陸軍野戦気象隊中尉 宮之原右近さんのこと

 

注;このページは書きかけです。

本多 謙

 

宮之原右近さんは私(本多 謙)の母の兄(伯父)です。右近さんは青山学院神学部を卒業後学徒出陣し昭和24年9月4日陸軍中尉としてフィリピンで戦死しました。30歳でした。

右近さんの話は母からも義理の叔父の宮内俊三牧師からも叔父の宮之原和人さんからも折に触れ聞くことがありました。右近さんは優秀で誰からも好かれ、生きていたら牧師になって活躍し、日本のキリスト教界も随分違っていただろうと何人もの人から聞きました。俊三叔父からも、部隊の中でキリスト教の布教が許されていたのだから周囲の信望が厚かったのだろう、と聞きました。右近さんと和人さんは兄弟で仲が良かったようです。私の母本多元子(旧姓宮之原)も兄の右近さんが好きでした。

それは私に対する期待をほのめかしたものだったのでしょう。結局私は牧師にはならずに今日に至っていますが、自分が至らない思いと共に右近さんがどんな人だったかには興味がありました。そのことを和人さんに伝えていたところ和人さんから右近さんが亡くなった時の資料を頂く機会がありました。

右近さんの遺骨が戻って来ることはありませんでしたが、少々の遺品が戻って来ました。仙台にある宮之原家の墓誌には右近さんの記録が彫ってあります。右近さんが好きだった母は右近さんと同じ墓で眠りたいと遺言したのでその様に分骨しました。この墓誌には母の名前もあります。

右近さんが生きていたら、私の両親が本多家を継ぐこともなく、私も弟に裏切られて死にかけることもなかったでしょうし、周囲の期待に応えきれない思いをすることもなかっただろうと思います。せめて右近さんの概要をここに留めて偲びたいと思います。

 

上記各々、母の父(信次郎)、姉(哲子)、兄(右近)、母(まり)、本人(元子)、弟(和人)

みよは和人氏の奥様

 

誕生     1915年(大正4年)1126

学歴     1932年(昭和7年) 秋田中学を卒索 同年青山学院入学

1939年(昭和14年) 青山学院神学部卒業

兵歴      1939年(昭和14年) 徴兵検査、前期兵となる。

1940年(昭和15年) 2月 入営

同年    3月 満州、平安第2航空通信隊へ配属

某時     甲種幹部候補生となり杉並馬橋の陸軍気象部で教育を受けた。此の間は留守宅と連絡も採れ、家族とも会えたらしい。

某時     気象部を終え、所属部隊がフィリッピン・リンガエン湾に上陸。

1944年(昭和19年)5月ころ フィリッピンミンダナオ島の二十二野戦気象隊に所属。

1945年(昭和20年)9月4日 戦死。(享年30歳) 陸軍少佐に昇進。

1971年5月 勲五等双光旭日章授与

戦後

上田国太郎氏(青山学院の同窓生、気甲四会(陸軍気象幹部候補生・第四期生)の同期生)が苦労の末、妹である本多元子を捜し当てて下さった。

1985年11月6日東京、高円寺にて弟の宮之原和人氏が「気甲四会の例会」に出席を許され、上田国太郎氏から宮之原右近大尉の戦死の時に関する資料を頂いた。それを以下に示す。

 

資料集

1.      上田国太郎氏が青山学報130号交友回顧に投稿された「故宮之原右近氏について」の写し

2.      故陸軍少佐宮之原右近の歩み

3.      解決の緒口と現在までの経緯

4.      写真

5.      上田国太郎氏から直接頂いた最初の手紙・例会通知状

6.      例会の席で頂いた上田メモ

7.      中川隊長からの資料

8.      今村兼次氏手紙

9.      松本正弘氏手紙

10.    西村正春氏手紙

11.    伯野広次氏 その一

12.    伯野広次氏 その二

伯野さんが、昭和2011月に内地上陸後、自宅に帰る前に小田原の宮内俊三牧師宅へ遺品を届けて下さった。それを宮内俊三さんが弘前へ届けて下さった。

13.    昭和61年秋山口県小野田市の伯野さん宅を訪問した時下さった資料(原地で使用して居た気象用標準時計も寄贈された。)