軍人必読   養 勇 論

(注;本資料は青山学院資料センター所蔵です。原本をご覧になりたい方は青山学院までお問合せください。)

 

目 次

1.     現代語訳

2.     文字起こし

3.     原本コピー

4.     解説

 

 

1.    現代語訳

(注;以下は原文文面を、現代人が読み易いように、原文の雰囲気を保ちつつ、句読点の挿入、新仮名遣いや新字体への改変を適宜行っています。)

 

軍人必読  (よう) (ゆう) (ろん)

 

昔の聖人が言った言葉に「()(じん)(ゆう)、この三つのものは人が世の中で備えておくべき徳だ。」というのがあります。物事の筋目(すじめ)善悪(ぜんあく)損得(そんとく)などを明らかにするのが智勇、それに自分を上手にコントロールして他の人を思い遣って自分を上手く制御し他人の心の痛みを憐れむのが仁といい、共に人の美徳(びとく)であって、世界が(ひろ)いといってもこれを(とうと)ばない所が無いはずはありません。しかし、3番目の徳の勇とはいっても、戦場で勇んで前に進み、困難を乗り越えて敵を破り、又上手に後ろに退(しりぞ)いて敵の攻撃から自軍をうまく守る強い徳を(そな)なければ、どんな事でも成就(じょうじゅ)することはできないでしょう。特に、戦場に(のぞ)んで命を賭けて勝敗を決する軍人においては、この勇気ほど大切なものはありません。平壌(へいじょう)天険(てんけん)の城です。旅順は世界に稀に見る要塞(ようさい)だが、(ゆう)がなければ守ることはできません。これらは(みな)実に新しい例であって説明を要しないことです。従って、世間で有益な生涯を送り、親に対して善き子となり、国家に対して善き民となり、親になって、人として生まれて良かったと思える人生を送りたいと願う者は、皆この勇気を(やしな)って頂きたい。特に、一国を守る城となり、上に一天萬乗(いってんばんじょう)君主を(たてまつ)、その(しも)に数千萬の同胞を守るという重い責任と大いなる名誉を(にな)う軍人は、一日も勇気(ゆうき)養成(ようせい)することを忘れてはなりません。

 

(つつし)んで明治十五年一月四日の勅諭(ちょくゆ)拝読(はいどく)ると、「軍人は忠節を(つく)すを本分とすべし、礼儀を正しくすべし、武勇(ぶゆう)尊ぶべし、信義(しんぎ)(おもん)ずべし、質素(しっそ)(むね)とすべし、と五ケ條の(せい)(くん)くださったのです。また、この五ケ條は軍人の精神でもあって一つの誠心、また五ケ條の精神だとも(おし)てくださったのです。この様な高尚(こうしょう)善美(ぜんび)訓戒(くんかい)を実行するのは軍人の(つとめ)であるからには、この誠心(せいしん)を得て自分のものとし、この五ケ條を実行しようとするために、非常に強大な力(すなわ)ち勇気が必要なのです。(おう)(しゅ)(じん)文武(ぶんぶ)を兼ね備えた名将だったが誠心(せいしん)を保つのが難しいことを(なげ)いて言われるには「山中の族は(たいら)(やす)いが(ただ)心中(しんちゅう)の族は(たいら)(かた)い」と。大八(おおや)(しま)日本の男児であれば(たれ)が完全な軍人になることを願わない者があろうか。そうであっても往々にして(この)(せい)(くん)全うするのが困難だと悩むことがあります。これは実に山中にいる百萬(ひゃくまん)の族は(おそ)ないけれども心中にいる小賊(しょうぞく)(すなわ)ち人()(よく)に勝つ勇気に(とぼ)いことは誠に(くち)(おし)いことではないか。そうであれば()大勇気(だいゆうき)(ふる)って自分の心中にいる小賊を(たひら)げることは、何よりも先にすべき戦争なのです。そうは言ってもこの大勇(たいゆう)生まれながら自分に具わったものではないので、今からこれを特に養成すべきでないものではないことは必然です。

 

さて、この(よう)(ゆう)の事について()ず第一に(かんが)えるべきは勇に(しん)(ゆう)()(ゆう)があることであって、またこれを君子の勇、匹夫(ひっぷ)の勇とも言うのです。この二つの勇が異なる様子を簡単に述べるとそれは大体以下の通りになるでしょう。

 

(しん)(ゆう)は人の心中にある道理と感情とが共に手を(たずさ)えている様なもので、ましてどんな時にあってもその必要に応じて動き、また何事(なにごと)()(しの)んで相当の処置をなすべき力を(そな)へて()るものです。これに反して()(ゆう)は全く血気(けっき)または感情だけで動くものなので、或る時には(はなは)だ強く、他の時には見ぐるしいまでに(つたな)い事態に(おちい)るのだと思います。また、何をしても素直になされず、闘争(とうそう)して強い様なのだが(ども)(よく)()正道(せいどう)を行う事に弱いと()有様(ありさま)なのです。古い歌に

 

(そこ)ゐなき(ふち)ややさわぐ山川の

浅き瀬にこそあた(なみ)いたて

 

これは色々(いろいろ)の事がまとって()(おし)えをなす歌なのですが、(しん)(ゆう)()(ゆう)(たと)えとして、特に適していると言うべきです。(まこと)君子(くんし)の勇は底深い(ふち)のように(しず)みかえっているが、色は(みどり)(うず)(おお)きく、ゆったりとしていて(ちゅう)()の差がなく、(いく)万石(まんごく)の水を動す様子は誠に(そう)なりと言うべきです。()(ゆう)、つまり匹夫(ひっぷ)の勇は浅瀬の(さざなみ)ようです。白波が逆立(さかだ)ってざわざわ音がするが、どうだろうか。水が(あさ)いので底が(あきら)かに見え、旱魃(かんばつ)心配さえあることがある様なものです。世間にいる、(いかり)に乗せられて狂暴(きょうぼう)を働き、酒に()って乱心(らんしん)振舞(ふるまい)をする様な者は決して眞の勇ある者ではありません。まるでも夕立で浅瀬(あさせ)(にご)るようなものでしょう。まして、自分の平常心を失い(じょう)()(うしな)った様子は、一種の臆病(おくびょう)とも云うべきものではありませんか。

 

元亀天(げんきてん)(しょう)の戦国時代に下野(しもずけ)佐野(さの)の城主に(てん)徳寺(とくじ)という名の大将がいました。。(ある)夜、暇だったので琵琶法師を()んで平家物語を(うた)わせたのでした。天徳寺がおっしゃるには、特に感動的な(ところ)謡って欲しいとのことなので、法師は(かしこま)って、()佐々木(ささき)四郎(しろう)高綱(たかつな)宇治川(うじがわ)先陣(せんじん)()げた一段(いちだん)を精神を()らして謡ったのでした。(なら)んで()近習(きんじゅう)小姓(こしょう)(わか)武者(むしゃ)(ども)(こぶし)を固め小腕をさすって、まさに踊ろうとする様に(いさ)(はげ)んで()いていましたが、天徳寺大将は(ひと)り顔を(うつむ)いて(なみだ)(あめ)のように流れ(えり)(うるお)う程でした。一曲が終って(ようや)顔色(がんしょく)(あらた)め、もう一曲、と求めたところ、今度は那須(なすの)()(いち)矢島(やしま)(だん)(うら)で源平両軍(はれ)()(なか)に扇の(まと)を射る段であったので若武者共、前よりも一層(いっそう)(きょう)に入って(よろこ)んで(きき)いて()ましたが、御大将(おんたいしょう)(また)もや前にも増してとても感動し、流れる涙を止めることもできず、遂にはいよよと身を曲げて涙に沈み、一曲を終るまで其座(そのざ)()えたことでした。その日も過ぎて四方山(よもやも)の話の(ついで)に前夜の平曲の話となったところ、大将は近習(きんじゅう)の者に(むか)って()の平曲をどの様に聴いたのかと問いたところ、若者共も待設(まちもう)けていた様に、「それについては」と言い出し、その場にいたどの者も(まこと)面白(おもしろ)(いさ)ましく語ったことでした。しかし、この様子は受け入れられないと大将が言われるのに対して、「御前(ごぜん)始終(しじゅう)愁然(しゅうぜん)として涙まで流されたではございませぬか」と言うか言わぬかの瞬間、天徳寺は気色(けしき)を変え、なんと各々(おのおの)頼母(たのも)しくない人々であることよ。武夫(もののふ)の物の哀れを知らぬ者ほど情けないものはない。四郎高綱(たかつな)は頼朝公の実弟(じってい)であり、一方の大将である範頼(のりより)にも(たま)わらず又寵臣(ちょうしん)梶原源太(かじわらげんた)にも(たまわ)らない名馬を(たま)わったので、高綱(たかつな)()きているとお(きこ)きになったならば先陣(せんじん)は必ず高綱(たかつな)であるとお思いください、と暇乞(いとまごい)して宇治川に向かった。()れ必死の覚悟である。萬一(まんいち)他人(たにん)より先を()けられたならば(みなぎ)荒瀬(あらせ)(まん)(なか)(はら)()きって(しな)覚悟(かくご)であること(うたが)いがない。(たれ)(これ)(おも)って(あわ)れを感じない者があろうか。一方那須(なすの)与一(よいち)は、敵味方(いく)(まん)軍勢(ぐんぜい)海陸(かいりく)(じん)()き、其中(そのなか)数多(あまた)源氏の勇士より(ぬきん)でられて名誉の(つとめ)を命ぜられたのだ。もし()(そん)じたら我が身の名折(なおれ)、一家の名折(なおれ)()(かく)源平(げんぺい)両軍(りょうぐん)士気(しき)盛衰(せいすい)が立ちどころに(あい)()かれ勝敗に影響するに違いないと心より神佛(しんぶつ)を念じ、()(そん)じたならば再び馬の(はな)(くが)き向けず、腹()()って海底に沈もうとの決心。如何(いか)に哀れか、悲しくないことがあろうか。各々(おのおの)(ただ)血気(けっき)にはやった男であって(まこと)武士(ぶし)ではないと思う。ああ、情けないことだ云々々と戒められたことでした。天徳寺のような者を眞の武士、君子の(ゆう)あるものと云うべきです。

 

(しん)(せい)勇気(ゆうき)は心の(ふち)(そこ)(ふか)(やを)らかなる(ところ)にあるべきものなので、天地の間に(おそ)るべきものが無いという覚悟(かくご)と、如何(いか)なる方法によってでも自分が達成すべき幸福の望みを保とうとするのでなければ()(がた)いものです。此事(このこと)は金銀()(ざい)(もっ)交換できるものではありません。他人を(たの)んで得るべきでもありません。勿論(もちろん)、自分勝手な考えで無分別に自分を(だま)すべきものでもありません。(ただ)一つの方法があります。それは天地の大道(だいどう)(もとづ)いて人の心の(ふち)()うべき宗教(しゅうきょう)の心、即ち人間以上の者、即ち神を(した)う心を十分に成長させるところにあります。天地の間に人よりも()()よりも(なお)強いもの、それは神明(しんめい)であって(これ)以上に(おそ)れるべきものはありません。(しん)(せい)の勇気は(おそ)れるものが無いという覚悟の上に生ずるものなので、(その)覚悟を得ようとする前に先ず人が正しく(おそ)れるべき神明を認識しなくてはなりません。

 

(かつ)控訴院(こうそいん)判官(はんがん)某氏に聴いたことがあります。明治十二三年の(ころ)新島襄(にいじまじょう)博士が京大阪の間を奔走(ほんそう)して(しき)りに眞の神の道を(つた)えた事があったが、そんなころ大阪に於いて文武官吏の懇親会の様な集会があり、そこには鎮台(ちんだい)の将校()も多数そこに参加し、司法部の各判官達も同じく(これ)参加したが、色々懇談の中で一人の客が(しきり)に新島氏の熱心な運動を(あざけ)り評したので、一座皆これに和して(おおい)(きょう)(じょう)じ笑う声が部屋の梁塵(りょうじん)が動きかねない程でした。にもかかわらず、ずっと上座に居て黙っていた(ぼう)将軍は最前より(その)座興に同調しない様子でしたが、一座がどよめいたので少し気色を損じ、少し(こえ)の調子を高くしておっしゃったのは、皆々、御素人(おしろうと)の様に見えます。神仏宗教の話もそこまで侮る(あなどる)べきでは無いでしょう。両陣(りょうじん)相対(あいたい)して勝敗の()(いよいよ)切迫(せっぱく)(まな)四方(しほう)に心を八方(はっぽう)(くば)って、敵味方(しず)まり(かえつ)て呼吸を(うかが)う時に(のぞ)んだ時は、思わず知らず神を頼むより(ほか)いものであって、この様な死生の勝敗の場に立った経験のある者は、神仏の話は決して戯れにすべきものではありません云々(うんぬん)。一座、(みな)その誠実(せいじつ)さに従った様に(だれ)も言葉を返す者がなかったことでした。この(こと)は現実にあった事であって、(あらそ)い得ない人の心の証拠です。身体(しんたい)には飲食を()かせないという性質がある様に、人の心には人より(とうと)、人より強く、人より(かしこ)いものを求めるのは天性です。西洋の大學者(だいがくしゃ)の言う所にも、世界は(ひろ)いものであって色々な(くに)があり人民があります。(ある)いは実に野蛮未開にして役所なく学校なく芝居見世物(など)更々(さらさら)ない(ところ)があっても人々が帰依(きえ)する神仏を拝する場處(ばしょ)がないものは(いま)(かつ)てないのです。(これ)(また)強い証拠となるものであって、人間は到底(とうてい)神を忘れてしまうことはできないものなのです。ですから(いま)(おそ)れに勝つべき勇気を養うに当って、先ず天性に(つい)()る神を(おそ)れる心から(やしな)うこと、そして即ち神を認めることがその第一歩なのです。(これ)に続いて大切なのは

神を選ぶことなのです。

神を(たず)ねるのは人の天性ですが、何でもかんでも拝むべきものではありません。天性(てんせい)発達(はったつ)進歩(しんぽ)(てき)するものでなければ眞に拝すべき神とするには足りません。或る人は、神は天地神明の道理(自然現象)であるとおっしゃっていますが、(これ)は人情に適合しません。人は花を見ても月を見ても皆ご自分と同じ様に心あるものとして見るものだからです。薩摩(さつまの)(かみ)(たいらの)忠度(ただのり)(おう)()(もと)露営(ろえい)した時に、

行き暮れて()下蔭(したかげ)を宿とせば

花や今宵(こよい)のあるじなるらん

(えい)じ、花に対しても自分を(おもいや)(なさけ)あるもののように思って心を(なぐさ)めたのです。この様なのは(しん)の人情なので、神は神明(しんめい)の道理(訳者注;自然現象)であると言うばかりでは、決して人を満足させることはできません。ですから、どの様にしても(なさけ)ふかく(おもいや)り多い心を()った神を選ぶこと、それが自然に(かな)うことなのです。また、人は今生きて神を(たず)ねるものですから、(いにし)への神によって今の人の必要を(みた)すことはできないのです。()た、人には善悪邪正を(わか)つ心が厳然(げんぜん)としてありますので、世の迷ひの種となる残忍(ざんにん)な神や悪人の祈りをも聞き上げる様な不正の神の様なものは皆未開人の心から成立したものであって、決して人の天性を()ぎ上げて勇気を養い忠君(ちゅうくん)愛国(あいこく)(つと)めを(まった)うさせるようなものではありません。従って、人が(おが)めるべき神は昔も今も将来も変りなく存在して、知恵も能力も(そな)えるだけでなく、同情慈愛の心に富み、又善悪賞罰の疑念が優れた神でなければ、人が(つか)(あが)めるべきものではないのです。神の子イエス・キリストは天地萬物(ばんぶつ)主宰(しゅさい)である大能(だいのう)大智(たいち)大仁(だいじん)の神を人類の父であると教えてくださいました。(これ)を一言で言い表すと、まさに、右の諸条件を完全に充たすものと言ってよいでしょう。従って、神は霊なので祭る者も霊と(まこと)とを以てすべしと教えてくださいました。霊に仕えるに霊を以てするのですから(あえ)堂宮(どうみや)()くるには及びません。時と所を限る必要もありません。必要と思った(ところ)で心の奥底から湧き出る真心(まごころ)をもって(これ)(つか)えるべきなのです。

 

神に帰ること

(すで)に神を認め、(また)完全(かんぜん)な神を(えら)びました。最早(もはや)(みな)大勇(たいゆう)()です。ですが、火水を(おそ)れない者となったか、と問えば、(いま)だに容易に、そうだ、とは答へ(にく)いでしょう。ではどうしたら良いかというと、自分が(えら)んだ神は全能にして自分が抵抗できるものではなく、全能であって自分の心の秘密をも隠すことができず、仁愛に富んでいらっしゃるが、正義に強くておられるので、自分が犯した諸々(もろもろ)の罪悪を(はなは)(にく)まれます。自分の(まが)った(けが)れたままの心情(しんじょう)を決して喜ばれることはありません。であれば(あお)()れば(あお)ぐほど(おそ)るべき神であって、これは自分と神とが表裏(おもてうら)(あい)()わないのに()ています。これは実に危懼(きくきょう)恐縮(きょうしゅく)慙愧(ざんき)憂悶(ゆうもん)(もとい)です。この様な身体のままでどうして死生(しせい)の間に従容(しょうよう)たる勇気を生み出せるでしょうか。ここが(はなは)(まど)う所なのです。しかし(なが)ら、()(しば)しわが心、月なき夜()さに()けようとする時に一層暗くなるものなのです。これは明暁(みょうぎょう)(ちかず)(しるし)ことを知れば(あえ)(のぞみ)(うしな)ふべきではありません。古人は言わなかったでしょうか、人は(きゅう)すれば(もと)に帰ると。今は人類の大本(たいほん)である神に帰るべき時なのです。(まこと)既往(きおう)の罪悪を()い改め、(かぶと)を脱ぎ、剣を投げて帰順すべきなのです。自分の力はこれに(てき)してはなりません。自分の罪を自分が救うことができないことを知れば、真率(しんそつ)なる武士(もののふ)の情を(あらわ)真面目(しんめんもく)(こう)(さん)すべきです。天に対する不忠(ふちゅう)不義(ふぎ)(つぐな)うことができないことを(さと)れば(いさぎよ)体を神に差し出して(しょ)(ぶん)求めてください。(これ)は士である者の本分です。(すで)真面目(しんめんもく)神への恭順(きょうじゅん)表明しました。(ここ)天光(てんこう)(しん)(おん)(あらは)れる時に(いた)ました。神の子なる(すくい)(ぬし)犠牲(ぎせい)贖罪(しょくざい)恩恵(おんけい)をも(まな)びなさい。この様にして今まで(おそ)ろしい正義の神だったのが、今(また)慈愛(じあい)に富み同情に豊かな(てん)()と見えるのです。以前自分を譴責(けんせき)した神の子(ならび)諸聖(しょせい)諸賢(しょけん)も今では(みな)(わが)愛師(あいし)(あい)(けい)と見えるのです。(これ)を神に帰ると云うのです。不孝な子が(ひさ)しく家を()でて浮浪(ふろう)の身となったのが今父の家に帰ったのです。こうして自分の心の奥底(おくそこ)(すなわ)(ふち)の深みの風も(なみ)も達しない所に、(てん)()の仁愛が根を置き、(その)正義が(みき)を保ち、死ぬも(いき)るも天地の主なる神と共に()るのです。(すで)(えい)(せい)の門に入ることを確信するに至れば天下の何を恐れましょうか。心中の戦い心外の(たたかひ)(その)終局(しゅうきょく)(みな)勝利の天命に()するだけなのです。泰然(たいぜん)として(これ)(あた)安然(あんぜん)として(これ)対処するべきだけなのです。(よう)(ゆう)(ぎょう)(これ)()いて全うしたといえるでしょう。この様な人は、戦陣においては忠勇(ちゅうゆう)()、そして平時には文明の君子なのです。現世において名誉を(かんむり)とする国士(こくし)であり、来世において(えん)(まん)幸福の天國(てんこく)(みん)であることを得るでしょう。(よう)(ゆう)の必要性は(また)大いにあるのです。

 

明治18年2月6日印刷

同    年同月11日発行

東京府下豐島郡渋谷村元青山

南町七丁目壱番地青山学院内

著作者兼発行者  本 多 庸 一

 

大坂西区土佐堀三丁目三十八番屋敷

印刷者      今 村 謙 吉

 

 

2.    文字起こし

(注;以下は原本の文面を文字起こししたものです。変換不能の旧字は新字を採用しています。)

 

軍人必読  (よう) (ゆう) (ろん)

 

(ふる)き聖人の言葉に、()(じん)(ゆう)()ッのもの、天下の(たっ)(とく)なりとあり。物事の筋目(すじめ)善悪(ぜんあく)損得(そんとく)(とう)(つまびら)かにするの智勇、(ならび)()く己を()して人を(おもいや)り身をつめつて他人の痛みを(あわれ)むの(じん)とい(とも)に人の美徳(びとく)にして世界(ひろ)しといえども(これ)を貴ばざる所あるべからず。(しか)れども第三の勇と申して いさみ進みて(かた)きを破り退(しりぞ)いて、()(ふせ)ぎ守るの強き徳を(そな)えざれば万事(みな)成就(じょうじゅ)ること(あた)わざるべし。(こと)に戦場に(のぞ)み命を賭けて勝敗を決する軍人の如き、此の勇気ほど大切なるものはあらざるべし。平壌(へいじょう)天険(てんけん)の城なり。旅順は世界稀有(けう)要塞(ようさい)なれども(ゆう)なければ守ること(あた)わざるなり。(これ)(みな)実に新しき例にして説明を要せざることなり。()れば人にして世に有益なる生涯を送り善き子となり民となり親となりて人に生まれたる甲斐(かい)あらんことを(ねが)ふもの、皆この勇気を(やしな)わざるべからず。(いわん)一國(いつこく)(かん)(じょう)となり上の一天萬乗(いってんばんじょう)の君を(はじ)(たてまつ)(しも)に数千萬の同胞を守るべき重き責任と大いなる名誉を(にな)ふ軍人よ、一日も勇気(ゆうき)養成(ようせい)のことを忘るまじき事なり。

 

(つつし)んで明治十五年一月四日の勅諭(ちょくゆ)拝読(はいどく)すれば、軍人は忠節を(つく)すを本分とすべし、礼儀を正しくすべし、武勇(ぶゆう)(たふと)ぶべし、信義(しんぎ)(おもん)ずべし、質素(しっそ)(むね)とすべしと五ケ條の(せい)(くん)()(たま)へり。又(この)五ケ條は軍人の精神にして(いつ)の誠心、又五ケ條の精神なりとも(おし)(たま)へり。(かか)高尚(こうしょう)善美(ぜんび)なる訓戒(くんかい)を実行するは軍人の(つとめ)なりとせば(この)誠心(せいしん)を得て(おの)がものとなし、(この)五ケ條を実行せんがために、非常に強大なる力(すなわ)ち勇気を要するなり。(おう)(しゅ)(じん)文武(ぶんぶ)兼備(けんび)の名将なりしが誠心(せいしん)の保ち(がた)きことを(なげ)きて(もう)するに、山中の族は(たいら)(やす)きも(ただ)心中(しんちゅう)の族は(たいら)(かた)しと。大八(おおや)(しま)の男児たるもの(たれ)か完全なる軍人たることを願わざるものあらんや。されども往々にして(この)(せい)(くん)(まった)ふしがたき(うれひ)ある。実に(これ)山中百萬(ひゃくまん)の族は(おそ)れざれども心中の小賊(しょうぞく)(すなわ)ち人の()(よく)に勝つの勇気に(とぼ)しきが故にして誠に(くち)(おし)次第(しだい)にあらずや。()れば()大勇気(だいゆうき)(ふる)ふて(わが)心中の小賊を(たひら)ぐること、何よりも先にすべき戦争なり。去乍(さりなが)(この)大勇(たいゆう)、天然我に(そな)はれるものに(あら)ずして。(これ)より特に(やしな)わざるべからざるものなるぞ是非なき。

 

(さて)()(よう)(ゆう)の事に(つき)()ず第一に(かんが)ふべきは勇に(しん)(ゆう)()(ゆう)とあることにて、(また)(これ)を君子の勇、匹夫(ひっぷ)の勇とも申しをり。この二つの勇の異なる様を略言(りゃくげん)すれば大躰(たいてい)()の如くならん。

 

(しん)(ゆう)其人(そのひと)の心中にある道理と感情と共に手を(たずさ)えて()るが(ごと)く、まして何時(いつ)にても()の必要に応じて動き(また)何事(なにごと)までも()(しの)びて相当の処置をなすべき力を(そな)へて()るものなり。(これ)に反して()(ゆう)は全く血気(けっき)(また)は感情のみにて動くもの(ゆえ)に或る時には(はなは)だ強く、他の時には見ぐるしき(まで)(つたな)きに(おちい)るの思ひあり。(また)何事にてもとい()かず闘争(とうそう)して強き様なれ(ども)(よく)()正道(せいどう)を行ふ事に弱しと()有様(ありさま)なり古き歌に

 

(そこ)ゐなき(ふち)ややさわぐ山川の

浅き瀬にこそあた(なみ)いたて

 

是は色々(いろいろ)の事まとりて()(おし)えをなす歌なれども(しん)(ゆう)()(ゆう)との(たと)えとして、()けて適合(てきごう)せりと云ふべし。(まこと)君子(くんし)の勇は底深き(ふち)のごとく(しず)みかへって()れども色(みどり)(うず)(おお)きくして(おもむろ)ろに(ちゅう)()差別(しゃべつ)なく(いく)万石(まんごく)の水を動すこと誠に(そう)なりと云ふべし。()(ゆう)(すなわ)匹夫(ひっぷ)の勇は浅瀬の(さざなみ)のごとし。白波(しらなみ)逆立(さかだ)ちて音ざわざわすれども如何(いかん)せん。水(あさ)ければ底の(あきら)かに見へ、(しばしば)旱魃(かんばつ)(うれい)さへあるがごとし。世に(いかり)(じょう)じて狂暴(きょうぼう)を働き酒に()ふて乱心(らんしん)振舞(ふるまい)をなすもののごとき、決して眞の勇あるものにあらず。(あたか)驟雨(しゅうう)にて浅瀬(あさせ)(にご)れるがごときものなるべし。(いわん)()の心の常を失い(じょう)()(うしな)ひたる所、是れ一種の臆病(おくびょう)とも云ふべきものなるをや。

 

元亀天(げんきてん)(しょう)の戦国時代に(あた)下野(しもzuke)佐野(さの)の城主に(てん)徳寺(とくじ)と申す大将あり。(ある)夜の徒然(つれづれ)に琵琶法師を()びて平家を(うた)いせけり。天徳寺(もう)さるるに(きわ)めてあはれなる(ところ)を語られよとありければ法師は(かしこま)りて、()佐々木(ささき)四郎(しろう)高綱(たかつな)宇治川(うじがわ)先陣(せんじん)()げたる一段(いちだん)を精神を()らして語りけり。()()たる近習(きんじゅう)小姓(こしょう)(わか)武者(むしゃ)(ども)(こぶし)を固め小腕をさすりて踊らんばかりに(いさ)(はげ)みて(きき)()たるに天徳寺大将は(ひと)り顔(うつむ)きて(なみだ)(あめ)(ごと)(えり)(うるお)(ばかり)なりけり。一曲終りて(ようや)くに顔色(がんしょく)(あらた)め今一曲と()いれければ、此度(こたび)那須(なすの)()(いち)矢島(やしま)(だん)(うら)に源平両軍(はれ)()(なか)に扇の(まと)を射るの段なりければ若武者共、前よりも一層(いっそう)(きょう)に入りて(よろこ)ばしく(きき)()たりしに、御大将(おんたいしょう)(また)前にも増していと(あわ)()に落ち(きた)る涙(せき)あへず(おわり)にいよよと涙沈み(から)ふし、一曲を終るまで其座(そのざ)()へたりと。その日も過ぎて四方山(よもやも)の話の(ついで)に前夜の平曲の話となりければ、大将、近習(きんじゅう)の者に(むか)()の平曲を何と聴きけりや、と問ひければ若者共も待設(まちもう)けたる如く、()ればとて(そうろう)面々(めんめん)(ども)何れも(まこと)面白(おもしろ)(いさ)ましく(うけたまわ)りて(そうろう)(しか)るにここに心得ぬとの御前(ごぜん)に、始終(しじゅう)愁然(しゅうぜん)として御落涙(ごらくるい)にまで及ばれたる事にて(そうろう)と云ふや否、天徳寺は気色(けしき)()へ、さても各々(おのおの)頼母(たのも)しからぬ人々なるぞよ。武夫(もののふ)の物の哀れを知らぬものほどうたてきものにあらず。四郎高綱(たかつな)、頼朝公の実弟(じってい)にして一方の大将たる範頼(のりより)にも(たま)いらず又寵臣(ちょうしん)梶原源太(かじわらげんた)にも(たまわ)らぬ名馬を(たま)わりければ、高綱(たかつな)()きてありと(きこ)()さば先陣(せんじん)決定(けつじょう)高綱(たかつな)なりと思召(おぼしめ)されよ、と暇乞(いとまごい)して宇治川に向かひたり。()れ必死の覚悟なり。萬一(まんいち)他人(たにん)より先を()けられなば(みなぎ)荒瀬(あらせ)(まん)(なか)(はら)()きって(しな)覚悟(かくご)あること(うたが)ひなし。(たれ)(これ)(おも)ふて(あわ)れを感ぜぬものやある。(また)那須(なすの)与一(よいち)、敵味方(いく)(まん)軍勢(ぐんぜい)海陸(かいりく)(じん)()き、其中(そのなか)数多(あまた)源氏の勇士より(ぬきん)でられて名誉の(つとめ)を命ぜられたり。もし()(そん)じなば我が身の名折(なおれ)、一家の名折(なおれ)()(かく)源平(げんぺい)両軍(りょうぐん)士気(しき)盛衰(せいすい)立ちどころに(あい)()かれ勝敗に関係(かんけい)すべしと心より神佛(しんぶつ)を念じ、()(そん)じなば再び馬の(はな)(くが)き向けず腹()()って海底に沈まんとの決心、如何(いか)に哀れよ悲しからずや。各々(おのおの)(ただ)血気(けっき)のはやり()にして(まこと)武士(ぶし)にあらずと見ゆ。あなうたてや云々々と戒められしとぞ。天徳寺のごときの眞の武士君子の(ゆう)あるものと云ふべし。

 

(しん)(せい)勇気(ゆうき)は心の(ふち)(そこ)(ふか)(やを)らかなる(ところ)にあるべきものなれば、天地の間に(おそ)るべきものなき覚悟(かくご)と、如何(いか)にしても我が達すべき幸福の望みを保つものにあらざれば得がたきものなり。此事(このこと)は金銀()(ざい)(もっ)()()べきものにあらず。他人を(たの)みて得るべきにもあらず。勿論(もちろん)一己(いっこ)私心(ししん)をもって(みだり)(みずか)(あざむ)くべきものにもあらず。(ただ)一方(いっぽう)あり。天地の大道(だいどう)(もとづ)きて人の心の(ふち)()ふべき宗教(しゅうきょう)の心、即ち人間以上の者、即ち神を(した)う心を十分に成長せしむるにあり。天地の間に人よりも()()よりも()ほ強きもの神明(しんめい)にして(これ)より(おそ)るべきものにあらず。(しん)(せい)の勇気の(おそ)るべきものなき覚悟に生ずる者なれば、(その)覚悟を得ん前に先ず人の尤も懼るべき神明を識認(しきにん)せざるべからず。

 

(かつ)(それ)控訴院(こうそいん)判官(はんがん)某氏(なにがし)に聴きたることあり。明治十二三年の(ころ)新島襄(にいじまじょう)博士が京大阪の間に奔走(ほんそう)して(しき)りに眞の神の道を(つた)へたる事ありしが、(おり)しも大阪に()ける文武官吏の中に懇親会様の集会ありしかば、鎮台(ちんだい)の将校()も多数(これ)(かい)し、司法部の各判官達も同じく(これ)(かい)せしが、色々懇談の中で(それ)一客(いっかく)(しきり)に新島氏の熱心なる運動を(あざけ)り評しければ、一座皆な之に和して(おおい)(きょう)(じょう)じ笑う声の梁塵(りょうじん)を動かさんばかりなりけり。(しか)るに(はる)かの上座に黙然(もくねん)たる(ぼう)将軍が最前より(その)座興に(あずか)らぬ(てい)なりしが、一座のどよめきたるに少し気色を損じ()ちと(こえ)の調子を高くして(もう)されけるに、皆々、御素人(おしろうと)と見え(そうろう)。神仏宗教の話も差迄(さまで)侮る(あなどる)べき事には無之(これなく)(そうろう)両陣(りょうじん)相対(あいたい)して勝敗の()(いよいよ)切迫(せっぱく)(まな)四方(しほう)に心を八方(はっぽう)(くば)りて敵味方(しず)まり(かえつ)て呼吸を(うかが)う時に(のぞ)みて、思わず知らず神を頼むより(ほか)なきもので()かる死生の勝敗の場に立ちたる経験あるものは、神仏の話、決して戯れになすべきものに無之(これなく)云々(うんぬん)。一座、(みな)(その)誠実(せいじつ)なるに(ふく)したるがごとく(だれ)も言葉を返すものあらざりしと。(みぎ)(こと)実験上(じっけんじょう)の事まで(あらそ)ひがたき人の心の証拠なり。身体(しんたい)には飲食を()きがたき性質あるがごとく人の心には人より(とうと)く人より強く人より(かしこ)きものを求むる(また)天性なり。西洋の大學者(だいがくしゃ)の申す所にも世界は(ひろ)きものにて色々の(くに)あり人民あり。(ある)ひは実に野蛮未開にして役所なく学校なく芝居見世物(など)更々(さらさら)なき(ところ)あれども人々の帰依(きえ)する神仏を拝する場處(ばしょ)なきものの(いま)(かつ)てあらず。(これ)(また)強き証拠となるものにして人間は到底(とうてい)神を忘れ(おはる)ること(あたは)ざるものなり。(ゆえ)(いま)(おそ)れに勝つべき勇気を養ふに、先ず天性に(つい)て居る神を(おそ)るる心よりして(やしな)いねばならぬ事、そして即ち神を認めることは第一歩なり。(これ)(つぎ)て大切なるは神を撰ぶことなり。

 

神を(たず)ぬるは人の天性なれども、何でもかでも拝むべきものにはあらず。天性(てんせい)発達(はったつ)進歩(しんぽ)(てき)するものにあらざれば眞に拝すべきの神となすに足らず。或る人は天地神明の道理であると申し候得共(そうらえども)(これ)は人情に適合せず。人は花を見ても月を見ても皆我と同じ様に心あるものとして見るものなり。薩摩(さつまの)(かみ)(たいらの)忠度(ただのり)(おう)()(もと)露営(ろえい)をすれば

行き暮れて()下蔭(したかげ)を宿とせば

花や今宵(こよい)のあるじなるらん

(えい)じ、花にも我を(おもいや)るの(なさけ)あるもののごとく思ひて心を(なぐさ)むるなり。(かくの)(ごとき)(しん)の人情なれば、神明(しんめい)の道理であると(まお)(ばかり)で、決して人を満足せしむること(あたは)るなり。(ゆえ)にどふしても(なさけ)ふかく(おもいや)り多き心を()てる神を選ぶこと、自然に(かな)ふことなるべし。()た人の今生きて神を(たず)ぬるもの(ゆえ)(いにし)への神もて今の人の必要を(みた)すこと(あた)はざるなり。又た、人には善悪邪正を(わか)つの心厳然(げんぜん)としてあることなれば、世の迷ひの種となり()残忍(ざんにん)なる神や悪人の祈りをも聞くべき不正の神のごときは皆未開人の心よりなれるものにて、決して人の天性を()ぎ上げて勇気を養い忠君(ちゅうくん)愛国(あいこく)(つと)めを(まった)ふせしむべきものにはあらず。()れば、人の為に(おが)まるべき神は昔も今も将来も変りなく存在して、知恵も能力も(そな)ふれるのみならず同情慈愛の心に富み又善悪賞罰の疑念に豊かなる神にあらざれば、人の(つか)(あが)むべきものにあらざるなり。神の子イエス、キリストは天地萬物(ばんぶつ)主宰(しゅさい)たる大能(だいのう)大智(たいち)大仁(だいじん)の神を人類の父として教へ玉へり。(これ)(じつ)一言(いちごん)にして右の諸条件を(つく)せるものと()ふべし。(しか)して神は霊なれば祭るものも霊と(まこと)とを以てすべしと教え玉へり。霊に仕ふるに霊を以てすることなれば(あえ)堂宮(どうみや)()くるには及ばず。時と所を限るにも及ばず。要する(ところ)心の奥底より湧き出る真心(まごころ)をもって(これ)(つか)ふべき事なりとす。

 

神に帰へること

(すで)に神を認め(また)完全(かんぜん)なる神を(えら)みたり。最早(もはや)(みな)大勇(たいゆう)()。火水を(おそ)れぬ者となれるやと問へば、(いま)だに()(やす)(しか)りと答へ(がた)(ゆえ)如何(いかん)となれ。(われ)(えら)みたる神の全能にして我の抵抗し()べきものにあらず。全能にして我が心の秘密をも隠すことあたわず。仁愛に富み(たま)へども正義に強くましませば、()が犯せる諸々(もろもろ)の罪悪をば(はなは)(にく)(たま)ふ。我が(まが)れる(けが)れたるままの心情(しんじょう)をば決して喜び(たま)(ところ)にあらず。()すれば(あお)()れば(あお)ぐほど(おそ)るべき神にして、我と神と表裏(おもてうら)(あい)()わざるに()たり。()(じつ)危懼(きくきょう)恐縮(きょうしゅく)慙愧(ざんき)憂悶(ゆうもん)(もとい)なり。(かか)る身体にしていかで死生(しせい)の間に従容(しょうよう)たるの勇気を生ずべけんや。(はなは)(まど)ふ所なりとす。()(なが)ら、()(しば)しわが心、月なき夜の()さに()けんとする時に一層暗くなるものなり。これ明暁(みょうぎょう)(ちかず)(しるし)なりと知れば(あえ)(のぞみ)(うしな)ふべきにあらず。古人言わずや、人(きゅう)すれば(もと)に帰へると。今は即ち人類の大本(たいほん)たる神に帰るべき時なり。(まこと)既往(きおう)の罪悪を()ひ改め(かぶと)を脱ぎ剣を投げて帰順すべきなり。(おのれ)の力これに(てき)すべからず。(おのれ)の罪、(みずか)ら救ふべからざるを知らば真率(しんそつ)なる武士(もののふ)の情を表し真面目(しんめんもく)(こう)(さん)すべし。天に対せる不忠(ふちゅう)不義(ふぎ)(つぐな)ふべからざるを(さと)らば(いさぎよ)く身を(ぬきん)(しょ)(ぶん)()ふべし。(これ)(また)士たるものの本分たるべし。(すで)真面目(しんめんもく)恭順(きょうじゅん)(あらわ)せり。(ここ)天光(てんこう)(しん)(おん)(あらは)るるの時(いた)れり。神の子なる(すくい)(ぬし)犠牲(ぎせい)贖罪(しょくざい)恩恵(おんけい)をも(まな)ぶべし。()くて今まで(おそ)ろしき正義の神、今(また)慈愛(じあい)に富み同情に豊かなる(てん)()と見ふるなり。()きに我を譴責(けんせき)せる神の子(ならび)諸聖(しょせい)諸賢(しょけん)も今(みな)(わが)愛師(あいし)(あい)(けい)と見ふるなれ。(これ)を神に帰るとは云ふなり。不孝なる子が(ひさ)しく家を()でて浮浪(ふろう)の身となりしが今父の家に帰れるなり。()くて我が心の奥底(おくそこ)(すなわ)(ふち)の深みの風も(なみ)も達せぬ所に、(てん)()の仁愛が根を置き、(その)正義が(みき)を保ち、死するも(いき)るも天地の主なる神と共に()り。(すで)(えい)(せい)の門に入ることを確信するに至れば天下又何をか恐れんや。心中の戦い心外の(たたかひ)(その)終局(しゅうきょく)(みな)勝利の天命に()するのみ。泰然(たいぜん)として(これ)(あた)安然(あんぜん)として(これ)(しょ)すべきのみ。(よう)(ゆう)(ぎょう)(これ)()いて全しと云ふべし。(かか)る人、戦陣に忠勇(ちゅうゆう)()そして平時には文明の君子なり。現世にて名誉を(かんむり)とする国士(こくし)にして来世にて(えん)(まん)幸福の天國(てんこく)(みん)たることを()べし。(よう)(ゆう)(よう)(また)(だい)なるかな。

 

明治廿(じゅう)八年二月六日印刷

(どう)   (どう)月十一日発行

東京府下豐島郡渋谷村元青山

南町七丁目壱番地青山学院内

著作者兼発行者  本 多 庸 一

 

大坂西区土佐堀三丁目三十八番屋敷

印刷者      今 村 謙 吉

 

 

 

3.    原本コピー

 

 

 

 

4.    解説

この「軍人必携 養勇論」は表紙込みで20ページの、シャツの胸ポケットにすっぽり入る小冊子で、発行者はこれを軍服を着た若い兵士に一部ずつ配り、それが彼らの胸ポケットに収められ、彼らが時折取り出し折に触れて読むことを期待したことが想像できます。構成も含めマーケティング媒体として、パンフレットとして優れています。

これは明治18年に発行されました。この年庸一は37歳、東京の築地美以教会で長老の按手礼を受けた翌年であり仙台メソジスト教会牧師に赴任する前年です。同年12月には太政官制が廃止になり内閣制度が発足しました。若い庸一の気概が感じられます。

戦後大きく変質した日本のプロテスタント信仰を思う時、明治期の信仰者が遺した文章を省みる価値はあるでしょう。

 

参考;青山学院資料センターだより2017.7 の「文部省訓令第十二号に対する本多庸一抗議文」について