5 内的時間と外的時間

本多 謙(2019//11/2 記)

 

時間には二種類あるといわれる。内的時間と外的時間である。内的時間と外的時間の進行の不一致は我々の日常よく経験することである。

 

例えば我々がバスを待っている時間が10分であるとすれば、それは外的時間において10分なのである。それに対する内的時間は一様に進むのではない。空腹で寒い中をバスを待っている場合、内的時間は長い。逆に、バスを待っている間何か他の事に気を取られている、例えば大好きな曲を聞いていればその間の内的時間は短い。時間の経過を測ろうとして時計の秒針の移動を見始めた時、秒針の動きは遅く感じられるが、その遅い感じは次第に薄れて行く。この場合内的時間の進行は遅くから速くなる。

 

内的時間を計量化する方法は次の様に考えられるだろう。即ちある時間から後の他の時間(共に外的時間)にある人の心的状況がAからBに変った場合、そのへだたりが即ち内的時間の経過を表す。内的時間の進行が速いか遅いかは外的時間の進行速度に対する相対的なものと考えられる。例えば、ボクシングの試合は1ラウンドが3分間だ。試合を不利に進めていて疲労が増している選手にとって内的時間の進行は遅いだろうし、これに対して試合を有利に進めている選手にとって内的時間の進行は早いだろう。だが両者ともラウンドの終了のゴングは同時に鳴る。

 

我々の心的世界(即ち、顕在及び潜在意識において)では、このボクシングの試合の様に、外的時間は我々に一種のデータとして導入される。それに対し内的時間は我々の心的現在を形成する。ラウンド終了のゴングを聞いた選手は自分の置かれている状況が、自分のコーナーに戻って休憩やトレーナーとの相談をする状況に変ったことを想起しその様に行動するのだ。これは小説を読んだり、映画を観ていてその世界に引き込まれた場合も同様だ。即ち、我々が真に存在しているのは我々の内的時間の中であって外的時間ではなく、我々は我々の内的時間において外的時間を認識するのである。

 

心的状態がAからBに変ったときその人が時計を見て外的時間を知った場合、この外的時間は彼の心的世界において、ある出来事(event)の形態をとると言えるだろう。例えば何かの作業に集中していて疲労を覚えることがある。そういう時我々は時計を見て時間の経過を知ったりする。我々は時計を見ることにより自分が置かれている外的時間を認識するという出来事(event)を体験し、自分の内的時間と外的時間を対応させることになる。一つの認識体系としての人間の在り方において、存在する時間は内的時間である。外的時間ではない。

 

我々が疲労を感じるのは自身の肉体の中に疲労物質が蓄積してそれがある値を超えた時だと言える。疲労を感じる様な肉体の状況は外的時間と同様我々の心的世界にいくつかの出来事(event)として入り込んでくる。生命体はある物質現象、生命現象の集積にすぎない。生命体である我々の肉体は我々の精神の土台となっている。何故なら肉体が滅べば精神も無くなるからだ。死んでも精神は残るという説もあるが、それを実証するデータは無い。あるという説もあるが実証性に乏しい。

 

例えば、複数の人間が共に同じ映画を同じ時間に観た場合に、この複数の人間が体験した内的時間の長さは個々に異なる。即ち個々の人間が経験する体験は同一ではあり得ない。この種の経験が「これは真理だ」と感激する様なものであっても、上の如き意味において、共通の心的事実としての真理は存在し得ない。