6 認識の形態、その背反性

 

本多 謙 (2019/11/2 記)

我々は認識する。我々がAを認識する場合、我々はAのみを認識するのではない。我々はAAに対立するものBとの関係として認識するのである。認識はABとの関係を明らかにすることだと言っても良いだろう。又ABとの関係が明確化することは明確化以前の状態より視野が広くなったことを意味すると言って良いだろう。だがこの時点でAでもBでもないCが存在するならば、ABとの関係が明らかになる事は、ACBCとの関係が未だ明らかにならないことを意味する。この様にして我々は認識すればする程未だ認識していない世界の広がるのを感じない訳にはゆかない。

 

例えば我々が自分の前にある一本の鉛筆を認識する時、我々はその鉛筆以外の物ではない一本の鉛筆を認識しているのだ。「その鉛筆以外の物」とは机や照明や昨日同じ場所にあった本や、それを過去において読んでいた誰かを含むまたそれに限定されない一切のもの全てであり、本人の知識や経験外のもの全てだ。

 

 斯様に我々の認識活動は我々の視座を確保するが、他方我々の不可視界を広めるはたらきをもつ。結局我々の住んでいる世界は我々にとって未知なる世界だと言えないだろうか。我々の世界全般に対して感じる恐れはこの未知なる世界に対して感じる恐れに他ならないであろう。我々の認識する世界がどんなに広がっても我々の恐れの対象は減少しない。増大し続ける。我々は無限系内に置かれた小さな有限系にすぎない。

 

 我々は我々の認識領域において有限であるのみならず、我々の物的活動においても有限である。我々は我々の人生を生きるに際して多くの不可能事に出会う。我々はそれを乗り越えようとするが能わぬ場合も多い。我々は渇望するだろう。何を、又何に対してか。