1 論理とその機能

本多 謙(2020/1/15

 

理解する対象には2種類ある。論理(logic)で理解できるものと論理では理解できないものだ。論理で理解できるものの例として万有引力の法則の理解を挙げる。

理解するというのは基本的に個人の行為だ。この理解は、例えば小学校で先生から、林檎が樹から落ちるのを見たニュートンのエピソードを紹介され、後年数学の授業で物体の自由落下の法則を数式として教えられ、その実験してその数式の正しさが証明されて納得し、更に宇宙の星々の軌道が重力と引力によって決まることを学ぶ、という過程で発生する。万有引力の法則の理解と言っても色々な段階がある。

この過程は、自己が他者(又は本やビデオなどの様々な媒体)からの情報を受け入れ、その中の論理を認識し、それを否定する論理が無く、その論理を異なった条件で試して成立することを確かめる、というものになるだろう。換言すれば、この過程は情報の入力と論理の検証から成り立っている。この“情報の入力”は自己の周囲からの情報として非意図的に発生することもあるし、(ネットで検索するとか)自己の興味に従って発生する意図的な場合もある。

この自己の理解を他者と共有するには、他者にこの法則の論理(logic)を情報として提供し、それを理解せしめる必要がある。この情報の伝達には媒体を使う。この媒体は文字情報や口頭やビデオなどだ。斯くして法則という論理の理解は共有できる。何故なら、それが論理だからだ。

「春はあけぼの」の理解(認識)は個人の行為であって、この様な方法では共有できない。だが、近似的なイメージを互いに共有することはできるだろう。ABに「春はあけぼの」のイメージを共有しようとする時、Aは京都の春の早暁の気温、湿度を伝え、朝焼け空の写真を見せ、言語を使って体験談を語るかも知れない。Bはこれらの情報を受取って共感するかも知れない。共感が発生するのは、BAから受け取った情報がBの体験から記憶として蓄積してきた情報と整合性が取れた場合だ。即ち、共感は論理の上に成立する。

生病老死も同様に個人の行為(体験)であってそれを他者と共有することはできない。周囲の者はそれを体験した者に共感し、また思いやることはできる。だが例えば、誰かが死んだ時、死者の属する群(community)は死者を弔い遺された者を慰め、死者が占めていた社会的及び機能的空間の空白を埋める為に様々な行為を行う。それらの行為は個人の集合体の行為であり、その集合体の構成員は死という一つの現象を共有し共感することで集合体の行為を成立させる。その行為は死という現象を前にした「神的存在」を共通言語として行われる。

言語には文法が必須だ。文法が言語を成立せしめていると言っても良い。文法は論理の集合体だ。外国語を聞いて理解できないのはその言語の文法(論理)と単語の意味を理解していないからだ。従って、言語の論理(文法)と単語の意味を理解すればその言語は理解できる。これは「神的存在」という共通言語においても同様である。ここに論理の機能が見える。

言語の使用形態には2種類ある。1つは他者と情報を共有する為であり、もう1つは自己の内部で思考する為だ。思考は厳密には無意識の世界で行われるが、それを言語として表象させることによりその思考を整理し、言語として客観的に表意し、他者と共有することができる。「神的存在」という共通言語においても同様である。

多くの神話が天地創造から始まっているのは、我々に根源的な質問に対する回答を具象化した結果だ。根源的な質問とは、「我々が生きている世界はどうやってできたのか?」、「そこに住む我々は何者なのか?」等々である。だが、具象化した結果それは世界の理解についてある種の偏りを産む。例えば、「唯一神が天地を造ってから七日目に人間を土から作った」という出発点から生まれた世界観は、「混沌のうち、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となり、そして神々が生まれた」から始まる世界観とは異なる。異なる理由は異なった前提条件を基に想像や推理や類推や関連する記憶やエピソードなどを積み上げて、即ち異なった論理に従って連続した物語を各々造ったからだ。

万有引力の法則は論理そのものであって、何時でも何処でも検証可能だ。神話が万有引力の法則と異なるのは、神話が実験によって誰でも何時でも何処でも再現し検証できるのではなく、群(community)の記憶として何千年間存続し、共有され、我々個人及び群の文化として無意識の世界から我々の思考を制御しようとする、論理によって構築された形而上学だからだ。神学はその進化形だ。