4     時間と認識

本多謙(2019/109/22

 

ここでは延びたり縮んだりする相対性原理の世界での時間ではなく日常生活上の時間の認識について述べる。それは日常生活では天が頭上にあり地が足下にあることについて述べるのであって、球体である地球上に住む人間にとっての天と地の認識について述べないことと似ている。

 

時間は感覚的存在の、又は知覚的存在の我々を含む世界、もしくは系(system)の一つである。

 

 さて、我々は生きている訳だが、我々は現在において生きているわけである。時間を視覚的に表現すれば、現在とは、或る直線上を一方向に移動して止まる事のない点のように、常に過去から未来へ向けて移り変わって行く、その点である。従って現在は過去でも未来でもないが、常に過去へと移行しつつある。故に現在において我々が生きていることは、常に我々が過去的な存在へ移行しつつあることだと言えよう。認識という行為は生きている我々によってなされる行為の一つだから、常にこの現在という点において行われる。しかし現在における認識は未来へと投影されるだろう。なぜなら、それは現在が過去の結果(consequence)として成立しているからだ。不連続に見える現象があても、それは弾丸の発射と引き金を引く動作の結果(consequence)として派生した現象である。雨が突然降りだしても、それは雨雲の湿度が臨界点に達したからだ。

 

 我々は常に現在において生きている。換言すれば、我々が生きているのは常に現在でしかあり得ない。過去に生きる人があるとすれば彼は現在における過去において生きているのであり、その過去とは、常に現在化されたものに他ならないだろう。未来についても同様である。

 

 我々が或る体験をする。その体験は直ちに過去におけるものとなってしまう。あるいはなってしまいつつある。この様な過去における体験は、形而上、形而下において現在となっている未来にあった一点においてそのままではあり得ない。体験は変容する。現在における過去とはその変容した過去である。

 

 認識は孤独である。従って現在における過去の体験、即ち現在化され、変容した過去の体験は現在においても孤独である。現在における体験は斯様に我々を拘束する。現在になるであろうところの、時間における一つの点、即ち未来における我々の姿、形態を我々は想定したり想像したりするが、それはあくまでも現在において行われる行為である。未来において発生するであろう現象について述べるものがあるとすれば、それは現在においてなされたのであり、もしくは現在化された過去においてなされたのである。従って未来における出来事を現在において述べることは予測の域を出ず、従って常に可能性の枠内に止っている。即ちそれは現在化された未来におけるものである。例えば我々が明日何処かを歩くであろう事はほとんど確かであるが、それは未来において成立する事実ではなく、現在において成立する。即ち現在化された未来において成立する事実である。

 

 以上の意味において、我々には過去はあり得ない。未来においても同様である。斯様に現在は我々の存在すべてを含んでいる。何故なら現在は上の意味において未来と過去を含み、現在という時間の一点において我々は我々に付随するすべての状況と共に存在するからである。例えば我々が永遠について思いめぐらすとき、その永遠なるものはあくまでも現在におけるもの、即ち現在に含まれている我々自身の内部にしか存在しないものだからである。その永遠は未来、又過去に向って投影されている。

 

 我々は成長し、老い衰える。この過程における我々の現在の状態は我々の過去を表している。我々の現在における肉体及び精神は我々の過去無くして成り立たないからである。それは過去の我々の姿を示す一種の史料であろう。我々の認識する過去はそうした「史料の認識」によるものであるといえるだろう。

 

 

しかし、個人の認識を離れて、我々が日常生きる世界について考えるなら、少し違ったことが言える。我々が日常生きる世界は家庭や職場や両者を繋ぐ道路や交通機関などで構成されている。例えば私が住む住宅地は私が何もないところから作ったものだろうか?そうではない。私以外の複数の誰かが構想し、設計し、建設の手立てを整え、工事し、販売したものだ。我々の住む所は様々な形態において自分以外の多くの人間が過去に行った行為の集積だ。山や湖や海や虹や宇宙の星々などの自然界にある物も、我々がどの様に認識するかを自分以外の誰かが決めてあって、我々はそれに対して受容や反発などの反応をする。例えば聖書には虹は洪水を二度と起こさない神の宣言だと書いてある。他の民族の神話では虹を異なるように定義してある。これらの定義は過去において行われたものであり、我々はそれを聞くなり読むなりして対象のイメージを頭脳に蓄積する。キリスト教徒は虹を見る時神との洪水に関する契約を想起する。この様な行為は前段でいう「史料の認識」に相当する。

 

我々は、いわば都市に住んでいるようなものだ。都市は道路や建物は都市を維持するための様々な設備で構成されている。これらは過去において誰かが作り上げたものだ。我々は歩くとき道路を、通路を歩く。誰も真っ直ぐに進もうとして目の前に立ちはだかった建物を壊したりしない。我々は建物の周囲の道路を歩む。即ち、我々は建物や道路などの過去の「史料を認識」しながら歩く。これは、いわば砂丘の上を歩くのに似ている。足下の無数の砂粒は過去において人間が作った法律や習慣や都市の構成物や予めイメージを付与された自然の構成物だ。