本多 謙(2019/12/8) 云うまでも無く、人間の感覚器官はその能力に限界がある。超音波は聞こえないし、赤外線や紫外線は見えない。感覚器官を使って感知できなければそれを認識できない。認識できなければ感知した情報を使って理論を構築することもできない。そこで、感知できない現象を感知できる為の様々な道具を人間は作って来た。顕微鏡や眼鏡は眼の能力を拡張し、補聴器は耳の能力を拡張する。電話は声と耳の能力を拡張する。(昔は声の届く距離でしか会話できなかった。)カミオカンデを使えば宇宙の彼方から飛んでくるニュートリノを観測できる。これらのツールは認識可能な範囲を拡張する効果を提供する。即ち認識において梃子(leverage)の働きをする。認識する対象の範囲が広がればそれだけ積み上げできる論理の領域が拡大するからだ。 この梃子は客観的(科学的)認識ができる科学技術の領域や数学においては強力に働き我々の生活を豊かにして来た。研究者たちは先人が書いた研究成果を基に更に高レベルの研究をし、先人が開発した方法論や設備を基に更に効率的な生産を行った。この成果として疾病で死ぬ人の数は減少し、食料生産が増大し、人口が増加し、平均寿命が伸びた。 非科学技術分野ではどうだろうか?意識や認識は従来は哲学や心理学の対象だったが、例えば、脳科学の研究により「人間は自分の動作を意識する7秒前に脳はその動作を身体に指令している」ということが分かっている。我々はスポーツでの動作や日常の動作を無意識に行っていることがよくあることを認める。歩行者が車に撥ねられた後数秒間撥ねられる前の動作を続けようとする現象の理由がこれだろう。デカルト以来、意識や認識は哲学の自己認識の中心命題だったが、脳科学による客観的認識は自己とは何かについての認識を拡張する。哲学的課題に対して科学技術の方法論が梃子として働いた例といえる。 例えば、8世紀に編纂された万葉集の和歌や清少納言が11世紀に書いた枕草子の評価、鑑賞、研究においてこの梃子の原理は作用するのだろうか?これらの古典文学の研究は過去数百年に亘って行われており、その研究論文は多い。研究者はその多くの研究論文を読んで作品の認識を改め、その上で新説を立てるということはあるだろう。このプロセスは文字を眼で追って読み、その内容を理解して頭脳に蓄積し、それらを違った視点から理解し直して論旨を組み立てるというものだろうが、これは先人の研究者の行動を追体験するというものであり、このプロセスが過去数千年以上続いてきたと言えよう。現代において新しい要素といえば、テキストや画像が通信回線を通じてデジタルで送信して来たものであったりする点であったり、文献中の語彙の出現頻度や出現パターンを統計処理して統計的有意性を抽出することなどだろう。この様にして得られた情報は研究者間で共有され、それを基に研究者たちが批判し合い、新しい認識の高みに到達することもあるだろう。この場合、文学や神学のような文科系の事象にも認識において科学技術の方法論が梃子として働いたと言える。だがこの認識は主観的認識といえる。 だがこれは、枕草子の「春はあけぼの」を読んでどの様な春の景色を心の中に思い浮かべるか、とは別の問題だ。AとBがともに同じ「春はあけぼの」に関する論文を読んで或る認識の状態に至った後に各々が心に思い浮かべる春の景色が同一であることを証明する手段は、たとえAとBが同じ言語表現を用いて春の景色を語ったとしても、無い。なぜならこの「春を思い浮かべる」という行為は多分に情緒的であり読者の頭脳で閉じて行われる現象だからだ。 例えば体操では様々な技に名前が付けられ、技はその難易度に応じて分類される。体操の演技者は易しい技から始め、次第に難しい技を演技できるようになる。難しい技ができるということはそれだけ体操に対する認識の段階が上がったということだ。演技者は訓練を受ければ早く上達し、そうでなければ上達が遅れる。効果的な訓練は過去の指導者たちの体験を理論付け組織立てたものだろう。これが体操における主観的認識を高める梃子になる。 梃子を効果的にはたらかせるには演技者は指導者や他の演技者と演技を共有する環境が必要だ。同じことはスポーツやダンスや歌などの身体の微妙な動きを要する技能一般や、形而上学の構築物である宗教にも言える。宗教施設が僧院などの共同生活機構を持つのはその為だ。宗教ばかりではない、プログラミングや数学や科学技術の研究においても梃子の働きはある。 だが、論理が主体の科学技術や数学では先人の成果の上に更に自分の研究などの成果を積み重ね、客観的認識の段階を上げることができる。これに対して、直観や微妙な身体運動などの情緒に深く由来する主観的認識では、我々は先人の体験を追体験することでした同じ認識に到達できない。人は死ぬ。新しく生まれた人は同じように追体験し先人と同じ主観的認識に到達しようとする。だが、どんなに努力しても目標とする先人と同じ主観的認識に到達できたかどうかは不明だ。 |