7 認識、理解、共感

 

本多 謙 (2019/11/24

 

認識は厳密な意味で孤独だと述べた。しかし、我々は日常生活や仕事で他者とのコミュニケーション、あるいは文字や画像や音声を媒体にした情報を処理する過程で、認識を共有していることも事実である。この事実から、“許容誤差の範囲内“であれば“厳密でない”意味での認識の共有は可能だ、と言える。

 

「認識」は「理解」の基である。例えば、我々が数学の定理の証明文を読む場面を想定する。先ず我々は証明文を眼で捉える。これは我々が証明分を「認知」したからだ。次に我々は証明分を読む。これは証明文が証明分であること、つまりその意味を「認識」したからだ。次に我々は定理の証明文を読み、そこで説明されている論理の関係を「理解」する。

 

この場合僕以外の者が同じ証明文を読んで理解したとする。もしこの理解の程度が同等なら、彼の定理に関する論理の理解は僕の理解と同等であると言って良い。厳密な意味での両者の認識の相違があったとしてもそれは許容誤差の範囲内にあり、論理の理解という点で同等と言える。「厳密な意味での両者の認識の相違」とは、例えば、この証明文を理解する努力の程度、感想(つまり複雑な意味での“認識”)は僕個人の過去の経験や数学の能力に依存(depend)する。例えば、数学には集合や統計の様に様々な分野があり、誰にとっても過去に自分が努力して習得した得意分野があり、その分野の論文ならその分野の周辺領域に関する自分の知識を利用し、より“自由な”感じがするだろうし、反対に自分の不得意な分野の論文ならより“不自由な”感じがするだろう。この様な状況は“彼”の“認識”についても同じことが言える。従って、僕と彼の同一の証明文に対する“認識”は多くの場合異なる、ということだ。

 

我々が詩を読む場面を想定する。我々は詩を認識し、作者の感情に思いを馳せ、詩を理解したと思う。“彼”が同じことをした場合、彼の詩に対する理解は我々のものと同じだろうか?詩が鉛筆について語っているなら、詩の理解も鉛筆に関するものという点では同じだろうが、その鉛筆に関連する、付随する何物かについての理解は僕と彼の鉛筆というものに関する経験や記憶の違いが深く関係するだろうから、異なる(許容範囲を超えている)と言える。しかし、この場合、理解の相違は相互のコミュニケーションを通常は妨げない。かえってコミュニケーションの内容を豊富にする方に働くだろう。しかし、前に挙げた例での数式の理解の仕方が違うということなら、それは我々か彼か、又は我々も彼も数式の理解が誤っていた、即ち理解していなかったことになる。

 

即ち、理解には共有できるものと基本的に共有できないものがある。前者は論理(理屈)によるものであり、後者は感覚や感情によるものである。また、論理の理解は個人間で共有し易く、感覚や感情の理解は共有し難い。後者を共感により共有することはできるだろうか?厳密な意味で共有することはできるだろうか?それを計測する手段は無い。たとえ汗腺の発汗や心臓の鼓動や血圧を計測し、それらが同じタイミングで変化したのを計測しても、厳密な意味で共感した証明にはならないだろう。だが、許容誤差の範囲内では共感したとしても社会生活上は許されるだろう。同じサッカーの試合を観戦したり、同じ宗教的儀式に参加したり、同じ祭りに共に参加すれば参加者の間で共感が生まれる。(群衆の中で孤独を感じる者は常に一定数存在するが、それはここでは取り上げない。)

 

言うまでもないが、対象物に対する認識、理解、そして感覚や情緒を基にする共感を異なる個人間で共有することは個人が人生を生きてゆく上で様々な出来事に対処し個人間の関係を操作し社会生活を営む上で決定的に重要である。