伊藤大輔牧師 伊藤牧師のプロフィール 1963年東京生まれ 1987年東京神学大学修士課程修了 南国教会、武蔵野横須賀伝道所、八王子めじろ台伝道所、 北千住教会、銀座教会、青山学院高等部、横須賀学院等を 経て2015年4月より本多記念教会8代目牧師として着任。 説教とお祈り (おことわり;以下の録音は本多記念教会の聖日礼拝での伊藤牧師の説教を教会員が録音したものです。録音状態が悪いところがあってもお見逃しください。なお、ここへの公開は牧師の了解を得てあります。) 2017年12月31日礼拝説教 説教題;喜びにあふれる旅 聖書;マタイによる福音書2章1-12節 クリスマスに何が起こったのか。二つのことが起こっている。占星術の学者たちの心に起こったこと。ヘロデとエルサレムの人々の心に起こったこと。 クリスマスは世界の秩序を人の心に呼び覚ます。いつでも誰とでも愛し合える。 2017年12月24日クリスマス礼拝説教 説教題;天に栄光、地に平和 聖書;ルカによる福音書2章8-20節 ルカの記すクリスマスの場面、「天の栄光」「地の平和」。それを天使たちが祈ります。「天の栄光」と「地の平和」、それは結び合っているのでしょう。栄光と平和、どのような関係があるのか。 2017年12月17日礼拝説教 説教題;飼い葉桶の救い主 聖書;ルカによる福音書2章1-17節 私たちの信じる神は全知全能の神です。家族の神でもなければ、民族の神でもありません。一時だけの神でもありません。その神様を信じるとは、世界についていつでも思いを向けるということです。世界をどのようにしたら良いのか。 2017年12月10日礼拝説教 説教題;夢を信じて 聖書;マタイによる福音書1章18-25節 生まれてくる子どもはインマヌエル(神我らと共にあり)。素敵な言葉。だが、神が共にあるならどうして悲しみがあるのか。闇があるのか。「神が共にある」とはどういう意味なのか。 2017年12月3日礼拝説教 説教題;お言葉どおりになりますように 聖書;ルカによる福音書1章26-38節 み使いガブリエルはマリアの前に現れ、主イエスの降誕を告げる。マリアは戸惑いながらも「お言葉通りにこの身になりますように」と引き受ける。ここにマリアの信仰がある。そのマリアの信仰とはどういうものなのか。 2017年11月26日礼拝説教 説教題;信仰で見る景色 聖書;創世記24章1-18節 遠い昔のアブラハムの家族に起こった物語。聖書はこれを何千年と書き写し、書き写し伝えてきた。この物語が一家族の話ではないから。すべての人の関係する話であるから。どこにその関係性があるのか。 2017年11月19日礼拝説教 説教題;必ず現れる 聖書;使徒言行録4章1-22節 ペテロとヨハネは、国の中心的指導者たちの前で尋問を受ける。「何の権威で」「誰の何よって」そのことをおこなったのか。ペテロは答える「イエス・キリストの名によって」。その名は、彼らが数カ月前に葬ったものの名。その名にこのような力があるとは。 2017年11月5日召天記念礼拝説教 説教題;重なる 聖書;使徒言行録3章11-26節 主イエスの弟子ペテロとヨハネは神殿の門の前で座り続けていたものを立ち上がらせた。人々はその奇跡に大変驚き彼らの周りに集まってきた。そしてペテロの話に耳をそばだてる。だがそこで聞かされたものは奇跡以上に彼らにはショッキングな内容であった。 2017年10月29日説教 説教題;最初の土地 聖書;創世記23章1-20節 私の願いは小さくないか。全能の神に捧げる祈りとして小さくないか。ありったけ。それでも神には小さい。もっと大きく。御心を求める。 2017年10月23日説教 説教題;立ち上がれ 聖書;使徒言行録3章1-10節 使徒言行録は告げている。ここが終わりではない。始められる。何度でもやりなおせる。 始める。わたしたちはどこに向かって始めるのか。何を何度でも始めるのか。どこに進むのか。 説教録音はありません。 説教要旨はここをクリック 2017年10月15日説教 説教題;大切な畏れ 聖書;使徒言行録2章43-47節 何度でも、いつでもやりなおせる。手遅れはない。いつでも今から始められる。 終わりはない。それを知ったとき、人々の中に畏れが生じた。 2017年10月8日説教 説教題;何をしてきたのか 聖書;使徒言行録2章14-42節 手遅れ。取り戻せない。それはわたしの勝手な判断。この世界に神の御手の外にあるものは何一つない。ならば、わたしに手遅れも、取り戻せないものは何もない。 2017年10月1日説教 説教題;誰も見捨てない 聖書;使徒言行録2章1-13節 キリスト教は「愛」を大切な言葉としている。そして、愛の難しさ、愛の困難さも自覚している。しかし、愛はそんなに難しいのか。そもそも「愛」とはなんなのか。 2017年9月17日説教 説教題;神の問い 聖書;創世記22章1-9節 人はいかにあるべきなのか。聖書は人の理想の姿をどのように考えているのか。イサクを捧げるアブラハムの物語は、人の在り方を語っている。 2017年9月10日説教 説教題;何を見ているのか 聖書;使徒言行録1章12-26節 「失ったもの」はどうすればいいのか。私たちは沢山のものを獲得します。同時に多くのものを失います。「もの」「人」「環境」「信頼」「名誉」「誇り」「自信」「正義」「平和」。失ったものをどうすればいいのか。 2017年9月3日説教 説教題;約束を信じて 聖書;使徒言行録1章1-11節 教会はどうやって始まるのか。世界の始まりには何があるのか。愛がすべての始まりになっている。世界を愛し続ける。敵をも愛せる。愛に不可能をない。それが聖霊の力。教会は、それを信じ、世界の真の姿を現していく。 2017年8月20日説教 説教題;ひとつになる 聖書;創世記21章22-34節 私たちは「ここ」にいます。「ここ」にしかいることができません。「ここ」でないところを「あそこ」と言います。「あそこ」は遠い、関係が持てない。「あそこ」は本当に「ここ」とは違うのか。アブラハムの物語は私たちに問います。 2017年8月13日説教 説教題;全部ある 聖書;フィリピの信徒への手紙4章10~23節 パウロはこの手紙で特徴的な言い方をする。「どちらでもいい」。投げやりな、責任を放棄したような言葉にも聞こえる。だが、パウロはこれを大切な言葉として使っている。 2017年7月30日説教 説教題;人の思いの先で 聖書;創世記21章9-21節 家族の中で起こった争い。それは、私たちの世界観を問う物語となっている。 イサクとイシマエル、ユダヤ人とアラブ人の祖。ユダヤ、キリスト教とイスラム教の祖。彼らが別れ別れになる場面、何が起こっているのか。 2017年7月23日説教 説教題;広い心 聖書;フィリピの信徒への手紙4章2~9節 教会とは何か。キリスト教とは何か。短い聖書の箇所だが、その要所がここには記されている。 ((済みません、録音はありません。)) 2017年7月17日説教 説教題;道なかば 聖書;フィリピの信徒への手紙3章12~21節 どんな状況でも人を生かすもの。私を元気付けるもの。愛すること。もし人が元気でないなら原因は簡単。愛していないから。 愛する。それだけで人は生きていける。 2017年7月9日説教 説教題;神に任せる 聖書;フィリピの信徒への手紙3章1~16節 「人の喜び」それは「人の正しさ」と結びつく。それはどういうことか。 パウロは生まれも育ちも立派な者。勉強熱心なパウロはおそらく敵である教会のことも調べたのだろう。イエスについても勉強をしたのだろう。そして、ある時、イエスと出会ったとしか言いようのない体験をした。 2017年7月2日説教 説教題;心を重ねる 聖書;フィリピの信徒への手紙2章19~30節 私たちの心はどうなっているのか。どういう心の状態が良い状態なのか。 この手紙でパウロは「どちらでもいい」と語る。「良い心」の一つのヒントがある。私、パウロを陥れようとして伝道する者、励まそうとして伝道する者、正反対の姿勢であるが、どちらでもいい、という。生きるのも死ぬのもどちらでもいいと言う。 2017年6月18日説教 説教題;果たされる約束 聖書;創世記21章1~8節 信じること。それが求められている。信じられないから、どこかで誰かが悪巧みをしていると考える。では「信じる」とはどういうことか。 2017年6月11日説教 説教題;あなたと同じ 聖書;フィリピの信徒への手紙2章1~18節 神の造ったこの世界は一つになれる。どのようにしてか。パウロは「従順」をそこにあげる。神に、キリストに「従順」。それはどういうことか。 2017年6月4日説教 説教題;霊の言葉 聖書;使徒言行録2章1~13節 ペンテコステは教会が誕生した日。教会が何かを告げている日。ペンテコステの日に起こったこと、それを今日も行うのが教会。ペンテコステに何が起こったのか。 2017年5月21日説教 説教題;わたしを取り戻す 聖書;創世記20章1~17節 人は自らのアイデンティティーに不満を覚える時がある。これではダメだ。私ではダメだ。出来ることなら自分を変えたい。やり直したい。アブラハムに至ってはアイデンティティーをすり替えることまでする。 2017年5月14日説教 説教題;怒らないこと 聖書;フィリピの信徒への手紙1章12~30節 パウロは熱心なユダヤ教徒、そして神学者である。パウロの回心をユダヤ教徒からキリスト教徒への鞍替えと考えては福音の大きさが見えなくなってしまう。福音は鞍替えではない。福音とは何なのか。 2017年5月7日説教 説教題;神からはじまる 聖書;フィリピの信徒への手紙1章1~11節 フィリピの教会はパウロのことをとても大切に思っている。パウロが囚われて心配している。ところがパウロはこの教会に「それは違う」と言わんばかりに、手紙を書く。パウロはどのような世界観を持っていたのか。 2017年4月23日説教 説教題;神の出番 聖書;創世記19章1~29節 「祈り」。私たち信仰者は祈りの習慣を持っている。その私たちは祈りをどれほど信じているのだろうか。祈りが神に届いているとの信頼をどれほど持っているだろうか。 2017年4月16日(イースター)説教 説教題;今、ここにある 聖書;ヨハネによる福音書20章11~18節 人は罪を犯す。人は汚れてしまう。汚れてからではない。汚れる前に洗う。罪を犯す前から罪を洗い落とす。必ず洗い落とす。神は速い。悪魔がユダの心を支配する前に、ペテロが裏切る前に、洗っている。 2017年4月13日 洗足木曜日礼拝説教 説教題;洗い落とせる 聖書;ヨハネによる福音書13章1~20節 2017年4月2日説教 説教題;福音に与る 聖書;マルコによる福音書16章9~20節 主イエスが復活した。それをきいた 人々は信じられない。マルコ福音書は「信じられない」を最後に扱う。 2017年3月26日説教 説教題;世界を支える執りなし 聖書;創世記第18章16~33節 神がアブラハムを選んだ理由。正義を行うように。アブラハムが、神に懇願する根拠、神は正義を行うはずだ。この聖書箇所は「正義」を巡って展開されている。 2017年3月15日説教 説教題;無いの希望 聖書;マルコによる福音書第16章1~8節 主の障害が告げる世界。終わりに始まりがある。終わりはない。あるのは永遠。悲しみではなく、感謝と喜び、平安が包む世界。私たちはどの世界にいるのか。 2017年3月5日説教 説教題;人知の先 聖書;創世記第18章1~15節 人は一直線上の時間を逆戻りすることも許されず、ただ進むそれが私たちの世界だと思っている。神はこの世界は永遠だと告げている。経験で世界を把握するのか。信じて世界と向き合うのか。 注;2017年2月26日の礼拝説教はここをクリック。 2017年2月19日説教 説教題;終わりから 聖書;マルコによる福音書第15章23~47節 「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」。主は十字架で最後に「神が分からない」という。これは、私たちを悩ませる。神の子が、どうしてこのようなことをいうのか。最後の最後にどうして疑問を語るのか。 2017年2月12日説教 説教題;条件なき信仰 聖書;マルコによる福音書第15章16~32節 主の十字架は聖書の頂点。それはわたしたちの生活、世界の中心でもある。中心には何があるのか。・・・世界の中心は「上」に立つもの。その者が世界の中心だと。だが、主イエスは彼らの考えている中心を求めていたのか。 2017年2月5日説教 説教題;人の知らないもの 聖書;マルコによる福音書第15章1~15節 主イエスはづして人々に憎まれたのか。憎んだ首謀者は祭司たち。ピラトが裁判の過程でイエスを釈放しようとする。その理由は「祭司の妬み」と分かっていたから。憎しみの原因、十字架の原因は「妬み」。「妬み」とは何か。 注;2017年1月29日の礼拝説教はここをクリック。 2017年1月22日説教 説教題;体に記す 聖書;創世記第17章1~13節 私たちは願いを持っている。願い、祈る。しかしそれが必ずしも叶えられるとは限らない。むしろ叶えられないもののほうが多い。神様は一体、何をしているのか。何を私たちに与えようとしているのか。 2017年1月15日説教 説教題;神を捨てる 聖書;マルコによる福音書第14章66~72節 「わたしは何者なのか」。わたし達はその答えを持っている。自分だけが知る正しい答えを持っていると思っている。 自分は一体何者なのか。自分自身でも自分のことを分かっていない。それが私たちなのではないのか。ならば、私たちはどうやって「自分」を知ることができるようになるのか。 2017年1月8日説教 説教題;わたしは誰か 聖書;マルコによる福音書第14章53~65節 「言葉」には力がある。そして「言葉」には限界もある。「言葉」の性質、それをこの出来事は語っている。言葉は個人に帰属するもの。どんなに正しいと思って語っても、所詮は私の思い。照合すれば食い違い、同じにはならない。言葉は人が、私が作り出しているもの。 2017年1月1日説教 説教題;告げられる喜び 聖書;ルカによる福音書第2章8~21節 2017年。今年起こること。それは今年初めて出会う突然の出来事かもしれない。しかし、主の備えはもう始まっている。私の知らないところですでに始まっている何か。 |