈愛の心に富み、又善悪賞罰の疑念が優れた神でなければ、人が仕へ崇めるべきものではないのです。神の子イエス・キリストは天地萬物の主宰である大能大智大仁の神を人類の父であると教えてくださいました。是を一言で言い表すと、まさに、右の諸条件を完全に充たすものと言ってよいでしょう。従って、神は霊なので祭る者も霊と眞とを以てすべしと教えてくださいました。霊に仕えるに霊を以てするのですから敢て堂宮を造くるには及びません。時と所を限る必要もありません。必要と思った所で心の奥底から湧き出る真心をもって之に仕えるべきなのです。 神に帰ること 既に神を認め、又完全な神を選びました。最早皆は大勇の士です。ですが、火水を懼れない者となったか、と問えば、未だに容易に、そうだ、とは答へ難いでしょう。ではどうしたら良いかというと、自分が選んだ神は全能にして自分が抵抗できるものではなく、全能であって自分の心の秘密をも隠すことができず、仁愛に富んでいらっしゃるが、正義に強くておられるので、自分が犯した諸々の罪悪を甚だ憎まれます。自分の曲った汚れたままの心情を決して喜ばれることはありません。であれば仰ぎ観れば仰ぐほど懼るべき神であって、これは自分と神とが表裏相合わないのに似ています。これは実に危懼恐縮慙愧憂悶の基です。この様な身体のままでどうして死生の間に従容たる勇気を生み出せるでしょうか。ここが甚だ惑う所なのです。しかし乍ら、待て暫しわが心、月なき夜が將さに暁けようとする時に一層暗くなるものなのです。これは明暁が近く徴なことを知れば敢て望を失ふべきではありません。古人は言わなかったでしょうか、人は究すれば本に帰ると。今は人類の大本である神に帰るべき時なのです。眞に既往の罪悪を悔い改め、兜を脱ぎ、剣を投げて帰順すべきなのです。自分の力はこれに敵してはなりません。自分の罪を自分が救うことができないことを知れば、真率なる武士の情を表し真面目に降参すべきです。天に対する不忠不義を償うことができないことを悟れば潔く体を神に差し出して處分を求めてください。是は士である者の本分です。既に真面目に神への恭順を表明しました。是に天光神恩が顕れる時に至りました。神の子なる救主の犠牲贖罪の恩恵をも學びなさい。この様にして今まで懼ろしい正義の神だったのが、今亦慈愛に富み同情に豊かな天父と見えるのです。以前自分を譴責した神の子並諸聖諸賢も今では皆我愛師愛兄と見えるのです。之を神に帰ると云うのです。不孝な子が久しく家を出でて浮浪の身となったのが今父の家に帰ったのです。こうして自分の心の奥底、即ち淵の深みの風も浪も達しない所に、天父の仁愛が根を置き、其正義が幹を保ち、死ぬも生るも天地の主なる神と共に在るのです。既に永生の門に入ることを確信するに至れば天下の何を恐れましょうか。心中の戦い心外の闘も其終局には皆勝利の天命に帰するだけなのです。泰然として之に當り、安然として之に対処するべきだけなのです。養勇の業は是に於いて全うしたといえるでしょう。この様な人は、戦陣においては忠勇の士、そして平時には文明の君子なのです。現世において名誉を冠とする国士であり、来世において圓満幸福の天國民であることを得るでしょう。養勇の必要性は亦大いにあるのです。 明治18年2月6日印刷 同 年同月11日発行 東京府下豐島郡渋谷村元青山 南町七丁目壱番地青山学院内 著作者兼発行者 本 多 庸 一 大坂西区土佐堀三丁目三十八番屋敷 印刷者 今 村 謙 吉 (注;以下は原本の文面を文字起こししたものです。変換不能の旧字は新字を採用しています。) 軍人必読 養 勇 論 古き聖人の言葉に、智仁勇三ッのもの、天下の達徳なりとあり。物事の筋目善悪損得等を審かにするの智勇、並能く己を推して人を恕り身をつめつて他人の痛みを憐むの仁といい共に人の美徳にして世界廣しといえども之を貴ばざる所あるべからず。然れども第三の勇と申して いさみ進みて難きを破り退いて、能く防ぎ守るの強き徳を具えざれば万事皆成就すること能わざるべし。殊に戦場に臨み命を賭けて勝敗を決する軍人の如き、此の勇気ほど大切なるものはあらざるべし。平壌は天険の城なり。旅順は世界稀有の要塞なれども勇なければ守ること能わざるなり。之皆実に新しき例にして説明を要せざることなり。左れば人にして世に有益なる生涯を送り善き子となり民となり親となりて人に生まれたる甲斐あらんことを願ふもの、皆この勇気を養わざるべからず。況や一國の干城となり上の一天萬乗の君を初め奉り下に数千萬の同胞を守るべき重き責任と大いなる名誉を擔ふ軍人よ、一日も勇気養成のことを忘るまじき事なり。 謹んで明治十五年一月四日の勅諭を拝読すれば、軍人は忠節を盡すを本分とすべし、礼儀を正しくすべし、武勇を尚ぶべし、信義を重ずべし、質素を旨とすべしと五ケ條の聖訓を垂れ賜へり。又此五ケ條は軍人の精神にして一の誠心、又五ケ條の精神なりとも訓へ賜へり。斯る高尚善美なる訓戒を実行するは軍人の務なりとせば、此誠心を得て己がものとなし、此五ケ條を実行せんがために、非常に強大なる力即ち勇気を要するなり。王守仁は文武兼備の名将なりしが誠心の保ち難きことを嘆きて申するに、山中の族は平げ易きも唯心中の族は平げ難しと。大八洲の男児たるもの誰か完全なる軍人たることを願わざるものあらんや。されども往々にして此聖訓を全ふしがたき憂ある。実に是山中百萬の族は懼れざれども心中の小賊即ち人の嗜欲に勝つの勇気に乏しきが故にして誠に口惜き次第にあらずや。左れば先づ大勇気を振ふて我心中の小賊を平ぐること、何よりも先にすべき戦争なり。去乍ら此大勇、天然我に具はれるものに非ずして。是より特に養わざるべからざるものなるぞ是非なき。 扨此の養勇の事に就て先ず第一に考ふべきは勇に眞勇と假勇とあることにて、又之を君子の勇、匹夫の勇とも申しをり。この二つの勇の異なる様を略言すれば大躰左の如くならん。 眞勇は其人の心中にある道理と感情と共に手を携えて居るが如く、まして何時にても其の必要に応じて動き又何事までも耐え忍びて相当の処置をなすべき力を備へて居るものなり。之に反して假勇は全く血気又は感情のみにて動くもの故に或る時には甚だ強く、他の時には見ぐるしき迄拙きに陥るの思ひあり。又何事にてもとい行かず闘争して強き様なれ共欲に克ち正道を行ふ事に弱しと云ふ有様なり古き歌に 底ゐなき淵ややさわぐ山川の 浅き瀬にこそあた浪いたて 是は色々の事まとりて善き訓えをなす歌なれども眞勇と假勇との譬えとして、別けて適合せりと云ふべし。眞の君子の勇は底深き淵のごとく沈みかへって居れども色碧に渦大きくして徐ろに晝夜の差別なく幾万石の水を動すこと誠に壮なりと云ふべし。假勇即ち匹夫の勇は浅瀬の漣のごとし。白波逆立ちて音ざわざわすれども如何せん。水浅ければ底の明かに見へ、屡旱魃の患さへあるがごとし。世に怒に乗じて狂暴を働き酒に酔ふて乱心の振舞をなすもののごとき、決して眞の勇あるものにあらず。宛も驟雨にて浅瀬の濁れるがごときものなるべし。況や其の心の常を失い條理を失ひたる所、是れ一種の臆病とも云ふべきものなるをや。 元亀天正の戦国時代に當り下野佐野の城主に天徳寺と申す大将あり。或夜の徒然に琵琶法師を呼びて平家を謡いせけり。天徳寺申さるるに極めてあはれなる處を語られよとありければ法師は畏りて、先ず佐々木の四郎高綱、宇治川の先陣を遂げたる一段を精神を凝らして語りけり。並み居たる近習小姓の若武者共の拳を固め小腕をさすりて踊らんばかりに勇み励みて聴居たるに天徳寺大将は獨り顔俯きて涙雨の如く襟も潤ふ計なりけり。一曲終りて漸くに顔色を改め今一曲と請いれければ、此度は那須與市が矢島壇の浦に源平両軍晴の場中に扇の的を射るの段なりければ若武者共、前よりも一層興に入りて喜ばしく聴居たりしに、御大将の亦前にも増していと哀れ気に落ち来る涙堰あへず終にいよよと涙沈み辛ふし、一曲を終るまで其座に耐へたりと。その日も過ぎて四方山の話の序に前夜の平曲の話となりければ、大将、近習の者に向ひ彼の平曲を何と聴きけりや、と問ひければ若者共も待設けたる如く、左ればとて候、面々共何れも誠に面白く勇ましく承りて候。然るにここに心得ぬとの御前に、始終愁然として御落涙にまで及ばれたる事にて候と云ふや否、天徳寺は気色を變へ、さても各々頼母しからぬ人々なるぞよ。武夫の物の哀れを知らぬものほどうたてきものにあらず。四郎高綱、頼朝公の実弟にして一方の大将たる範頼にも賜いらず又寵臣梶原源太にも賜らぬ名馬を賜わりければ、高綱生きてありと聞し召さば先陣は決定高綱なりと思召されよ、と暇乞して宇治川に向かひたり。是れ必死の覚悟なり。萬一他人より先を懸けられなば漲る荒瀬の眞中に腹掻きって死ん覚悟あること疑ひなし。誰か之を思ふて哀れを感ぜぬものやある。又那須与一、敵味方敷萬の軍勢海陸に陣を布き、其中に数多源氏の勇士より侹でられて名誉の勤を命ぜられたり。もし射損じなば我が身の名折、一家の名折、兎も角も源平両軍士気の盛衰立ちどころに相分かれ勝敗に関係すべしと心より神佛を念じ、射損じなば再び馬の鼻を陸き向けず腹掻き切って海底に沈まんとの決心、如何に哀れよ悲しからずや。各々唯血気のはやり男にして眞の武士にあらずと見ゆ。あなうたてや云々々と戒められしとぞ。天徳寺のごときの眞の武士君子の勇あるものと云ふべし。 眞正の勇気は心の淵の底深く安らかなる處にあるべきものなれば、天地の間に懼るべきものなき覚悟と、如何にしても我が達すべき幸福の望みを保つものにあらざれば得がたきものなり。此事は金銀貨財を以て易へ得べきものにあらず。他人を頼みて得るべきにもあらず。勿論一己の私心をもって猥に自ら欺くべきものにもあらず。唯一方あり。天地の大道に基きて人の心の淵と云ふべき宗教の心、即ち人間以上の者、即ち神を慕う心を十分に成長せしむるにあり。天地の間に人よりも魔鬼よりも猶ほ強きもの、神明にして是より懼るべきものにあらず。眞正の勇気の懼るべきものなき覚悟に生ずる者なれば、其覚悟を得ん前に先ず人の尤も懼るべき神明を識認せざるべからず。 嘗て某控訴院の判官某氏に聴きたることあり。明治十二三年の頃故新島襄博士が京大阪の間に奔走して頻りに眞の神の道を傳へたる事ありしが、折しも大阪に於ける文武官吏の中に懇親会様の集会ありしかば、鎮台の将校等も多数是に會し、司法部の各判官達も同じく之に會せしが、色々懇談の中で其の一客に頻に新島氏の熱心なる運動を嘲り評しければ、一座皆な之に和して大に興に乗じ笑う声の梁塵を動かさんばかりなりけり。然るに遥かの上座に黙然たる某将軍が最前より其座興に興らぬ體なりしが、一座のどよめきたるに少し気色を損じ些ちと聲の調子を高くして申されけるに、皆々、御素人と見え候。神仏宗教の話も差迄侮るべき事には無之候。両陣相対して勝敗の機彌切迫し眼を四方に心を八方に配りて敵味方沈まり返て呼吸を伺う時に臨みて、思わず知らず神を頼むより外なきもので斯かる死生の勝敗の場に立ちたる経験あるものは、神仏の話、決して戯れになすべきものに無之候云々と。一座、皆其誠実なるに服したるがごとく誰も言葉を返すものあらざりしと。右の事の実験上の事まで争ひがたき人の心の証拠なり。身体には飲食を欠きがたき性質あるがごとく人の心には人より貴く人より強く人より賢きものを求むるは亦天性なり。西洋の大學者の申す所にも世界は廣きものにて色々の國あり人民あり。或ひは実に野蛮未開にして役所なく学校なく芝居見世物等更々なき處あれども人々の帰依する神仏を拝する場處なきものの未だ嘗てあらず。是も亦強き証拠となるものにして人間は到底神を忘れ了ること能ざるものなり。故に今懼れに勝つべき勇気を養ふに、先ず天性に付て居る神を懼るる心よりして養いねばならぬ事、そして即ち神を認めることは第一歩なり。是に次て大切なるは神を撰ぶことなり。 神を尋ぬるは人の天性なれども、何でもかでも拝むべきものにはあらず。天性の発達進歩に適するものにあらざれば眞に拝すべきの神となすに足らず。或る人は天地神明の道理であると申し候得共是は人情に適合せず。人は花を見ても月を見ても皆我と同じ様に心あるものとして見るものなり。薩摩守平忠度の櫻花の下に露営をすれば 行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵のあるじなるらん と詠じ、花にも我を想るの情あるもののごとく思ひて心を慰むるなり。如斯は眞の人情なれば、神明の道理であると申す計で、決して人を満足せしむること能ざるなり。故にどふしても情ふかく想り多き心を有てる神を選ぶこと、自然に適ふことなるべし。又た人の今生きて神を尋ぬるもの故、古への神もて今の人の必要を充すこと能はざるなり。又た、人には善悪邪正を分つの心厳然としてあることなれば、世の迷ひの種となり居る残忍なる神や悪人の祈りをも聞くべき不正の神のごときは皆未開人の心よりなれるものにて、決して人の天性を研ぎ上げて勇気を養い忠君愛国の務めを全ふせしむべきものにはあらず。左れば、人の為に拝まるべき神は昔も今も将来も変りなく存在して、知恵も能力も具ふれるのみならず同情慈愛の心に富み又善悪賞罰の疑念に豊かなる神にあらざれば、人の仕へ崇むべきものにあらざるなり。神の子イエス、キリストは天地萬物の主宰たる大能大智大仁の神を人類の父として教へ玉へり。是実に一言にして右の諸条件を悉せるものと云ふべし。而して神は霊なれば祭るものも霊と眞とを以てすべしと教え玉へり。霊に仕ふるに霊を以てすることなれば敢て堂宮を造くるには及ばず。時と所を限るにも及ばず。要する所心の奥底より湧き出る真心をもって之に仕ふべき事なりとす。 神に帰へること 既に神を認め又完全なる神を選みたり。最早皆大勇の士。火水を懼れぬ者となれるやと問へば、未だに容易く然りと答へ難し故、如何となれ。我選みたる神の全能にして我の抵抗し得べきものにあらず。全能にして我が心の秘密をも隠すことあたわず。仁愛に富み玉へども正義に強くましませば、我が犯せる諸々の罪悪をば甚だ憎み玉ふ。我が曲れる汚れたるままの心情をば決して喜び玉ふ所にあらず。左すれば仰ぎ観れば仰ぐほど懼るべき神にして、我と神と表裏相合わざるに似たり。之れ實に危懼恐縮慙愧憂悶の基なり。懸る身体にしていかで死生の間に従容たるの勇気を生ずべけんや。甚だ惑ふ所なりとす。去り乍ら、待て暫しわが心、月なき夜の將さに暁けんとする時に一層暗くなるものなり。これ明暁の近く徴なりと知れば敢て望を失ふべきにあらず。古人言わずや、人究すれば本に帰へると。今は即ち人類の大本たる神に帰るべき時なり。眞に既往の罪悪を悔ひ改め兜を脱ぎ剣を投げて帰順すべきなり。己の力これに敵すべからず。己の罪、自ら救ふべからざるを知らば真率なる武士の情を表し真面目に降参すべし。天に対せる不忠不義の償ふべからざるを悟らば潔く身を侹で處分を乞ふべし。是亦士たるものの本分たるべし。既に真面目に恭順を表せり。是に天光神恩の顕るるの時至れり。神の子なる救主の犠牲贖罪の恩恵をも學ぶべし。斯くて今まで懼ろしき正義の神、今亦慈愛に富み同情に豊かなる天父と見ふるなり。先きに我を譴責せる神の子並諸聖諸賢も今皆我愛師愛兄と見ふるなれ。之を神に帰るとは云ふなり。不孝なる子が久しく家を出でて浮浪の身となりしが今父の家に帰れるなり。斯くて我が心の奥底即ち淵の深みの風も浪も達せぬ所に、天父の仁愛が根を置き、其正義が幹を保ち、死するも生るも天地の主なる神と共に在り。既に永生の門に入ることを確信するに至れば天下又何をか恐れんや。心中の戦い心外の闘其終局に皆勝利の天命に帰するのみ。泰然として之に當り安然として之に處すべきのみ。養勇の業是に於いて全しと云ふべし。斯る人、戦陣に忠勇の士そして平時には文明の君子なり。現世にて名誉を冠とする国士にして来世にて圓満幸福の天國民たることを得べし。養勇の要亦大なるかな。 明治廿八年二月六日印刷 仝 年仝月十一日発行 東京府下豐島郡渋谷村元青山 南町七丁目壱番地青山学院内 著作者兼発行者 本 多 庸 一 大坂西区土佐堀三丁目三十八番屋敷 印刷者 今 村 謙 吉
この「軍人必携 養勇論」は表紙込みで20ページの、シャツの胸ポケットにすっぽり入る小冊子で、発行者はこれを軍服を着た若い兵士に一部ずつ配り、それが彼らの胸ポケットに収められ、彼らが時折取り出し折に触れて読むことを期待したことが想像できます。構成も含めマーケティング媒体として、パンフレットとして優れています。 これは明治18年に発行されました。この年庸一は37歳、東京の築地美以教会で長老の按手礼を受けた翌年であり仙台メソジスト教会牧師に赴任する前年です。同年12月には太政官制が廃止になり内閣制度が発足しました。若い庸一の気概が感じられます。 戦後大きく変質した日本のプロテスタント信仰を思う時、明治期の信仰者が遺した文章を省みる価値はあるでしょう。 参考;「青山学院資料センターだより2017.7」
の「文部省訓令第十二号に対する本多庸一抗議文」について
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