上田国太郎氏からの手紙

 

和人さんは右近さんの戦死の状況を求めて方々を尋ねていましたが、偶々上田氏が右近さんを知っている事を知り、上田氏に手紙を書き、御返信を頂きました。これは上田国太郎氏は宮之原右近さんの弟の和人さんに送った手紙です。上田氏は右近さんの青山学院の同窓で右近さんと同年兵、同じ陸軍気象部に所属していました。和人さんは上田氏から慰霊祭参加を許され、その後右近さんの最後等を知る人々を知ることになります。

 

 

 

冠省 貴拝誦、まことに不思議なご縁と申すより他ありません。戦没されたご令兄のみ霊のお引合せとしか思えません。

 

昭和15・2・26東京駅集合 広島集結、第二航空教育係難波部隊(隊長 難波了三中佐)に十四年前期兵として入隊、特学気象、班は 工班 小山長芳曹長でした。

3/10の陸軍記念日には貴兄も一緒に牡丹谷まで行軍し経爆の投下演習などを参観した記憶があります。

 

一期の検閲を了へてから、気象特学名三ヶ班(10・11・12)は関東軍気象隊の第一中隊(温春)に分遣を命ぜられ、四月初旬現地に到着した次第。寧安の航通二とはすぐ近くでありました。

 

甲幹に合格後新京にて集合教育(この時に貴令兄と合流したものと思われます。八月末 甲乙幹共々に東京高円寺馬橋にあった「陸軍気象部」に分遣し九月より翌十六年七月七日まで、甲幹四期生、その第二学班に貴令兄と共に起居を共にした次第です。

 

7/7日 適時部員下令、第二十五野戦気象隊の一見習士官として広東経由 西夏に進駐、十二月八日はカムボジヤ、泰の国境のセムレア〇行場(アンコールワット)で迎えた次第、 次いで泰、ビルマ、仏印、マライ等を測量班長として特戦 少尉任官 一年ほどで第三気象○隊の編成(昭17・10 1日)シンガポールの際〇くずも〇隊副官を被命、 当時泰国チェンマイでのんびりたるんでいた小生が突如、訳の判らぬまま、当時配属の連帯本部に出頭と命じられたので 翌十八年の三月、再度終戦。シンガポール作業隊(〇○が○○○)後方業務ながら心身くたくたになるまでこき使われた次第。昭217月に復員しました。

副官などと云ふややこしい戦務のおかげで復員後も同期会(三気象会)のまとめ役、今は会長にまつり上げられております。

 

尚、陸軍気象部甲幹四期の同期○○会は時々は部分的行なっていましたが、三年ほど前から まづ少々の資料を中心に東京、大阪で相互に集まる様になり、今年の総会は大阪で六月実施。東京部会として119日(土)中央線高円寺駅北口「根津会館」(tel(03)330-一三一一)で午後二時~六時

題して気甲四会陸軍気象部跡見学会として開催し宿泊の必要な方には旧気象部跡徒歩二―三分のところの旅館○○に一括泊ることになっています。(○安二航通出身の同年兵も一部参加します。)

 

貴兄六日に訪問にて慰霊祭の由、若しご都合つけばご令兄のご冥福を祈る為にも是非ご参加下さい。(案内書copy同封します)

取り急ぎのご返事でご判読下さい。

 

故宮之原兄は青山の同窓でもあり、人(ごと)とは思えません。又貴兄が二○の同年兵とは全く予期いたしませんでした。 小生、70才になりそろそろ仕事から引退を考えています。こ○としてオーストラリアよりの食果○の輸入代理店業務のささやかな仕事です。

 

お妹様の元子様にもくれぐれもよろしく。又二二野気の復員名簿のcopyも少々保管しております。この期会に拝眉の上ご閲覧ねがえれば幸甚と存じます。

 

○○の事々にはご自宅は旧陸軍気象部より200米ほどのところにあります。

 

四十数年を省りみてまことに〇〇〇、又昨夜古本屋で入手した比島バタンガス収容所(吉村修吉氏)を読みはじめ第四航空隊所属の航空隊○○のご苦労を偲んでおります。 

 祈御自愛

609/27                                     上田国太郎

 

 

注;上記は手書きの文面を文字入力したものです。文体、送り仮名等は出来るだけ原文のままに留めましたが、句読点を適宜加えてあります。読めない字は〇で記しました。私の誤読が無いとは言えませんので、以下の複写を参考にご覧ください。