「ひろば」投稿原稿

 

以下はこのサイトの管理人をしている本多謙が「ひろば」に投稿した原稿です。「ひろば」は東京神学大学公開講座の受講生による「クラス新聞」です。本多は2年間の公開講座を修了し、終了証を頂きました。

 

 

「自己紹介」

 

本多謙 日本キリスト教団本多記念教会(66)

 

内容は何でも良いということなので、自己紹介させて頂きます。

 

 誕生日は19503月4日です。 50年という切りの良い年なので、年齢を数えるのが楽です。西暦に限りますが。今年は2012年なので62歳になりました。信じられない。高校生の時、自分は何歳まで生きればよいだろうと考え、せいぜい50歳までだよな、と思ったことを思い出します。この記憶が潜在意識に残っていたのか、IBMなどの外資系IT企業を辞めて独立したのが51歳の時でした。現在、KenConsultingというバーチャルカンパニーを経営しています。会社のホームページはwww.kenconsul.com です。

 

 ホームページと言えば、www.ekyoukai.org というサイトも作っています。「良い教会」のダジヤレです。練馬の浄風教会の会員だったころ、宮内俊三牧師の説教を録音しておいたので、主にそれを載せています。他の牧師の説教録音も載せています。更新しなけれぱと思いつつ年月が経ってゆきます。優れた牧師の説教が消えてゆくのは惜しいという気持ちで始めました。自分が持っているこのコンテンツも載せたい、というのがあれば教えてください。

 

 あと、本多記念教会の役員をしています。昨年、東日本大震災復興支援として、教会でファミリーコンサートを開きました。教会員の楽器演奏、ダンス、歌唱を集めたコンサートですが、何と14万円の献金が集まりました。私もシューベルトのアベマリアを歌ったところ素人にしては上手いんじゃないか、と自分で思い、試しにYouTubeにアップしてみました。これまで100以上のアクセスがあり、世の中にはモノ好きな人がいるものだなと感心しています。ちなみに、YouTubeで「本多謙」で検索すると出て来ます。クリスチャンは教会の中で上品に大人しくしている方が多い様ですが、もっと世間にアピールしても良いと思いますね。自分も、こんな素ノの歌を載せたら恥ずかしいと思いましたが、家族が友人知人に触れて回ってくれそれなりに良かったです。

 

以上です。

(ひろば81号 20126月)

 

 

なぜ日本のクリスチャン人口は未だに1%なのか?

 

明治以来営々と宣教を続けて来て、未だにクリスチャンが全人口の1%しかいないのは何故かをずっと考えている。小文を書くためにネットで調べたら、何と「6%です」という記事を見付けた。2006年3月に「米紙クリスチャンポストによると最近のギャラップ調査」で「今回の大規模な全国調査によると日本人のキリスト教徒の全体的な割合は6%に上るだろうということが示された。」とある。

 

息子は筆者をフェースブック上の友達にしてくれているが、彼のプロファイルを見ると、クリスチャンと書いてある。洗礼も受けていないし教会にも行っていないのだが、「何となくクリスチャンだよね。子供のころ教会に行ってたしさ、」的な判断なのだろう。こういうシンパ的な人口の推計が6%という数字なのだろう。

 

これを慶賀すべきかと言うと私は反対で、あと10年するとクリスチャン人口は大量に減ると見ている。私の教会でも70代が中心で、あと10年してこの人たちが来れなくなったら教会がどうなるのだろうと憂えるのに、改善している様にはさっぱり見えない。民間企業の営業担当ならとっくにクビになっているところだ。

 

昔練馬の浄風教会で役員をしていた。老練の宮内俊三牧師や経験深い役員が何人もいて和やかな良い教会だったが、お年の順に天国へ行かれ、牧師も老齢で引退し、後任の牧師を招聘する担当になった。宮内牧師が数時間面接して、この人ならOKというので来てもらって1年たったころ皆に評判を聞いてみたら、併設の幼稚園の先生にセクハラしていることが分かった。「本多さん、実は、、、」と打ち明けられ、「えっ、そんなこと、お母さんに話したの?」「そんなこと言えません。言ったら母がどんなに悲しむか、、、。」その牧師は前任の教会でも女性関係で噂があった。牧師も人の子だから、就職の面接には演技もするのだろう。

 

こんな牧師は辞めてもらおうと思って動いたら他の役員が「牧師は守らねば」などと言ったり、日寄ったりで、仕事が死ぬほど忙しいのに真剣にやっているのが馬鹿らしくなり、こんな人たちとはとても付き合えませんということになった。その後セクハラされた幼稚園の先生は他所に転出することになり、当の牧師も数年後にはいなくなり、後に残ったのは牧師に給与も支払えないほど痩せ細った教会だった。

 

成熟した日本社会では、信用を得て商品を買って頂くまでにいくつもの関門を乗り越えなければならない。キリスト教そのものの認知は悪くはないと思うが、個人が入信するかどうかというレベルになると、「この牧師/信徒は“人間として”信頼できるか」という、フィルタリングが先ず入る。だから、「人間教」の日本で信徒を増やすには、牧師/信徒、特に牧師が“人として”評価されることが先ず必要で、教義に詳しいとかはその後になる。

 

だから、神学校を若くして卒業したり、Cコースの試験に合格し、頭でっかちのまま教会の主任担任教師になって責任を持たされたりすると問題が発生する。社会経験も乏しいのに「先生」と奉られている内に教会員が自分の手足の様に思えてくる。非常識なことをしているのにそれが判らない。下手に信徒を指導しなければなどと思っていると始末に困る。この様な環境で発生する問題を解決するのは、信徒にとってとてもとてもとても難しいことを、筆者はセクハラ牧師の例で学んだ。

 

消費者は商品やサービスを瀬踏みして信用できないと思えば何も言わずに静かに離れてゆく。同様に、世間の人はそういう牧師の応対や発言を評価し、心に引っ掛かるものが無ければ静かに離れてゆく。クリスチャン人口が1%というのはそういうあれやこれやが積み上がって残った数字だろう。あと10年したら私の教会はどうなっているだろうか?

 

筆者は外資のIT企業で30年以上マーケティングや新規市場開拓に従事してきたが、その眼で見ると教会はいかにも心もとない。どうすれば良いかアイデアはあるのだが、さあ、どうだろうか?

(ひろば82号 2012年11月)

 

 

クリスチャン人口を1%以上にする方法、その2

前号で「日本のクリスチャン人口を1%以上にする方法」を知っている様なことを書いたので、それについて2,3の方から「知ってるなら話してよ」的な質問された。知らない訳ではないが、知っている事と出来る事は違うし、皆様の不興を買うだろうと思うと口が重くなる。なので、少しだけ話すことにする。

昨年の東神大のオープンキャンパスに行った。昼食会があって、いくつかのテーブルの周りに数人が、訪問者を神学生が囲む形で座ったのだが、私の右隣の席が空いていた。挨拶などが済んで食べ始めた頃、若者がやって来て無言のまま右隣に座り、そのままテーブルの上の食物を食べ始めた。何やら不穏な雰囲気を漂わせていた。「挨拶ぐらいしろよ」と言いたかったが、変な事を言ったら殴られそうな感じがしたので黙っていた。東神大に入ったらこんなのと同列に扱われるのかと思ったら、興味が失せてしまった。

彼の若者がそのまま東神大を卒業して牧師になったら、「先生、先生」と奉られ、信徒の指導者として期待され、毎週高い説教台から信徒に向けて説教をすることになるのかも知れない。人は変わるし成長するから、そうだと断言はしないが、仮にもし彼が社会人としての経験が無く、人生で左程の苦労も味わっていない優等生なら、間違いなく彼は自分を特別な人間だと思う様になり、教会内でしか通用しない論理と専門用語を使いまわす様になるだろう。その言葉と論理は世間の人々には通じない。だから、人々は教会の前を通り過ぎるだけになる。更に、教会員が教会の為と思ってする自発的な行為を自分の力と勘違いする様になる。その様な牧師に呆れ果てた教会員は礼拝に来なくなる。

日本という異教の地で宣教するには、明治の宣教師が言った様に「敵国に攻め込む」覚悟が要る。その戦いに勝つには武器と、武器を使いこなす訓練が必須だ。神学校はその為の学校なのだが、神学校で得た幾何かの知識と体験だけで信徒を新たに獲得するほどの力が付く訳ではない。神学校を卒業し、見習期間を過ぎても、教会に寄生する限り信徒に甘やかされ続け、自分を一人前と勘違いし、傲慢になって行く。結果、ミッションを達成できない。

だからせめて、神学校は社会という修業の場で他の人々に認められた者、例えば会社などの集団で係長や課長レベルまでになった者だけを入学させるべきだ。まともな組織なら、他者の気持ちを理解しリードできなければ管理職にはなれないからだ。学生のまま神学校に入学した者には社会生活のマナーを徹底的に教え、卒業したらどこかに就職させ、管理職になった後で牧師に就かせるべきだ。世間で通用する良識と常識を備えた人の言うことを、世間の人は敬して聞こうとするものだ。でなければ異教徒をクリスチャンにするなど望むべくもない。一方、教会は未熟な牧師が暴走しない様に厳しく教え導くと共に、その災厄から教会を護るシステムを組み込まなければならない。

(ひろば 83号 20137月)

 

なぜ日本のクリスチャン人口は未だに1%なのか?その3

 

2年間の公開講座も後2か月を残すのみとなった。兎に角出席だけはしようと思って続けたが最近は名残惜しい気持ちになって、その心の変化に少し驚いている。

「ひろば」には同じ主題で書いてきたので、今回も同じ主題の締め括りとして要点を纏めて書いてみたい。

筆者は外資のIT会社で40年程戦略マーケティングに従事して来た。日本に無い新しい概念の製品やサービスを世の中に広めるという、云わばエバンジェリストをして来た訳だが、この仕事は「相手が日常使っている言葉と構文を使って相手の心に刺さる表現を状況に応じて使うという、非常に高度な言葉遣いが要求される。自分の主張を正確に表現するのではなく、自分の主張を相手が正確に理解する、云わば刺さる表現が求められる。この観点で口座様々なテキストを評価すると落第点が目立つ。ある講師のやたらと長い日本語のテキストを渡されて読んでみたことがある。意味が分からないので自分の文章理解力の問題だろうかと思って何度も読み返したが、結局テキスト自体の表現に整合性のないことが分かった。こんな文をテキストとして書き読ませる原因が推測できた。結局自分の頭の中だけで自己完結してしまって他者(読者)が見えなくなっているのだ。マーケティングの世界が言語表現にどれ程敏感かを、例えば雑誌「宣伝会議」などを読んで勉強すべきだ。言語表現の体系を非信者側に合わせなければ教勢拡大なんて無理。

 

筆者は理学部を卒業しITという時代の最先端の科学技術を基盤にしたビジネスに30年従事して来た。世間での科学技術の立ち位置を理解しているつもりだ。神学を正当化する神学者の文章を読んだが、地図を読んでその土地に行って理解したつもりになってあれこれ言っている感じがした。「随分強引な論法だな。これでは世間の人は納得しないだろう」という印象だ。現代社会の繁栄や問題を構成するのは科学技術の方法論であり産業であることは日経新聞を読めば分かる。日本人の大半はこの科学技術の恩恵を受けた世界に生きているのだから、それとの接点を持たなければならない。少なくとも、ゲーデルの不完全性定理、不確定性原理や遺伝子工学、脳科学などの最新の知見に対して的確なコメントを発して世間の人々を納得せしめ得なければならない。世間のリテラシーの高い読者を納得させるコメントなんて並大抵にことではない。仲間内の論理で済む場で説教をするのとは訳が違う。

 

近代の日本でキリスト教が普及した時期が2つあると思う。最初は明治初期、江戸幕府が倒れ国家神道が普及するまでの間で、次は太平洋戦争に敗れ戦後の経済復興が始まるまでの、各々短い時間だったと思う。どちらも日本人が頼るべき形而上学的体系を失った時代だ。これら以外の時代で国民のキリスト教に対するイメージは、「自分たちの文化より進歩し優れている西洋の宗教」という認識だろう。明治期以降先進的な海外の文物を取り入れて自家薬籠中の物にしたいという日本人の志向性に従って人々はキリスト教を「研究」し、信者達はそれを身に着けているという理由で自己の優位性を認めていたのではないか?筆者はこのパラダイムが1980年代以降崩壊したと見ている。例えばクールジャパンなどの海外展開は明らかに西洋文明に対する劣等意識や反発から無縁な自然な経済活動に見える。教会に若者が集まらないのはこのパラダイム崩壊と深く関係していると見る。「時代に置き去りにされている」と言える。先進国の宗教という後光を失った日本のキリスト教はどうするのだろうか?以前私が居た教会は教会員が老齢化し、お齢の順に居なくなって牧師への給与も払えなくなってしまった。寂しい限りだ。筆者は、西洋の神学をさて置いて、オリエントで書かれた聖書のメッセージを改めて読み、思考する過程で新たなパラダイムに対応する方法論や神学を出すのでなければと愚考する。

 

(ひろば84号 201412月)