本多謙(2019/9/23) (ア) なぜ「認識」なのか 動物も認識する。餌や敵の存在を認識し、狩や逃散の行動を取る。餌や敵の存在を認識できなければ飢死するか敵に食べられる。植物も認識する。日照時間や湿度温度の変化を認識し、多くの種は春に発芽し、秋に結実し落葉する。この条件と行動は遺伝子に組み込まれ、遺伝子に書かれてある通りに実行できないと個体としての植物としては消滅する。 だが、動物は成人の様な頭脳(大脳、小脳、脳幹など)は無いので彼らの認識は人間の幼児程度だろうと思われる。植物には頭脳が無いから彼らの認識は神経反射の集積がほとんどだろうと思われる。これらの評価は動物学、植物学、脳科学の進展に依って変わるだろう。 胎内記憶の研究などで、胚から誕生に至る過程の胎内児が母親や音や光を認識しそれに反応することが分かっている。彼らの“認識”は動物のものと大差無いかも知れない。動物学の研究により類人猿は2~3歳程度の人間の知能を持っていることが分かっている。成長したゴリラは「死」がどういうものかを理解しそれに関する哲学的会話ができたという研究がある。このゴリラの死に対する認識がどの程度“哲学的”なのかは情報が不足していて分からないが、ゴリラが死んだ同類を弔わないことから、その認識は人間のものと比べて原始的だろう。死者と弔うことは社会的な、文明的な行為だからだ。 胎内児、幼児、児童は光、温度、寒冷などの様々な刺激を知覚し、対応して育つ。その或るものは認識に至るだろう。知覚と認識の境界ははっきりしない。親に叩かれれば痛いと近くするが、親に虐められれて育てば親はどんなものかについて認識する。認識には意識と意志が伴うが近くにはそれらが伴わない。 親に虐待された子供は親が自分にとって危険な存在であることを認識し、他の大人に助を求めたりする。認識には行動も伴う。「はじめに」の項で筆者は中学一年生の時に地球の周囲に存在する空気の“存在”を“認識”したことを記した。この“認識”はそれに続く様々な思索という行動を導いた。幼児期の虐待の記憶はある時点で当人の内心に自分はどうやって生きてゆくべきかという認識を産み、当人はそれを基にひねくれて、あるいは力強く生きてゆこうとするだろう。幼児期に何度も徒競走で表彰されれば当人は自分が他者より走るのが早いことを自覚(認識)し、陸上競技の世界で生きて行こうとするかも知れない。 この様に考えれば、“認識”は人間のあらゆる行為の基本になる概念だと言って良いだろう。認識の構造を明らかにし、それを基に人間のあらゆる行為を構造的に説明することができるのではないか。 (イ) 形而下の認識について 前項「認識から創造へ」を参照されたい。 (ウ) 形而上の認識について 前項「認識から創造へ」を参照されたい。 (エ) 錯誤について 心理学や脳科学の発達で人間は事実を事実の通りに認識するのではなく、自分の認識したいように認識すること、認識した内容(記憶)が時間の経過と共に変容すること、対象を選んで認識すること等が分かっている。 哲学的考察の対象として認識を考えるなら、錯誤だったことが分かる認識があればそれを削除し正しい認識を基に考察を行うべきだろう。 (オ) 感情的認識と客観的認識について |