伯野廣次氏の手紙―2

 

以下は伯野廣次が宮之原和人さんに宛てた第2の書簡です。日付が昭和61(1986)年3月15日となっています。 第一の書簡の日付が昭和612月18日ですから、和人さんは2月に伯野氏から書簡を受取り、早速菓子を添えて礼状を送、それに対して伯野氏が返礼したのがこの書状になるでしょう。

 

 

 

拝復

 過日は御丁重な御返事、また結構な仙台銘菓の御送付を賜り、有難くいただきました。心から御礼申し上げます。少しく原稿の〆切りに追はれ御返事がおくれました次第、何卒御海容下さい。

 

 同封の福岡県袋井市の今村兼次君と、愛知県幸田町の杉田君の来信がありましたので、併せて御覧下さい。共に昭和十九年十二月ごろ、ダバオ市東部ラサンに分駐しました。加藤少尉野田軍曹以下の小隊で、前中期の交戦なく、次第にダバオ西地区から撃破された中隊本部にくらべ、全員元気旺盛でしたが、合流以降は主戦力となり、翼山陣地で悪戦苦闘。野田軍曹は、小生昭和三年太刀注飛四時代の古参戦友であり(戦史二一七頁)今村君は戦後警察官となり警視として静岡県内各署をまわり、最近退職。杉田君は自営業として雑貨商、トヨタ自動車の拡張につぐ拡張、周辺都市の発達で好況の様子。横須賀上陸後、小田原の次に尋ねた沼津の藤井六郎君と今村君など最後の召集兵で、みんな後藤中隊長宮之原中尉のもとに、よく一致して従軍苦斗してくれたものでしたが、二一五頁のKの如き山口鴻城中学卒業後、野気二中隊幹部となり、どこから情報を得たか、軍重要文書を持にげて、投降したらしく、戦後韓国軍の中堅となった様子。 また負傷、マラリヤなどで作戦地を避けまわり、保身につとめ、八月十五日の終戦後、ようやく中隊を尋ね来たやうなものも多数あり。残る多数の若い兵士諸君は五月十八日後藤中隊長戦死後は、先任「宮之原中隊」として一致団結。再三危難を乗り越えて、アポ火山麓の戦線を、西から東へと転々として応戦し乍ら移動しましたが、これは宮之原中隊長の神のやうな私心のない指揮統率によるもので、「よくやって呉れた手厚く埋葬してやれ」と、絶えず言われ、小生所持の小型の「観音経」を、二一九頁の松本智伍長に、読み方を習って、其の都度、他の部隊のやうに野ざらしにすることなく、砲煙やんだ夕方から埋葬、「明日は吾が身」として、こうなるかと、たがいに信頼し合い、比較的元気があった小生のもとに、団結し合ったものでした。

 

 宮之原中隊長の廃部の負傷も、医薬品も少なくなり、「赤チン」程度。軍医も出先の中隊には居ず、死なせずにすんだ多数の将兵に、毎日「まなこ」を閉じ手を合はせるのみでした。

 

 で横須賀浦賀上陸。浦賀は嘉永六年六月米艦ぺリーの上陸した旧跡で、戦勝米軍ながら「あっぱれ」で、以降重砲兵隊舎で解散帰郷。東北を除く全国各地の将兵遺族宅に参上。敗戦状況を詳細ご報告申上げ、涙のうちにも、よく聞いてくださいまして、現在でも出征兵士で戦没地や、状況が不明の方が多くあるなかで、よいことをしたと所存しております。これひとえに、後藤中隊長と敵陣斬込み最後の一夜を、枕を並べて寝にいきましたが、たがいに今夜が最後とは考えながらも、最善を皇国のためつくすといふ点には変りはなく、夜あけと共に最後の朝食もそこそこに、各分隊指示通りに前線に斬り込みました次第。

 

 宮之原中尉は此のとき、更に西方の陣地にあった分隊の引上げ退去の連絡のため不在。米軍急進撃の戦線をくぐり抜けて、遠くアポ火山の中腹を廻りまわって、隊長戦死直後帰隊されました。

 

 これ以降は前回に書きました通りで、気象隊第二中隊戦史に見える通りで、火器は全くなく、十六年十月台湾高雄乗船の際に一ヶ大隊4五十余人に対し、小銃三十丁、弾薬一丁に対し六十発宛を強制的に入手し、これを大隊本部と第二中隊に十五丁宛配分。これがただ一の攻撃兵器で、リンガエン敵陣上陸後は、比軍の棄て去った比軍小銃を若干押収しましたが、発射銃声が敵軍襲来かとまぎらわしく、つとめて使用せず、ただ最後のとき使用。交付されました地雷も三カ所埋設しましたが、敵軍も電波探知機で何れも失敗。次に敵砲弾を使用して、水道管を転用して大砲の代用とし、一粁は飛びましたが、上空から絶えず観測機が監視して居り、三発も撃てば、間もなく煙の出た発射地点には、敵陣から雨のやうな砲弾が飛んで来て、直ちに裏側の陣地防空壕にさけて潜みましたが、砲兵陣地ありとして、一応は敵軍の進出を阻止し得ましたことは、兵器係下士官として、極めて痛快なことでした。

 

 また腰にはダイナマイトと信管導大線を利用して小水道管を、火工長から指導されて造ったこともあり、自動車の折れたスプリングを利用して竹や木の生にかけ、槍の、代用したこともあり。兵器の少ないので、如何に応戦するかが、万一の兵器係の任務で、結構鍛冶の心得のあるものも多数の中には居て、腰のゴボー剣ではどもならず、転進するさまを見た土人も、さぞ笑ったことだろうと思います。

 

 これが今次第一次召集の最高幹古参兵三十五から四十までの精一杯の戦力発揮であり、両中隊長から、ほめられもし、また たよりにされた次第であります。

 

 此の状況を二十一年五月上京、河井彌八先生宅に同居、苦戦の状況,二中隊長の戦没を申上げましたところ、陛下から有難いお言葉を賜りましたこと、前回ご報告申し上げました次第であります。

 

 思いつくまま若干書き綴りました。

 

 また次回に平素の生活、沖縄に米軍上陸して、内地に生きて帰えるのぞみを失った将兵は、どんな生活をしていたか、書きまとめてみたいと思いますが、身辺多事であり、今次は是で筆を止めます。

 

 昭和六十一年三月十五日             不一

伯野廣次 拝

宮之原和人様

   侍史

 

 

注;上記は手書きの文面を文字入力したものです。文体、送り仮名等は出来るだけ原文のままに留めましたが、句読点を適宜加えてあります。難読文字にはその文字の複写を挿入しました。私の誤読が無いとは言えませんので、以下の複写を参考にご覧ください。

 

 


 

 

 

以上