1 神的存在

本多 謙(2019/12/20

 

人間は群れを作り群の中で生きる社会的動物だ。個人は他者と概念を共有しなければ生きて行けない。鉛筆や万有引力の法則の様な具体性のある物は誤差の許容範囲内でだが他者と認識を共有できる。「春はあけぼの」は体験と想像力を基に、においてだが他者と認識を共有できる。

 

では、生病老死についてどうだろうか。どんな個人も生まれ、病み、老い、死ぬという体験をする。その限りではこの具体的現象や体験に対する認識を他者と共有できる。だが、「何故?」という要素がそこに加わると、この具体性は霧散する。自分や親しい他人が「何故生まれて生きて行かなくてはならないのか?」、「何故病気になってこんなに苦しむのか?」、「何故は老いてあらゆる能力が低下し苦しむのか?」、「何故死ぬのか?死んだ後どうなるのか?」、そして「何故自分は存在するのか?その存在にどの様な意味があるのか?」は数千年の間人類が考えて来た課題だ。これらの疑問に対する人類への唯一解は未だ無い。

 

だが、人が生まれれば同じ群の人々はその誕生を互いに祝福し、死ねば同じ群の人々は葬儀を主催し或いは葬儀に参加し、故人の冥福を祈る。類人猿の化石を発掘するとその周囲に花粉が集まっていることから、人類は類人猿の時代から死者に花を手向け弔い死者との別れを悼んだことが推測されている。文明時代以降はそこには神道や仏教やキリスト教などの宗教が介在する。宗教は我々の日常の行為を特徴付ける。無宗教の者の場合でも、同じ群の人々は集まり、頭を垂れて黙祷したり、食事をしたり、何かしらの共同の行為をする。これらに共通するのは「神的存在」である。

 

我々が真っ暗な夜道を歩く場合、道端の石に躓いたとしよう。躓いた本人にはその石は見えなくとも、躓いたその事によって彼はそこに石が、地面に固定された状態で存在していたことを知らしめられる。石ころ以上に漠とした存在である神的存在は漠としているが故に我々にはとらえどころがなく、恐れの対象であってもつかみどころがなく、それに対する我々の恐怖感が確かなものであるにもかかわらず、その対象を具体化し難い。従って人間は恐れの対象を具体化し、具象化しようとする。神的存在に対する我々の恐れは我々の存在そのものに対する不安、恐れでもある。具象化された我々の神的存在は我々の想像力によって「神」となり、神話の世界で活躍し始める。

 

斯かる対象に人間の群が対処する時の共通言語として「神的存在」が必要だ。神道や仏教やキリスト教の葬儀の様式はそれを具象化したものだ。結婚式も、社会的な意味は別として、どうなるか分からない未来の人生を一組の男女が共に作り上げる作業を開始する上での不安があるからだ。興味深いのは、無神論の共産主義国だったソ連の後継であるロシアの大統領の就任式にロシア正教会の総主教が列席したり、米国大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓したり、共産主義国の中華人民共和国の総主席候補がそれに選任される前に日本の天皇に面会して総主席に相応しいレベルの者であることを顕示する習慣があることだ。これらに共通しているのは国の指導者として国民を率いて行く上での不安と、それに対処するのに「神的存在」を以てすることだ。

 

これは政治の世界だけではない。我々の人生の多くの節々で我々は「神的存在」に対処する。それは七五三であり、誕生日であり、入学式であり、卒業式であり、入社式であり、様々な記念日や記念式典等々だ。