8 主観的認識と客観的(科学的)認識

本多 謙(2019/12/1

 

 上の説明では、定理の証明文、詩を読む場合を対象にし、数学の定理の証明文や詩を読む場合の認識、理解の相違について述べ、論理(理屈)による認識・理解は共有し易く、感覚や感情による認識・理解は共有し難いことを述べた。この場合の認識は主観的認識だ。個人における認識は全て主観的認識だ。

 

経験はどんな人の経験でも経験という全体集合に対して部分集合を形成する。換言すれば、経験は常に限定的であり、経験の一種である主観的認識についても同様である。これはどの様な人においても成立する。従って、どの人も、自分の主観的認識が他者に対しても部分であり、同じ物に対しても他者の主観的認識は自分の主観的認識とは異なっていることに留意すべきだ。

 

では、対象とする定理の証明文が百なら、つまり百の定理に関する百の証明文なら、あるいはそれが千の場合どう考えたら良いだろうか?ABは独立した個人だから、百の証明文の内いくつかの証明文は両者が読んだことはあるだろう。その様な証明文についてAとBは理解を共有してコミュニケーションできるだろうが、その他の証明文ついてはコミュニケーションできない。

 

これは詩に関する主観的認識についても同様だ。人々は自他の主観的認識を許容範囲内で同一するまたは類似すると他者とコミュニケーションする。従って、どの人も、自分の認識が部分であり、同じ物に対しても他者の認識は自分の認識とは異なっていることに留意すべきだ。

 

では、百、千の定理の証明文の認識について、A、B共に読んで理解したと双方が思った証明文に限定した場合、その主観的認識はどう関係付けられ得るのだろうか?数学は科学の基礎だが、その基礎になっているのは認識というものに対する概念の共有である。数学の場合、或る定理の証明文をA,Bが読み、その論理が正しいと思い、反例を提示できなければその定理は正しい、とする。この定理の証明文はA,Bが後日、後年読んでも正しいと認めるものであり、A,B以外の任意のCが読んでも正しいと認めるものであり、世界中の誰が読んでも正しいと認めるものである。(但し、証明の正しさを判断できるだけの数学的素養の持ち主に限る。)正しいとされた定理は更に複雑な論理操作や高次の数学的証明の為に、証明作業無しに使うことができる。即ち数学の正しさに対する認識には普遍性がある。この普遍性を基礎に論理の積み上げが可能になる。

 

しかしながら、数学の定理の正しさには定義などの条件が伴う。科学の実験も同様の構造を持っている。研究者は実験室で実験し、発生した現象を基に理論を構築する。例えば金属の性質に関する実験を行い、発生した現象を記録し様々な可能性のなかから1つの理論を抽出する。この実験を研究者Aは何回も、必要な数だけ繰り返す。そして得た複数の現象を整理していくつかの仮説(仮の理論)を抽出する。A以外のBも同様な実験を複数回行い、得た複数の現象を整理してAが抽出した仮説の正しさを検証する。こうして正しさが証明された理論はA,Bが後日、後年実験しても同じ現象が発生するものであり、A,B以外の任意のCが実験しても同じ現象が発生するものであり、世界中の誰が実験しても同じ現象が発生するものである。こうして正しいとされた理論は更に複雑な現象の実験や装置の製造などに証明作業無しに使うことができる。即ち実験から抽出し関係者が共に認めた理論の正しさに対する認識には普遍性がある。この普遍性を基礎に論理の積み上げが可能になる。

 

この“客観的(科学的)認識による論理の積み上げが可能であること”が現代社会を構成する基礎になっている。この「積み上げ」による科学技術の発展により人類が構築する装置や設備は複雑性を増し巨大になり、それは巨大な都市運営システムを可能にし、住人の健康、福祉、安寧を増した。この大成功した科学技術の方法論が経済学に取り入れられ、経済学が発達し、様々な理論が展開された。経済学はモデル(実験設備に相当する)を作って過去の経済現象をそれに当てはめ、理論を抽出して来たが、人間社会の経済現象はそれを成立させる引数が多過ぎる為実験室の様な訳には行かず、常にその理論は不完全だった。従って複数の仮説が1つの理論に収斂することはなく、複数の理論がその正しさを競う結果となっている。しかしながら、斯かる制約にも拘らず経済学は複雑化した現代の経済活動の強力な道具になっている。なぜなら、科学技術による人間の身体能力の拡張が人間の能力を拡張し、それを活用した(時には戦争を伴う)経済活動が人間や人間集団(会社、一族、国家)の富、覇権を創るからだ。