宮之原右近氏軍歴(上田メモ)

以下は上田国太郎氏作成の宮之原右近さんの軍歴です。手書きの為判読できない箇所も多いので、要点だけを以下記します。上田氏は右近さんの青山学院の同窓で右近さんと同年兵で、同じ陸軍気象部に所属していました。和人さんは上田氏から慰霊祭参加を許され、その後右近さんの最後等を知る人々を知ることになります。

 

 

昭和15年2月 初年兵現役として安 第二航空通信連隊入営

昭和158月 甲幹

昭和159月 高円寺馬橋気象部に分遣

昭和16710日 

昭和16713日 関特滝、臨時動員下命 独立気象第三中隊要員

 第二高唐気 少尉 として宮之原右近の名が見えます。

昭和168?  比島ミンダナオ ダバオ上陸

昭和17101日 比島派遣 第二十二野戦気象隊 第二中隊となる。

中隊長 松本正弘大尉、先任将校として予備班長。

当時の第二中隊の測候班間地は ザンボアンガ、コタバト、ナバヤン、ザンギエ島ダラナ、ダバオ 他

中隊長は松本大尉より後藤大尉となる。中隊要員167

昭和1819年 戦局変化、米国軍レイテ上陸に呼応して19年末ダバオにも半上陸(期日不明)

中隊本部はダバオより5-60K奥地カワヤオ高地に撤退

既に協力すべき航空部隊を欠き、海軍部隊と共に山中に入り

昭和20616日 米機(爆撃及戦闘機)役2030機の急襲を受け

第二中隊は戦死7-8名、負傷約20

その時宮之原中尉も負傷 順時海軍に収容さる

昭和20年7月4日 一応退院したが避難行動(昼間行動)に支障あった模様

その前後 後藤中隊長主力は斬込隊となり後藤大尉は戦死(20.5.18)

7,8月中旬隊はダバオより東海岸に近い通称“つばさ山”

昭和20年7月4日 山麓に退避 配置地区部隊と共に抗戦中のところ714日米機の機銃撃により頭部貫通により戦病死す。

備考;(省略)

 

 

 

注;上記は手書きの文面を文字入力したものです。文体、送り仮名等は出来るだけ原文のままに留めましたが、句読点を適宜加えてあります。難読文字にはその文字の複写を挿入しました。私の誤読が無いとは言えませんので、以下の複写を参考にご覧ください。