2「認識から創造へ」

本多 謙(1971年秋)

 

§1 形而下の認識について

例えば、今、僕は鉛筆を持って文章を書いている。明らかに、僕は、僕の持っている鉛筆が僕の手の中にあることを知っている。僕はこの鉛筆に対して、「これは鉛筆である。」という風に、言語によって表現することができる。これは一つの認識活動である。僕は、僕の認識活動を言語によって表現した。このことにより、僕は、僕が、鉛筆がそこに在ることを認めていることを確認している。

 

 この鉛筆は形態を持っている。この鉛筆は鉛筆だが、僕の手に持たれている鉛筆であって、他の鉛筆ではない。従って、この鉛筆の存在を認めている僕は鉛筆の使い心地、触感をも感じている。ここで僕が感じたことを言葉によって、あるいは言語以前の言語(内言)によって自ら表現することは、僕と鉛筆との間に一対一の関係が成立している事をあきらかにしているのであり、この関係は、鉛筆と僕との関係が、単なる視覚的な関係にある場合よりも強いといえる。

 

 僕が鉛筆を使う、ということは、認識という立場に立ったとき、僕が、認識する対象に対して、ある働きかけを行った、ということを意味する。この「働きかけ」という行為は、僕の意思による場合、即ち、僕が、こうしよう、と思ってする場合と、僕の意思によらない場合、即ち、くだいて言えば、いつのまにか気が付いてみたらしていた、という場合とが考えられるだろう。僕が対象に対して働きかける強さが強い程、対象の僕に対する働きかけ、impressionも強くなる。これは、物理学の言葉をかりれば、応力である。

 

 それでは、自己と対象との認識における力学関係の主体はどちらにあるのだろうか。今は形而下における認識について言っているのだから、その対象はすべて我々の五感によって感知され得る性質のうちのいくつかをもっているとする。即ち、認識の対象はすべて、在るもの、である。だから、先ずそれが在るのであり、有るのであり、僕がそれを認識するかしないか、という問題とは無関係に存在する。我々の認識する対象は、既に存在している「もの」である。その「もの」は自発的に我々にはたらきかけてくるのだろうか。鉛筆は我々に、認識するようにはたらきかけてくるのだろうか。そうではない。鉛筆は、あくまで、以前あったところに以前あったようにあり続けるに違いない。その継続的な状態を変えるのは物理的外力であり、化学的変化だろう。人間が、そこに鉛筆のあることを認め、それに物理的力を加えるまで、鉛筆は以前の状態を保ち続けるだろう。認識をいう行為において最初に働きかけるのは、すべて人間の側である。僕が鉛筆にある外力を加えると、鉛筆は応力によって、僕にimpressionをあたえる。このとき初めて対象は僕にはたらきかけるのである。

 

 この対応の基礎は常に僕という個人である。なぜなら、人間の対象に対する最初の働きかけは僕個人によってしか行なわれないからである。複数の人々が同時の1本の鉛筆を見たとしよう。各人が1本の鉛筆に対して各々、ある「働きかけ」を行う。この働きかけは正に各々なのであって、Aなる個人とBなる個人による働きかけが同一であることはない。認識する対象の物質的位置は、一本の鉛筆であるから等しい。

 

 この一本の鉛筆は、人間Aが過去において何回か使用したものだとしよう。この鉛筆を認識するのは人間Aともう一人の人間Bで、Bはこの鉛筆をかって一度も見たことも、使ったこともないとする。とすると、この鉛筆をA,B共に認識する以前に、ABにおいては、各々この鉛筆に対する異なった立場があるはずである。対象に対する人間の側の最初の認識は、人間の、その対象に対する立場に立って行われる、だから、ABの鉛筆に対する働きかけは異なって当然である。人間Bと人間Cの間についても、ACの間についても同様である。

 

 このA,B,C,・・・における関係は鉛筆に限らない。その差異は多かれ少なかれすべてのものについてある。

 

 ABが、一本の鉛筆に対して相異なる働きかけをする。それに対して鉛筆は、ABに、その応力として、ある働きかけをする。この場合、鉛筆は、人間からの働きかけを認めて、人間に働きかけるのではない。人間が働きかけ、その結果対象が人間に働きかけるということを人間が認めるのである。この関係においても、認識の主体は人間の側であり、そうあらざるを得ない。

 

 ところで、対象は人間に、どの様に働きかけるのだろうか?AAの立場に立って対象に働きかける。対象は対象の物理的属性に従ってAにはたらきかえす。対象からは、その属性としての要素はほとんど無限にpick upできるだろう。丁度、物体がその表面の無限の凹凸によって、あらゆる方向に光を反射するようなものである。その反射し、変化した光の一部分だけが人間の網膜に写る。認識の場合もこの様なものであるといえよう。対象の、人間に働きかける部分は、対象の無限の属性の極く一部にすぎない。対象の属性のどの領域から人間が働きかけを受けるか、ということは、人間が、対象に対しておこなった、第一の働きかけの、人間の側の対象に対する立場によるだろう。その立場はA,BC,・・・各々異なるから、対象のA,B,C,・・・に対する働きかけも当然異なるであろうことが考えられる。等しいと言ってもかまわない程、異なりの小さいこともあるかも知れないが、その確率は非常に小さいのではないかと思う。この認識は孤独である。

 

§2 形而上の認識について

僕はこれまで、鉛筆をとりあつかって、形而下的存在物の認識がどういう形でなされるかを考察してきた。

 

 鉛筆が僕に「働きかけ」てきたとしよう。働きかけられるのは僕である。ここで、鉛筆と僕との一対一の関係が成立する。僕が鉛筆から受けるimpressionは、僕n内部でぼんやりした形をとる。それは「感じ」という言葉で表現できるものであろう。これは、一般に、「感じ」であって、特に、その鉛筆を見た人の注意を引き起こしたものではない。意識の集中度が極めて低いということが言えるだろう。それゆえ、その「感じ」は、人に、別の何物かが働きかければすぐに消え去ってします。一般に、その様にして失われた「感じ」が何かのきっかけで心の中に再生されることがある。再生された部分は、多くの場合「感じ」のうちで特に強いもの、むしろ「印象」とか「感激」等のカテゴリーにはいるものだろうが、その背後に、多くの、再生されずにかくれている「感じ」があるのを、認めないわけにはいかない。

 

 そのような「感じ」は拡大されると、「観念」の形をとる。観念というものを細分して、そのうちから、任意の観念αを形成する「感じ」が限定されるであろう。「感じ」全体を細分して、αを形成するその「感じ」の部分をβとすると、βの要素が集積してαを形成する、といえなだろうか。

 

観念は、我々が、一本の鉛筆のように認識できるものである。我々が「一本の鉛筆」という観念を中心にして思いめぐらすとき、その観念は、一本の鉛筆そのものを認識したことによって得られたのである。一本の鉛筆は形而下に属する。ここで、我々が形而上的事物を認識している場合、その形而上的事物は形而下的事物の認識に依っている(dependしている)といえる。言葉をかえれば、形而下的存在物は(認識者と対峙したとき)形而上的属性を有している、ということであり、更に、形而下の事物が認識者に与えるインプット(input)には常に形而上的なあるものが付随している、ということである。このようにして得られた観念は、一本の鉛筆について既に述べたように、認識者と一対一の関係を持つ。

 

諸官憲はさらに抽象されて概念となる。概念の観念に対する関係は、概念の、形而下的事物に対する関係によく似ている。即ち、形而上に対する認識は、形而下に対する認識をbaseとする。

 

形而下の認識が孤独であると先に述べた。形而上の認識が形而下のそれを基底としている限り、形而上のそれも又孤独である。言語による表現が同一であっても、それは形而上の認識の孤独性を否定するものではない。孤独という表現の代りに、独自という表現を用いても良いだろう。自己に認識は自他の認識と同一であることはあり得ない。化学的事実について我々は同一の認識を持ち得るようにみえる。しかしながら、今まで述べて来た意味において、それは同一ではない。

 

認識が孤独である、ということは、一個人において、その認識が一つの閉ざされた系をつくっていることを示している。ここに、一つの認識体系としての個人の存在の可能性が成立する。

 

§3 創造について

以上、認識について述べてきた内容から創造へ話しをもってゆくのは、飛躍がそうとうあるのだが、紙数の制限もあるので、創造性について述べることにしよう。

 

認識という行為によって我々は、我々の感覚でとらえ得るものを自己の内部で処理する。これは我々を取り巻いている事物と、我々自身との関係を明らかにすることだ、といえるだろう。これは自分自身を位置付けることであり、敷衍すれば、自分自身の存在している「場」を発見することであり、その「場」を確認することでもある。言うなれば、内省を伴った高次の「認識活動」は、我々の「視座の確保」をするはたらきを持つ。高いところに登れば視界が広がるように、我々は認識活動によって我々の物をみる立場を高めることができる。そして、座標(立場)を変えれば、1つの図形が異なった表現で表されるように、我々の、対象に対する認識、対象の、我々に対する働きかけも異なってくる。

 

さて、創造を、「これまでなかったところに新しいものを造り出すことであり、創造活動によって造り出されたものと既成のものとの間には或る不連続性がなければならない。」と定義しよう。

 

我々に、解決すべき問題が与えられたとき、我々はその問題についていろいろ検討する。即ち、認識活動を行うことによって新しい視座を獲得しようとする。問題が既成のパターンによって解き得るのなら、その方法が最も安易で、且つ経済的である。しかし創造性という範囲内で問題を解こうとするとき、又、問題を解くことによって創造的な成果をおさめようとするならば、創造の定義より、新しい視座は彼独自のものでなければならない。

 

実際問題として、我々(複数の人間)に、共通の一つの問題が与えられたとき、その解法が同一であったり、解決し得なかった原因が同一であることは、よくあることである。同一の認識からは同一の結果しか生じないから、同一の、(一般的な意味での)認識をしているのなら、その結果も各人一様であって、これは創造的とは言えない。しかし、厳密な意味での認識は孤独だから、異なる結果が生じる可能性は有る。

 

創造的な問題解決は、解決しようとする問題に対して、認識する人間が、その人独自の視座を発見することによって得られるのだろう。独自の視座の発見は「背後にかくれて」いる「感じ」を追求してゆくことによっても得られるだろう。その為の実際的なテクニックが雑誌等に掲載されている。これらのテクニックは、しかし、あくまでも、創造的な発見をし得る状態の近くまで人間を引き上げて行く、に限られているようだ。」

 

 

注;この小文は筆者が21歳の時に書いたものです。筆者の中学生、高校生時代に行った様々な思索の一部を言語化してまとめてみようと思い立ち、昔の記憶の断片を拾い集めて書いた、備忘録のようなものです。

これを当時の藤木正三牧師(京都御幸町教会)にお見せしたら、「京都にはこういうことを考える人の集まりがあるから紹介しようか」と誘われましたが、お断りしました。思弁だけの世界から抜け出て「これからはビジネスの世界で生きて行こう」と考えていたからでした。しかし、今70歳に手の届きそうな歳になり、科学哲学学会員として勉強会に出席したりすることを振り返れば、脱ぎ捨てた少年時代の世界にまた戻ったのだなという思いがします。