伯野廣次氏の手紙―1

 

以下は伯野廣次氏が宮之原右近さんの弟和人さんにあてた手紙です。伯野氏は右近さんの部下としてフィリピン戦線で右近さんと最後まで一緒に戦いました。伯野氏は和人さんの求めに応じ、右近さんの最後の模様を教えて下さいました。

 

 

 大変おそくなり申譯ありません。 小生明治四十年生まれの昭和二年兵であり、昭和三年一月太刀洗飛四入管。後備の老兵として、今次の大戦に最古参兵として応召。三十五才から四十才の八月終戦まで、気象隊員として北満チチハル、台湾東、十六年十二月比島敵前上陸。以後マニラの大隊本部兵器係として勤務。ついで南部比島のミンダナオ州ダバオ第二中隊兵器係下士官として勤務。以後終戦までガバオ市の各飛行場に駐留。ダバオ市は東西八十粁。富士山規模以上のアポ火山麓に大小十六の飛行場あり。マニラの大隊本部の命により、中隊本部の所在地を転々と変えましたが、任務は兵器係下士官として、また中隊本部の内務班長として、常に中隊本部に、佐野松本後藤中隊長の幕下にあり。二十年五月後藤中隊長戦死後は、宮之原中隊長と最後まで行動を共にしたものであります。

 

 宮之原見習士官として池、北満、南台湾まで起居を共にし、比島では大隊本部と第二中隊とは居所を別にしましたが、昭和十七年には第二中隊は比島南部に展開。其後第二中隊の兵器統制を円滑にするため、小生が責任者として南部比島に派遣された次第です。 宮之原中尉は観測及び予報係将校として常に中隊本部の中堅として活躍せられ、併せて兵器の交附及び増加申請には、宮之原中尉を通して軍の中心に働きかけたのでありますが、元来小生は幼少のことより歴史研究に興味を持ち、キリシタン大名であり、比島に追放された高山右近の行跡や、防長の大内氏毛利氏時代の潜伏キリシタン関係の文献を多数あつめ研究して居りますので、氏名の宮之原右近について、高山右近を連想してお尋ねいたしましたところ、笑い居られた次第であります。もともと氏名は幼少のとき御尊父が名附られるので、これ亦立派な篤信者であったと思います。

 

 ダバオ市は東西八十粁近く、在留邦人二万余あり、マニラ麻や農産加工に従事し、また山口県人も多数あり、是等の邦人は終戦近くになり、次第に住居地域や生活も狭まり、軍に協力の命令あり、近くの部隊に編入されましたところ、後藤中隊長宮之原中尉の許可を得て、気象中隊に多数編入。併せて食料の増産に従事させ、軽度の病気治療には中隊衛生兵に初度の医薬を与えて信頼されて居りました。

 

 軍司令部に再三宮之原中尉と共に、命令受領または兵器物品受領に行きましたが、その都度飛行機よりの爆弾投下、機銃掃射を受けた際は、邦人のタコ壺にかくれ潜み、その掃射の終るを待ち、終了後隣のタコ壺に宮之原中尉如何ですかと声をかけますと、何時も小型の聖書を手にして居られ、平時と変らない状態でした。

 

 比島レイテに米軍上陸。比島は南北に分断せられ、二十年四月下旬から米豪軍のダバオ攻撃あり。次第にダバオ東西八十粁の戦線は西から東へと攻め立てられ、当時一番右翼の西にあった気象第二中隊は、かねてから埋設した陣地も、科学兵器の前にはあっけなく撃破せられ、全軍あげての反撃中、五月十八日後藤中隊長壮烈な戦死あり。以後主任将校であった宮之原中尉を長として、アポ火山中腹を転々として東へ移動し乍ら交戦を続けました次第。 ダバオ湾上からの艦砲射撃、飛行機による爆弾投下、機銃掃射あり。加えて熱帯病であるマラリアがあり絶えず悩まされ、食料は山野で各自採取。続々と戦死または病没して、全く明日の身が知れない状況下でありました。

 

 小生は佐賀県有田の陶器製産販売の商家八人兄弟の中に生まれ、幼少より貧しく耐乏生活になれ、山口県の親族をついだ者ですが、現役中は二ヶ年保護兵として激務を禁じられて居りましたが、比島上陸後は一番先きにマラリヤ、デング熱にかかり、四年比島生活後半のころは若年免疫したものか、後続入隊した将兵が、各種の熱病にかかって苦しんで居ります頃は、小生割合に壮健で、いつも後藤宮之原亮中隊長の傍らにあり、戦闘指揮班長として百五十余の残る兵の中堅となって、後退作戦を練り、特に宮之原中隊長から、たほれゆく将兵を、手厚く埋葬してやれと、絶えず言はれ、その都度観音経を読んで埋葬し、遺髪は全て封筒におさめて居りましたので、一部のものの遺品も収めて持ち帰って、終戦後二十一年六月頃迄に、東北を除く鹿児島、熊本、宮崎、大分、福岡、ナガサキ、山口、島根、鳥取、岡山、愛媛、高知、香川、愛知、静岡、東京、埼玉、群馬、栃木、三重県と各将兵戦友宅を自費で廻り、戦没されました状況を御報告申し上げ、または公式葬儀の際は再度訪ね,隊長に代って弔辞を述べました次第です。

 

 宮之原中尉の最後は、二十年六月十六日、ダバオ市の北部長峰高地にて他の下士官兵七名爆撃戦死の際、首の背後に爆傷を受けられ、七八月の後退に苦るしみに耐えつつ中隊を指揮、ダバオ市の全軍将兵、次第に追い立てられましたが、殆どマラリヤや熱病赤痢に苦しみ、餓死するものも続出、上官一同合議の上、歩兵部隊が棄て去った翼高地の前線半永久陣地を中心として、敵軍と対峙、最後まで切り込み作戦を続けましたが、これは裏をかえせば、生い茂ったジャングルの中、三、四名で食料採取を兼ねたやうなもので、敵軍は我が日本軍の勇猛な斬り込みにおそれをなして居り、至るところ食料採取ができる。飛行機による爆弾投下、艦砲射撃のときは防空壕にひそみ、敵兵の接近顔が見えた折にのみ、小銃を撃つという情けない状況でしたが、敵の方もわが軍の戦法におそれて一歩も追い出し得ず、終戦八月十五日を迎えた様な次第で。宮之原中隊長も首の傷に耐えられ、後方の軍からの命令受領は、いつも小生で、往復四十粁、ジャングルの中、土民の中を絶えず警戒しつつ往復したものでしたが、此の頃次第に命運尽きた将兵が次第に亡くなり、九月四日十九時、翼山陣地の仮設病舎に宮之原中隊長は絶命された次第であります。翌日傍らに一同して埋葬。 次いで九月十三日から軍命令により下山。ラサン飛行場跡に投降。次いでダバオ市西郊のダリヤオン飛行場の仮設天幕に投降生活。

 

 この間敵軍将兵墓地清掃に刈り出されましたが、其の多数さに驚くと同時に、斃れた我が軍将兵も、さぞや安んじて瞑目したことであろうと話し合ったものです。

 

 十一月七日ダバオ出発。十一月十七日神奈川県浦賀上陸。重砲兵隊舎で終戦処理。二十二日解散。このころ気象隊兵は鹿児島其他で順次上陸解散しましたが、小生は横浜から東海道線を下り、此の十一月二十二日三時ごろ、小田原市幸町の教会に御母堂様らしき老夫人を訪ね、御遺髪をお渡し戦斗状況を詳細ご報告申し上げましたが、突然のことであり、悲しみにくれ、さぞ心もうつろであったろうとお察し申上げます。その時承った家族状況は、御尊父伸次郎(亡)、長男右近中隊長、次男あり、義兄宮内俊三氏と承り「メモ」して居り、小生背嚢にはなほ七十余名の英霊遺品あり。最初のことではあり、気もそぞろに辞去。

 

 次いで沼津市に下車、沼津市下香貫の藤井六郎君の英霊を届け一宿。翌二十三日はお隣の静岡市に戦者一名と、後藤中隊長宅を訪ねましたが、全市焼亡して居り、探しあぐねて、むなしく西下。十一月二十五日帰郷致しました次第です。

 

 其後は前述の通り、鹿児島、宮崎、大分から島根鳥取岡山、更に四国の愛媛高地香川と廻り、更に愛知静岡関東各県を廻りましたが、二十年五月十七日、各隊とも小隊分隊ごとに敵陣斬り込みの前夜、特に後藤中隊長から呼ばれ、肩を並べて寝にいきましたが、転々として明日は最後だと、ねむられぬ一夜、隊長の郷里はどこですかと尋ねましたところ、伊豆修善寺で菓子製造しているとの一語が記憶に残り、東京に居ました次兄に手紙しましたところ、次兄の妻の母親が修善寺出身であり、記憶ありとのこと。直ちに警察力を動員して転居先が判り、九州山陰中四国東海と遺族宅を廻り、御命日の五月十八日に、集られた親族家族御一同に英霊(遺髪)と、最後戦死当時使用された軍帽(翌日現地で収)絶筆の戦斗報告書をお届け致し、悲しみのなかにも、よろこんでいただきました。

 

 次いで関東地方の埼玉群馬栃木の三県に廻り、旧陸軍省に「気象第二中隊戦斗及び戦没者名簿」を届けましたのが、今回発行(六十年十二月刊)されました巻末の詳細記述であります。

 

 当時小生次兄館林三喜男は、東京大学政治科を出て内務省警保局に勤め、警察課長から開戦と共に翼賛中央本部長、終戦内閣の鈴木貫太郎首相主席秘書官、次いで東京都の教育局長。間もなく追放されましたが、東京の宅は焼亡。やむなく岳父、すなはち妻の父でありました河井彌八先生宅に同居。なほ河井先生は皇后宮太夫から鈴木貫太郎侍従長が首相就任前後に、侍従次長から貴族院議員となり、緑風会を代表して貴族院議長。 終戦後の第一回選挙に、郷里静岡県掛川の郷里から、参議院議員となり、重ねて緑風会から参議院議長として在職の前後であり、毎日小生も河井先生と顔を合はせ、悲惨な気象第二中隊と後藤、宮之原中隊の最後を詳細申し上げましたところ、一カ月一度程度宮中に参内。皇后陛下に近況をお話し上げ、陛下から「まことに御苦労でありました」とお言葉を賜り、賜品いただきました。まことに光栄の至りであります。

 

 また河井先生からは前年の勅題「雪下松」を詠まれた“吹きおろすこほりのゆきにうつもれて、まなこむとしをえとろふの松”の色紙をいただきました。 その河井先生の奥さんが、前述の伊豆修善寺の出身で、後藤中隊長の幼少時代を知り、住所が判り、急いで静岡市の旧居近くの居を定め、東京入京前五月十八日御遺族とお逢いいたしました次第。

 

 また五月十四日名古屋市南区呼に加藤軍曹宅を尋ねましたが、全市焼亡。困りましたので、上京中仲兄に詳細話しましたところ、当時愛知県警察部長が学友であり、自動車工場経由という線で警察力を動員、調査連絡。四五日の短時日に旧家を解体移動再建、壁も乾かぬ家に招じられ、英霊(遺髪)、遺お手渡し、戦斗状況を報告申し上げ、御遺族ともども県警本部長に御礼に参上。以後は三重県二見ヶ浦と○○の〇〇准尉宅、岡山県笠岡市の遺族宅を、廻って帰宅しました。

 

 尚ほ仲兄館林三喜男(タテバヤシ・ミキオ)は、追放解除後、郷里佐賀県から代議士四回当選三木派であり、以降佐賀県出身であり当時経営の神さまといはれた市村清さんの「リコウ」を引受け二代目社長となり、十年引継いで仕。在職中の無理が重なり先年病没しました。

 

 小生は大正三年以来山口県の親族宅を継ぎましたが、家職写眞業の二代目として世界に冠たる小野田セメント会社本社の所在地で、その寫眞業指定を受け、併せて余暇をあげて戦前に小野田史改詿会を結成。小野田郷士研究十冊を創刊発行。昭和十六年応召。戦後は山口県知事から文化功労章受章。小野田市史編纂。現在文化財委員として家職を続けて居りますが、戦後四十年を越えて七十九才の老境であり、古書籍の中に埋もれ、上世の奈良平安鎌倉時代の地方政治史に関心をもち稿を続けて居り。 貴地の多賀城跡関係書も数冊あり。(編者注;宮之原和人さんは仙台市在住) 秋田県の大湯環状列石、秋田出羽棚、大出市の払田棚、山形県酒田の城輪柵、岩手県水沢の胆沢城、平泉中尊寺など、古代兵制との関係を知るところあり。現代の兵制「伍長軍曹」の起源も、此のときに初源があり。軍曹とは軍の書記をさし、其の起源の古さを知るところです。

 

 昭和五十四年五月十二日東京靖國神社にて、気象隊第一回慰霊祭を行い参列。漸く責任を果たし安んじました。以後若干の関係書類を一まとめとして、格納したまま蔵書一万余冊の中に仕舞いこんで、行方知れず。ここに一カ月余の時日がかかり、漸く探し出して、前後の事情、第二中隊の悪戦苦闘を書き終えました。何卒御海容下さい。

 

 昭和六十一年二月十八日

山口県 小野田市千代町 伯野廣次

 

 

 

注;上記は手書きの文面を文字入力したものです。文体、送り仮名等は出来るだけ原文のままに留めましたが、句読点を適宜加えてあります。難読文字にはその文字の複写を挿入しました。私の誤読が無いとは言えませんので、以下の複写を参考にご覧ください。