今村兼治氏の手紙
以下は宮之原和人さんが兄の右近さんの消息を尋ねた手紙を今村氏に送り、その返答の手紙です。今村氏は右近さんの第二十二野戦気象隊に所属していました。 拝復 お手紙拝見致しました。 今年も余す所ところ僅となり、寒さも一段と厳しさを増してまいりましたが、お元気でお過しの由およろこび申し上げます。 お手紙を受取り差出人が 宮之原和人様となっておりましたのですぐに、宮之原中隊長様の関係のお方ではと直感し早速開封し拝見致した次第です。 このようなお手紙をいただく前に当方からお知らせを差上げるべきでしたが、何分にも戦後の混乱と資料不足で関係される方々の住所等も判明せず、戦後三十年過ぎた時に伯野廣次様から中隊の戦没者、生存者名簿を入手致しましたが、その時点では行政区域の変更やら世代の交代など、あまりにも時がたち過ぎており、関係者の所在を探すのに尚、困難な状勢となっていた次第ですが、私も年をとり何んとか自分の歩いた人生を記録しておきたいと思い、人生で一番強烈に印象に」残っている戦争体験からとはじめたのが別冊のようなものでございます。 私は 昭和十八年志集の現役兵で、昭和十七年四月開隊した第一気象隊(三重県鈴鹿市)に昭和十九年四月一日入営、気象修習を命ぜられ、教育を受け、同七月十五日一期の検閲が修了すると同時に第四航空軍第四飛行師団に転属となり、同年八月マニラに到着、 第二十二野気に配属となり、同八月二十五日第二中隊勤務を命ぜられ、八月三十一日ミンダナオ島ダリヤオンに赴任、同隊予報班勤務となり、中隊先任将校であられた、宮之原様を知る機会を得ました。 当時、中隊兵舎にはラサンからダリヤオンに移籍したばかりで、椰子林の中に中隊事務室 、炊事、経兵所、車庫、各班兵舎のニッパハウスが点在しておりました。 予報班の兵舎には宮之原様、小隊長楢崎健夫少尉(復員したが昭和五十年に病没と判明)等下士官、兵共に同居しておりました。 軍隊といっても当時の内務班の雰囲気は家庭的な集団で、私達初年兵にとってはよい内務班でした。 気象業務の余暇にはバナナ、パパイアなど野菜や果物収集、海岸で漁,製塩、製油(ヤシ油)作業をしたり、水際陣地の構築などをしており、米軍がレイテ島に上陸する前ころから飛行場に対する空爆が強化され、穴のあいた滑走路の補修作業に動員されましたが、飛行機(日本)が来なくなり作業もなくなりました。 昭和二十年四月、米軍がコタバトに上陸した時には師団命令により水際陣地を放棄し、中隊本部はダリヤオンからマナンプランに移動してバンカスに陣地を構築中でした。 宮之原様は二十年三月中旬頃からパタダ(デゴス)の南に出張中で、米軍の上陸で急遽中隊復帰すべく同地を出発されたが、米軍の侵攻、ゲリラの浸透が早く海岸線道路は通行不能の状況でアポ山(ミンダナオ島最高の火山)の裾を迂回し徒歩で中隊に復帰されました。 それが五月十八日で、中隊は前夜から主力をもって敵陣への斬込み、輸送車両への攻撃を敢行しておりました。 この斬込みで後藤中隊長(静岡県出身、歩兵科から転科、少尉候補第二十一期)は戦死され、その後先任将校であられた宮之原様が中隊の指揮をとることになりました。 その頃、ダバオ平野の守備の要となっていたミニタル(百師団司令部があった)正面の第一線陣地は破綻寸前にあり、中隊は第二線陣地タクナンの守備を命ぜられ、タクナンに急遽移動。陣地確保に敢斗するも第一線突破の余勢をかって進攻する米軍の攻撃は強力で、一歩一陣と後退を余儀なくされ、米軍と接触し乍らの後退で、一番犠牲者を出し、苦戦の時期でした。 宮之原様もカリヤオ高地を占領中の六月十六日米軍の戦闘爆撃機の攻撃を受け、頭部に爆弾破片創負傷をされ海軍病院に収容されました。 七月四日一応中隊復帰はされましたが、受傷部位は完治しておらず、中隊付衛生班長牧田軍曹が治療を続けておりました。 七月中旬、中隊は最後の拠点となった翼山陣地に転じ、そこで陣地守備と自活の体制に入りました。 この頃米軍も組織的な攻撃は仕掛けてこなくなり、時折ゲリラの攻撃程度でした。 又当時の中隊の体制は健常者は殆どなく、とにかく朝動ける者がその日の勤務にあたるよいった状況でした。 私は 六月中旬頃から衛生班(下士官に兵士)の補助を命ぜられ負傷者、病者の搬送、給与一切を衛生兵二人で担当していました。これらの負傷者、病者も薬がないため倒れたものを寝かせておくだけで、再起できず次々と亡くなっていきました。 七月中旬翼山陣地到着後は前記の戦況で落付いてまいったので医務室補助を解除され陣地復帰となり、同時に中隊長当番を命ぜられました。 宮之原様は負傷、マラリヤ発病、それに食料不足で大変衰弱しておられましたが、食事と言っても米なく粗末な雑炊でしたが何時もお美味しいの連発で召し上がってくれました。あの時のお顔は今でも眼底深く焼付いております。 私も八月十日頃遂にマラリヤで倒れ入室してしまい。 宮之原様の亡くなられた時の状況は詳しくはわかりませんが前記の様な状況でベッドに寝たり坐ったりの状態でした。 終戦後は、ラサン飛行場で武装解除され、ダリヤオンPW収容所に収容され、十一月二十五日に復員(浦賀)しました。 さきにもふれましたが昭和五十二年五月になって当時の庶務、兵器班長 伯野廣次様(住所)にお逢いする機会があり伺いましたところ「復員後、戦没されたご遺族宅をまわり遺品、遺骨などをお届けしご供養された」ということを話しておられました。 その記録によれば 昭和二十一年十一月二十二日に宮之原宅訪問とされておりました。 別冊の私のメモ 第五部 中隊長備忘録を読んでいただければ中隊長さんの行動、中隊の行動等がよくおわかりになると思います。 折込みの地図は手書きのものですが独歩一六四大隊(旧中部隊)が作戦用に航空写真を基に作成した五萬分の一の地図を縮少手書きしたもので正確なものではありませんが大体の位置はつかめると思います。 中隊の行動図は中隊長備忘録、師団戦記、私の記憶で記載したものです。 又戦没者の戦没地点は伯野様が作成、陸軍省に報告された戦没者名簿を参考に地図上に記しました。(私は確認した方々も沢山ありますが) 第一部ダバオ地区守備部隊の戦斗作戦概要は第百師団大野参謀「ダバオ奮戦記」を参考に記録したものです。 以上概要をお知らせ申し上げます。 ご遺族の方々が知りたいと思っておられることを知る一助ともなれば幸いでございます。 向寒の折益々ご自愛なされますように 敬具 十二月二十一日 今村兼次 宮之原和人様 追伸
第二十二野戦気象隊 大隊長(終戦時はルソン島) 陸士 五〇期 佐野年久 様 (住所)
第二中隊将校で生存者 通信小隊長(昭和十六年予備少尉) 高見栄治 様 (住所) 高見様五月一日 通信小隊十六名と共に州師団通信要員として師団司令部に派遣されたため中隊の戦闘行動については知っておられないがそれ以前のことはよく知っておられると思います。
中隊庶務班長 伯野廣次 様 (住所) 昭和十六年七月関特演で動員召集され満州、台湾、ルソン島。第二十二野気編成から終戦まで在隊された方で、中隊のことは詳しく知っている方で、住所の判明する唯一の方ですが昭和二年志集兵ですから大分考令です。
昭和十七年志集現役兵 稲澤 栄 様 予報班(元北海道電力(株)勤務) (住所)
現地採用軍属(在留邦人の子弟) 予報班 愛澤忠信 様 (住所) 以上 別冊のメモは乱筆で読みにくいと思いますが急ぐこともないので、ゆっくりと御被見ください。 注;上記は手書きの文面を文字入力したものです。文体、送り仮名等は出来るだけ原文のままに留めましたが、句読点を適宜加えてあります。難読文字にはその文字の複写を挿入しました。私の誤読が無いとは言えませんので、以下の複写を参考にご覧ください。 |